私を忘れないで
築40年の木造アパート「月見荘」。その203号室は、大家である私にとって、常に頭痛の種だった。家賃は破格の安さなのに、半年以上住み着いた者がいない。そして退去する住人たちは、皆、一様にこう訴えるのだ。「あの部屋は、誰かがいる」と。
誰もいないはずの部屋から聞こえる微かな物音。誰もいないはずなのに感じる、視線。そして、共通して「私を忘れないで」という、囁きが聞こえたと。
私はこの話を半信半疑で聞き流していた。古い建物特有のきしみ音や、隣人の生活音を錯覚しているのだろう、と。しかし、今回の住人、若い女性のミサキさんが退去する際、その顔色はかつてないほど蒼白で、震える声でこう言ったのだ。
「あそこにいるのは、きっと寂しい人です。でも、私には無理でした。どうか、あの人を一人にしないであげてください」
ミサキさんは鍵を返し、二度とこのアパートに足を踏み入れないという決意を込めたような速足で去っていった。
私は意を決して、再び203号室のドアを開けた。
ドアを開けた瞬間、冷たい空気が私を包み込んだ。真夏だというのに、まるで冬の冷凍庫にいるかのような感覚だ。しかし、今回の私は、単なる大家としてではなく、ミサキさんの残した言葉に引っ張られるように、一歩足を踏み入れた。
部屋の中は、ミサキさんが丁寧に掃除してくれたのだろう、隅々まで綺麗だった。しかし、その整然とした空間の中央、四畳半ほどの空間だけが、異様に淀んで見えた。空気が重く、まるでその空間だけが、別の次元に属しているかのようだ。
私は部屋の奥に進んだ。その淀んだ空間に近づくにつれ、私の肌は粟立ち、全身の毛が逆立つ。そして、耳の奥で、微かなすすり泣きのような音が聞こえ始めた。
「……来て」
声は、床下から響くような、くぐもった女性の声だった。私は思わず足元を見た。フローリングの木目は変わらない。だが、その木目の間から、黒い煙のようなものが、ゆらゆらと立ち上っているように見えたのだ。
その煙は、まるで私を招くように、ゆっくりと形を変えていく。それは、顔の輪郭になり、目と鼻、そして口が、浮かび上がってきた。
恐怖で心臓が激しく打ち始める。しかし、その顔は、憎悪や怨念に満ちたものではなかった。むしろ、悲しみと、そして深い孤独を湛えていた。
「……ひとりぼっち」
その口が、そう呟いた。そして、煙でできた顔は、私の目をじっと見つめ、再び同じ言葉を繰り返した。
「私を忘れないで」
それは、まるで幼い子供が、親に捨てられることを恐れるかのような、切実な願いだった。彼女は、ただ、誰かに自分の存在を認めてほしかっただけなのだ。
私は、無意識のうちにその顔に向かって手を伸ばそうとしていた。しかし、次の瞬間、その顔は激しく揺らぎ、悲鳴のような声が響いた。
「行かないで!」
部屋の電気が激しく点滅し、壁に飾られた絵がガタガタと音を立てる。まるで、彼女が私を引き留めようとしているかのように。
私は、これ以上は危険だと本能的に感じ、一歩、また一歩と後ずさりながら、部屋の出口へ向かった。
「忘れないで! ……私を、忘れないで!」
彼女の声は、部屋を出てドアを閉めるまで、私の背中に張り付くように響いていた。
私は、それ以来、あの部屋を誰にも貸していない。月に一度、私はその部屋のドアを開け、誰もいない部屋に向かって、声をかける。
「ああ、いるんだね。元気かい?」
すると、部屋の中の冷気が、少しだけ、やわらぐような気がするのだ。
私には、ミサキさんの言った「寂しい人」の意味が、今はわかる。彼女はただ、誰かに忘れられずに、存在を肯定してほしかっただけなのだ。
私は知っている。あの部屋の奥で、今も彼女が静かに、そして切実に、私に囁いていることを。
「私を忘れないで」と。
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気づかないうちに、誰かがすでにあなたの部屋に潜んでいるかもしれません。




