止まない雫
その部屋は、家賃は破格だったが、致命的な欠陥があった。
壁や天井から、常に水が漏れているのだ。
しかし、水ではない。それは、透明で、粘り気があり、ほんのりと塩気を含んでいた。
涙だった。
アパートの二階。六畳一間のその部屋に越してきて一週間、佐伯はその現象に慣れてしまった。いや、慣れるしかなかった。壁紙は常に湿り、天井からは一滴、また一滴と、まるで誰かが絶え間なく泣いているかのように、雫が落ちてくる。
「前の住人は、相当な悲劇に見舞われたんだろうな」
佐伯はそう解釈していた。集合住宅には、過去の住人の「残留思念」が残ることがある、という話を信じるタイプだった。
しかし、ある深夜。佐伯は部屋の隅に座り込み、天井から落ちてくる雫をぼんやりと見上げていた時、違和感に気づいた。
雫は、いつも同じ場所から落ちてくる。
天井の中央、直径五センチほどの染み。そこから、まるで蛇口をひねったように、静かに、しかし確実に、雫が滴り続けている。
佐伯は立ち上がり、椅子に乗って、天井の染みに手を伸ばした。
濡れた壁紙を剥がしてみる。
下からは、古びた石膏ボードが現れた。そのボードにも、同じように、雫の跡がついていた。
佐伯は指先に力を込め、ボードの湿った部分を少しだけ削り取ってみた。
すると、その奥に、空洞が現れた。
天井裏ではない。まるで、壁の内部にだけ、小さな空間があるような、不自然な空洞。
そして、その空洞の奥から、微かに、嗚咽のような音が聞こえてきたのだ。
「誰かいるのか…?」
佐伯は震える手で、懐中電灯を空洞の穴に向けた。
穴は小さすぎて、奥まで見通せない。しかし、光が届いたその一瞬、佐伯は空洞の「壁」が、まるで人間の皮膚のように、白く滑らかであるのを見てしまった。
そして、その白い壁の中央に、黒い**「目」**のような窪みが、一つだけ存在していた。
その「目」は、佐伯が光を向けた瞬間、ゆっくりと見開かれた。
恐怖で体が硬直する佐伯。その時、その「目」から、透明な雫が、ツーッと流れ出した。
それが、この部屋の**「涙」**の正体だった。
雫は穴から溢れ出し、佐伯の顔に滴り落ちた。塩辛く、そして、熱い。
その雫は、佐伯の頬を伝い、口の中に滑り込んだ。
次の瞬間、佐伯の脳内に、耐え難いほどの「悲しみ」が流れ込んできた。
捨てられた。
独りになった。
ここから出られない。
誰も見つけてくれない。
その感情は、佐伯自身の悲しみではない。壁の奥にいる**「何か」**の絶望だった。
佐伯は椅子から転げ落ちた。部屋中に、自分の、そして、天井の奥からの、二重の嗚咽が響き渡る。
佐伯は、泣きながら、知ってしまった。
この部屋は、泣いているのではない。
この部屋の壁は、**「誰か」**を閉じ込めて、その悲しみを、ずっと、ずっと、絞り出しているのだと。
そして、今。
天井の穴から、ぼたり、と、一回り大きな雫が落ちてきた。
それは、佐伯が、この怖い部屋の新しい「客」として、その「涙」を永遠に浴び続けることを意味していた。
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あなたが今いるその部屋も、いつか物語の舞台になるかもしれないことを。
気づかないうちに、誰かがすでにあなたの部屋に潜んでいるかもしれません。




