聖夜の残響
凍えるようなクリスマスイブの夜。街はイルミネーションの光に包まれていたが、僕が立っているこの場所だけは、深い影の中だった。
「ごめんね、もう、終わりにしよう」
僕の隣にいた**美沙**は、そう言って、静かに僕から手を離した。雪が降り始めたばかりの六年前のクリスマスイブ、初めて手を繋いだ、この場所で。
「どうして……」
震える声で尋ねる僕に、美沙は寂しそうに微笑んだ。
「理由なんて、どうでもいいよ。ただね、私はもう、君の隣にいる資格がないの」
それだけを言い残し、美沙は雑踏の中に消えていった。僕は立ち尽くしたまま、粉雪が僕たちの足跡をそっと消していくのを見ていた。それが、僕が見た美沙の最後の姿になった。
美沙がいなくなって六年。毎年この時期になると、僕は決まってあの夜のことを思い出す。
今年のクリスマスイブも、僕は一人、自室でぼんやりと過ごしていた。部屋の隅には、美沙と二人で飾り付けた、小さくて少し歪なクリスマスツリー。六年経っても、処分することができなかった。
「ピンポーン」
突然、インターホンが鳴った。こんな時間に誰だろう。玄関ドアの覗き穴から外を覗くと、誰もいない。配達でもないようだ。不審に思いながらも、ドアチェーンをかけたまま、そっとドアを開けた。
「……誰も、いない」
その時、足元に一輪の白い薔薇が落ちているのに気づいた。少しだけ霜に打たれた、冷たい薔薇。そして、薔薇の茎に結び付けられた小さなメッセージカード。
「あの部屋で待ってる」
震える手でカードを裏返すと、そこには見覚えのある筆跡で、僕のアパートの301号室と書かれていた。
301号室。それは僕が初めて美沙と同棲を始めたアパートの部屋だ。古いアパートだったけれど、二人にとってはかけがえのない、温かい巣だった。美沙が去った後、僕は耐えられなくなってすぐに引っ越してしまったが、まだ残っているのだろうか。
いてもたってもいられず、僕はタクシーに飛び乗って、あの古いアパートへと向かった。
アパートは当時のまま、薄暗い通路に寒々とした空気を纏って建っていた。昇降機はなく、埃っぽい階段を上がる。301号室の前まで来ると、ドアノブにまた白い薔薇が一輪、挿してあった。
メッセージカードはついていない。意を決してノブに手をかけると、鍵はかかっていなかった。
「……美沙?」
軋むドアを開けて部屋に入ると、そこは、まるで時間が止まったようだった。
僕らが使っていた、使い古しの家具。二人で買った、センスのないカーテン。そして、部屋の中央には、美沙がいつも座っていたロッキングチェア。
そしてその椅子に、美沙が座っていた。
「来てくれたんだ」
美沙はあの日のままの、少し憂いを帯びた笑顔で僕を見た。僕は涙と歓喜で声が出ない。
「どこにいたの?どうして何も言わずに……」
僕は美沙に駆け寄ろうとした。しかし、その瞬間、視界の隅で美沙の足元に広がる水溜まりのようなものに目が留まった。それは、ただの水ではない。血のような赤黒い液体が、ロッキングチェアの周りを静かに濡らしていた。
そして、美沙の表情が、一瞬にして凍りついた。彼女の瞳には、僕ではない何かを恐れるような、強い怯えが宿っていた。
「ダメっ、触れちゃだめ!」
美沙が悲鳴のような声を上げた。僕が立ち止まったその時、彼女の身体が、まるで煙のように薄く、透け始めた。
「私ね、あの日の夜、交通事故に遭ったの。この部屋を出た、すぐに……」
美沙の声は、遠く、細い糸のように聞こえた。
「私はずっと、君が来るのを待ってた。だって、約束したでしょう?来年のクリスマスも、その次のクリスマスも、ずっと二人で過ごそうって……」
美沙の身体は、もうほとんど透明になっていた。彼女の心臓があったあたりに、まるで内側から光るような、ガラスの破片のようなものがキラキラと輝いているのが見えた。
「でも、もう、時間がないみたい」
美沙は、かすかに笑った。そして、透明な手のひらを僕の方に差し伸べた。
「あのね、もし君が私に触れたら、君も私も、永遠にこの部屋に囚われちゃう。だから、お願い。私を忘れて。新しい幸せを見つけて」
その言葉と同時に、美沙の姿は完全に消え失せた。ロッキングチェアだけが、静かに揺れている。部屋に充満していたのは、冷たい空気と、そして、一瞬だけ嗅いだような気がした、鉄と薔薇の甘い香り。
僕は、あの部屋から逃げ出すように、自分の部屋に戻ってきた。
そして、部屋の隅にあるクリスマスツリーを見た。ツリーのてっぺんの星飾りが、さっきまでなかったはずの、赤黒い液体で汚れていた。
僕は恐怖に駆られ、ツリーを倒し、飾りを剥がし、全てをゴミ袋に詰め込んだ。
これで、もう何も残っていない。僕の人生から、美沙は完全にいなくなったんだ。
そう、自分に言い聞かせた、その時。
「ピンポーン」
また、インターホンが鳴った。覗き穴を覗くと、やはり誰もいない。
そして、足元に、一輪の白い薔薇が落ちていた。
茎には、またメッセージカードが結ばれている。
「来年のクリスマスも、あの部屋で待ってるね」
僕の手は震え、薔薇を取り上げることができない。僕が美沙を忘れない限り、僕はこの呪われたアパート、この怖い部屋に、毎年クリスマスの夜、呼ばれ続けるのだろうか。
ノブを回せば、美沙の待つあの部屋に、僕の魂もまた囚われてしまうのだろうか。
僕は、目を閉じて、静かに、インターホンが鳴り響くのを待った。




