赤い部屋の記憶
大学院生の理沙が新しい下宿先の部屋を見た時、不思議な既視感に襲われた。
赤みがかった光に包まれた書斎兼寝室。壁一面の本棚、小さな机とベッド。そして、どこからか立ち上る白い煙のような霧。
「前にここに来たことがあるような…」
しかし、それは不可能だった。この街に来るのは初めてのはずだ。
大家の老人は曖昧に笑った。
「そう言う人が多いんです。この部屋は特別でして」
入居して最初の夜、理沙は奇妙な夢を見た。
同じ部屋で、誰かが机に向かって何かを書いている。その人物の後ろ姿は理沙によく似ていたが、髪型が少し違った。
夢の中の人物が振り返ると、確かに理沙の顔だった。しかし、その目には深い絶望が宿っていた。
「まだ、終わらない」
夢の中の理沙がそうつぶやいて、机の引き出しからナイフを取り出した。そして、自分の手首に向けて…
理沙は飛び起きた。
机の上には、見覚えのないノートが置かれていた。そして、引き出しには古いナイフが深々と突き刺さっていた。
ノートを開くと、自分の筆跡で文章が書かれていた。
『1周目 失敗』
『2周目 失敗』『3周目 失敗』
延々と「失敗」という文字が続いている。そして最後に、
『今度こそ、思い出して』
理沙は背筋が凍った。自分が書いた覚えは全くない。
しかし、確かに自分の字だった。
恐る恐る引き出しを見ると、古いナイフが木材に深く突き刺さっている。刃の部分には茶色く変色した跡がついていた。血痕のように見えた。
理沙はナイフを抜こうとしたが、まるで木に根を張ったかのように、びくともしなかった。
翌日、理沙は大学の図書館でこの下宿について調べてみた。
古い新聞記事に、気になる記事を見つけた。
『謎の連続自殺 同じ部屋で5年間に7人』
記事によると、理沙が借りた部屋で、過去5年間に7人の学生が自殺していた。全員が理沙と同じような容姿の女性で、全員が手首を切って自殺。遺書には「研究が完成しない」と書かれていた。
そして、全員の自殺に使われた凶器が、同じナイフだったという。
「あのナイフ…」
理沙は写真を見て愕然とした。自殺した女性たちは、皆理沙にそっくりだった。
その夜から、部屋の異変が激しくなった。
壁から立ち上る煙が文字を作り、空中に浮かぶ。
『思い出して』
『あなたは何度も来ている』
『毎回、同じことを繰り返している』
理沙は煙に向かって叫んだ。
「私は初めてよ! 何を思い出せというの?」
すると、本棚から一冊の本が勝手に落ちてきた。開いたページには、理沙の写真が貼られていた。しかし、その写真の理沙は今より少し若く見えた。
写真の下に日付が書かれている。3年前の日付だった。
理沙は混乱した記憶を辿ろうとした。3年前、自分は何をしていただろう。
そうだ、別の大学院にいた。そして、研究がうまくいかず、挫折して…
「まさか」
理沙は慌ててクローゼットを開けた。奥から古いダンボール箱が出てきた。中には、3年前の研究資料が入っていた。
そして、当時の日記。
『この研究を完成させないと、私は永遠にここから出られない』
『また失敗した。でも諦めるわけにはいかない』
『今度こそ、今度こそ…』
『もう限界。机のナイフが私を呼んでいる』
日記を読み進めるうちに、記憶が蘇ってきた。
理沙は3年前、確かにこの部屋に住んでいた。そして、ある重要な研究を完成させようと必死になっていた。
しかし、研究は失敗に終わり、理沙は絶望して…
「私は死んだの?」
鏡を見ると、自分の姿が薄っすらと透けて見えた。
そして、壁の煙が再び文字を作った。
『あなたは死んでいない。ただ、時間がループしている』
『研究を完成させるまで、何度でも同じ時を繰り返す』
理沙は真相を理解した。
この部屋には、未完成の研究への執念が蓄積されている。そして、その研究に取り憑かれた者は、完成させるまで永遠にここから出られない。
過去の「自分」たちは、皆その犠牲者だったのだ。絶望してナイフで自分を傷つけ、しかし死ぬこともできず、再び同じ時間を繰り返す。
「でも、どうやって完成させるの? もう答えなんて忘れてしまった」
その時、机の引き出しのナイフが光った。そして刃に文字が浮かんだ。
『思い出すのよ』
突然、部屋に別の声が響いた。振り返ると、過去の自分たちが立っていた。
様々な年齢、様々な髪型の理沙たちが。皆、手首に古い傷跡がある。
「私たちの記憶を使いなさい」
過去の理沙たちは、それぞれ違うアプローチで研究に取り組んでいた。ある理沙は数学的手法を、別の理沙は文学的考察を、また別の理沙は哲学的アプローチを試していた。
「一人では無理だった研究も、みんなの知識を合わせれば…」
理沙は机に向かった。過去の自分たちが見守る中、ペンを取る。
そして、ついに答えが見えた。
『人間の記憶と時間の関係性についての完全理論』
それは、まさに理沙が今体験していることの学術的解明だった。
研究を完成させた瞬間、部屋の赤い光が消えた。
過去の理沙たちも、満足そうに微笑んで消えていく。
そして、机の引き出しからナイフがひとりでに抜けて、霧のように消散した。
「ありがとう」
理沙は過去の自分たちに手を振った。
そして気がつくと、理沙は大学院の研究室にいた。手元には完成した論文がある。時計を見ると、3年前の日付を示していた。
「これは…」
理沙は混乱した。あの赤い部屋での体験は夢だったのか。
しかし、論文は確実に完成していた。そして、内容は間違いなく、あの部屋で過去の自分たちと協力して書き上げたものだった。
理沙は恐る恐るその下宿の住所を調べてみた。
その住所には、今は別の建物が建っていた。赤い部屋など、存在していなかった。
「じゃあ、あれは何だったの?」
理沙は論文の最後のページを見た。そこには、こう書かれていた。
『時間は円環である。過去と未来は、記憶の中で永遠に繋がっている』
数年後、理沙の論文は高く評価され、彼女は時間論の権威として知られるようになった。
しかし、時々夢に見る。赤い部屋で、絶望的になって研究に取り組む別の自分たちを。
そして理沙は理解している。
あの部屋は、諦めない意志が作り出した時空の歪みだったのだと。
未完成への執念が、時間そのものを歪め、無数の可能性の自分を一つの場所に集めたのだと。
理沙は今も研究を続けている。
今度は、別の誰かがあの赤い部屋に捕らわれることがないよう、時間の謎を解き明かすために。
大学院の記録:理沙の論文『記憶による時間理論』は、執筆期間が異常に短く、一夜にして完成したと記録されている。本人は「過去の自分たちが手伝ってくれた」と冗談めかして語っているが、その真意は不明である。
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