食卓のもう一人
真鍮のシャンデリアが薄暗く照らすダイニングルーム。テーブルには、夕食の用意が整っていた。熱を帯びたスープ、焼きたてのパン、そしてローストミート。
だが、席に着いた家族は三人――父の慎一郎、母の由美、そして主人公である高校生の透。
透は箸を取る手が止まった。食卓には、四人分の食器がきっちりと並べられている。透の真正面、いつもは壁際に寄せられているはずの黒い椅子が、テーブルに引き寄せられ、完璧な空席を作っていた。
「ねぇ、お皿、一つ多いよ」透は言った。
父の慎一郎は肉を切り分けながら、不思議そうな顔をした。「何を言っているんだ、透。ずっと四人分だろう? この家に来てからずっとだ」
母の由美も頷いた。「さあ、早く座って。冷めちゃうわよ、あの子が帰ってきちゃう前にね」
あの子? 透は困惑した。自分には兄も妹もいない。両親は至って真剣で、まるで透の記憶が間違っているかのように振る舞う。透はつい最近、この家に引っ越してきたばかりだ。
食事中も、透の視線は空席に釘付けだった。由美は、時折その空席に向かって「熱いからゆっくり食べるのよ」と声をかける。
そして、透がスープを飲み終えたとき、空席の異変に気づいた。
その席の皿は、明らかに誰かが食べた跡があった。
スプーンはスープ皿の縁にかけられたまま。パンは一口分だけ千切られ、パンくずが残っている。肉の皿は、骨の周りだけが綺麗に削ぎ取られていた。まるで、目に見えない誰かが、つい数分前までそこに座っていたかのように。
「誰が食べたの、これ」透は震える声で尋ねた。
両親は目を見合わせ、くすくすと笑った。
「あなたも変なことを言う子ね。〇〇が食べたに決まっているでしょう」由美は、**『〇〇』**と、誰も知らない名前を当然のように口にした。
透は冷や汗をかいた。自分の記憶と、目の前の現実との間に、恐ろしいほどの亀裂を感じた。
透は突然、その空席に座ってみるという衝動に駆られた。その存在の正体を、この物理的な行為で暴けるのではないか。
彼は立ち上がり、両親が止める間もなく、空席の黒い椅子に腰を下ろした。
その瞬間、部屋が微かに揺れた。
シャンデリアのチェーンがきしむ音。食器が僅かにぶつかり合う音。透の座った場所だけが、奇妙に冷たい。
そして、遠く、家のどこかから、甲高く、嘲るような女の笑い声が、**「キャハハハハ」**と響いてきた。
父の慎一郎が激怒したように叫んだ。「透! 何をしている! その席に座っちゃいけない!」
透は恐怖で動けない。座った椅子の黒い影が、奇妙なほど長く、そして濃く、床に伸びているのが見えた。その影は、椅子の形を超え、まるで小さな子供が座っているような形をしていた。
由美は怯えた目で透を見つめ、テーブルを指差した。「ほら、〇〇が怒っているわ…」
透は椅子の背後に立つ壁に目をやった。透の座った席の真後ろ、視線の高さに、気づかなかった小さな傷がある。それは鋭利な何かで引っ掻いたような、不揃いな三本の爪痕だった。
透は気づいた。この黒い椅子と壁の傷は、**「誰か」**が座っていた証拠ではない。
**「誰か」**が、ここに座ることを強く拒絶し、もがき、抵抗していた証拠ではないか。
この椅子は、「〇〇」のための席ではない。「〇〇」にされるための席なのだ。
その笑い声が、再び、今度は天井裏から響いた。「キャハハハハ!見つけた!」
透は椅子から飛び降りようともがくが、体が動かない。椅子の黒い影が、まるで彼を掴んでいるかのように濃くなっていく。
父の慎一郎が、透の肩に手を置いた。その手は冷たく、力強い。
「透。君は、あの子の代わりなんだ」慎一郎は透の耳元で囁いた。「あの子は、外の世界が恋しくなって、この椅子から逃げてしまった。だから、君がここに来た。この家は、四人分の役割が常に必要なんだ」
透の視界の端で、由美が空席の皿に、丁寧にローストミートの最も美味しい部分を盛り付けているのが見えた。
透が最後に見た光景は、彼が座っていた黒い椅子の影が、椅子を降りた透自身の影と重なり合い、その影の輪郭が、徐々に小さな子供の形に歪んでいく瞬間だった。
部屋は再び揺れた。しかし、今回は遠い笑い声ではない。
それは、透の喉の奥から、**「キャハハハハ」**という、自分の声ではない、甲高い笑い声が込み上げてくるのだった。
そして、その夜。
食卓には、何事もなかったかのように、四人分の食器が用意されていた。そして、透が座っていたはずの椅子は、また空席に戻っていた。
由美は優しく微笑み、空席に向かって言った。
「さあ、早く座って。あの子が帰ってきちゃう前にね」
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