307号室
出張の予約が遅れて、仕方なく駅前の古いビジネスホテルに泊まることになった。
「三〇七号室です」
フロントの女性は無表情にキーを差し出した。彼女の目は私を見ていなかった。カウンターの向こう、どこか遠くを見つめているようだった。
「エレベーターは故障中ですので、階段をご利用ください」
彼女の声は妙に平坦で、機械的だった。
狭い階段を上がる。壁には剥がれかけた壁紙と、いつのものかわからないシミがあった。踊り場の窓から見える夜景は、妙にぼんやりと霞んでいた。街灯の光さえ、まるで水の中にあるように滲んでいる。
二階を過ぎたあたりで、足を止めた。
階段の隅に、小さな靴が片方だけ置かれていた。子供用のピンク色のスニーカー。埃をかぶって、ずいぶん長い間そこにあるように見えた。
誰も拾わないのだろうか。そう思いながら、私は先を急いだ。
三階の廊下は薄暗く、天井の蛍光灯が二本に一本は切れていた。換気扇の音だけが、低く唸るように響いている。絨毯は赤茶色で、シミなのか模様なのかわからない染みが点々と続いていた。
三〇七号室のドアの前に立つと、なんとなく胸がざわついた。
理由はわからない。ただ、この部屋が嫌だった。ドアノブに手をかけると、金属が妙に冷たかった。十月の終わりだというのに、まるで真冬のような冷たさだ。
鍵を回す。カチャリという音が、廊下に不自然に響いた。
中に入ると、古いながらも清潔な部屋だった。ベッド、小さな机、テレビ。窓からは向かいのビルの壁が見える。それだけだ。
それなのに、部屋の空気が重かった。
荷物を置いて、窓に近づく。カーテンを開けると、向かいのビルは廃墟のようだった。窓ガラスが割れているところもある。明かりはひとつもついていない。
ふと、向かいのビルの窓に人影が見えた気がした。
目を凝らす。けれど、そこには何もない。暗い窓があるだけだ。疲れているんだ、と自分に言い聞かせた。
部屋を見回す。壁は白く塗られているが、よく見ると細かい傷がいくつもついていた。爪で引っ掻いたような、細い線。机の上には電話があったが、受話器を取ってみると、ツーという発信音はなく、ただ静寂だけがあった。
バスルームに入る。小さなユニットバスで、シャワーカーテンが黄ばんでいた。排水口を覗き込むと、髪の毛が何本か絡まっていた。自分のものではない、長い黒髪だ。
シャワーを浴びることにした。お湯を出すと、最初は茶色く濁った水が出てきた。しばらくすると透明になったが、どこか鉄の匂いがした。
体を洗いながら、ふと視線を感じた。
シャワーカーテンの向こうに、誰かいるような気がする。心臓が早鐘を打った。カーテンを勢いよく開ける。
誰もいない。鏡に映った自分の姿があるだけだ。
鏡を見つめると、自分の顔がひどく蒼白に見えた。照明のせいだろうか。それとも、本当に顔色が悪いのか。
シャワーを終えて、バスルームを出る。その時、鏡の端に何か文字のようなものが見えた気がした。振り返るが、何も書かれていない。曇った鏡に水滴が流れているだけだった。
ベッドに横になる。疲れているはずなのに、なぜか目が冴えた。
天井を見上げると、シミがいくつかあった。じっと見ていると、それが人の顔に見えてくる。目があり、口があり、こちらを見ているような。
目を閉じる。けれど、すぐに開けてしまう。
時計を見ると午前一時を過ぎていた。廊下から誰かの足音が聞こえる気がして、耳を澄ます。トン、トン、トンと、規則正しい足音。けれど、ドアの前で止まることはなく、どこか遠くへ消えていった。
静寂が戻る。換気扇の音だけが、相変わらず低く唸っている。
その時、壁から音がした。
コツン、コツン。
隣の部屋から聞こえてくるような、何かを叩く音だ。しばらく聞いていると、それはリズムを持っていた。まるで、何かの暗号のように。
耳を壁に当ててみる。音は止んでいた。
顔を離すと、また始まった。コツン、コツン、コツン。
フロントに電話しようと受話器を取るが、やはり何の音もしない。電話は使えないようだった。
仕方なく、ベッドに戻る。音は続いていたが、やがて慣れてきた。いや、慣れたのではない。音が小さくなってきたのだ。
午前二時を過ぎた頃、音は完全に止んだ。
その代わり、別の音が聞こえ始めた。
廊下を、何かが引きずられているような音。ズズズ、ズズズという、重たい音。それが三〇七号室のドアの前で止まった。
息を殺す。
ドアノブが、ゆっくりと回った。
鍵はかけてある。けれど、ノブは回り続けた。カタカタと、何度も何度も。
「誰ですか」
声を出そうとしたが、喉が渇いて音にならなかった。
どれくらいそうしていただろう。やがて、ノブを回す音は止んだ。足音が遠ざかっていく。ズズズという、あの引きずる音と共に。
私はベッドから動けなかった。
窓の外を見る。向かいのビルの窓に、今度ははっきりと人影が見えた。窓際に立って、こちらを見ている。
目を凝らす。それは女性のようだった。長い髪をして、じっと動かずにこちらを見ている。
私は立ち上がり、窓に近づいた。カーテンを閉めようとした、その瞬間。
向かいの人影が、ゆっくりと手を振った。
私は後ずさった。心臓が激しく打っている。もう一度窓を見ると、人影は消えていた。
机の引き出しに目がいった。さっき開けたときは空だった。けれど、今は何か入っているような気がする。
恐る恐る引き出しを開ける。
中には、一枚の写真が入っていた。
この部屋の写真だった。同じベッド、同じ机、同じ窓。けれど、ベッドには誰かが横たわっていた。白いシーツに包まれて、顔は見えない。
写真の裏を見ると、日付が書いてあった。三ヶ月前の日付だ。そして、その下に一言。
「ここで待ってる」
写真を落とした。それは床に落ちて、裏返しになった。
もう耐えられなかった。荷物をまとめて、部屋を出ることにした。けれど、ドアノブが開かない。鍵は開けてあるのに、まるで外から何かが押さえているように、ドアが開かないのだ。
何度も何度も押す。体当たりする。けれど、ドアはびくともしなかった。
諦めて、ベッドに座り込んだ。窓の外はまだ暗い。朝まで、あと何時間あるだろう。
その時、バスルームから水音がした。
誰もいないはずのバスルームから、シャワーが出ている音がする。そして、誰かが歌っている声。低く、掠れた声で。聞き取れない言葉で。
私は耳を塞いだ。目を閉じた。ここにいてはいけない。けれど、出ることもできない。
どれくらいそうしていただろう。
ふと気づくと、部屋は静かになっていた。窓の外が白み始めている。
時計を見ると、午前五時だった。
立ち上がって、ドアを押してみる。今度はすんなりと開いた。
廊下に出る。誰もいない。換気扇の音だけが、相変わらず響いている。
階段を駆け下りた。二階の踊り場で、あのピンク色の靴を見た。今朝は、靴が二つに増えていた。きちんと揃えて置かれている。
一階に着いて、フロントに向かう。昨夜と同じ女性がいた。
「チェックアウトします」
「かしこまりました」
彼女は淡々と処理をした。何も訊かない。私も何も言わなかった。
「お気をつけて」
彼女の声が背中に聞こえた。振り返ると、彼女は微笑んでいた。初めて見せる表情だった。その笑顔が、どこか悲しげに見えた。
外に出ると、朝の空気が冷たかった。深呼吸をする。生きている実感がゆっくりと戻ってきた。
それから三ヶ月後、駅前を通りかかると、あのホテルが取り壊されていた。
重機がビルの壁を崩し、埃が舞い上がっている。立ち止まって見ていると、作業員のひとりが言った。
「ここ、長いことやってたのにね。もったいない。でも、まあ、色々あったからな」
「色々?」
訊きたい気持ちと、訊きたくない気持ちが半々だった。
作業員は空を見上げた。
「客が来なくなってね。評判が悪くてさ。特に三階は誰も泊まりたがらなかった」
私の背筋に冷たいものが走った。
「何かあったんですか」
作業員は首を振った。
「俺もよく知らないんだ。ただ、昔ここで何かあったらしい。詳しくは聞いてないけど」
私は何も答えず、その場を離れた。
三〇七号室がどうなったのかは、わからない。ただ、あの夜の胸騒ぎだけが、今も消えずに残っている。
そして時々、夢を見る。
あの部屋で目を覚ます夢を。窓の外の廃ビルから、誰かが手を振っている。ドアは開かない。バスルームから水音がする。
目が覚めると、いつも額に汗をかいている。
本当に、何もなかったのだろうか。
それとも、何かが起きる前に、私は逃げ出せただけなのだろうか。
答えはわからない。
ただひとつ確かなのは、あの写真に書かれていた言葉だ。
「ここで待ってる」
誰が、誰を待っているのか。
それだけが、今も私の心に引っかかっている。
読んでいただき、本当にありがとうございます。
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あなたの声は、この恐怖を次へと繋ぐ鍵になります。
そして覚えていてくださいーー
あなたが今いるその部屋も、いつか物語の舞台になるかもしれないことを。
気づかないうちに、誰かがすでにあなたの部屋に潜んでいるかもしれません。




