バスルームの影
古いアパートに引っ越してきてから、愛はずっとバスルームが苦手だった。昼間でも窓からの光が届かず、薄暗い。そして、鏡台の端にいつも落ちている、小さな影。
その夜、日付が変わろうとする頃、愛は遅いシャワーを浴びようとバスルームのドアを開けた。湿気がこもった独特の匂いと、冷たい空気。スイッチを押すと、蛍光灯が「ブーン」という低い音を立てて、少し遅れて点灯した。
浴槽にお湯を溜め始め、愛は服を脱いだ。鏡台の前に立つと、いつもの影が見える。それはただの鏡の汚れか、照明のせいだと思い込もうとしていた。今日は特に、その影が濃い気がした。輪郭が、何かを示唆しているかのように、愛の方を見ているように。
気にしないように、愛はシャワーを浴びた。熱いお湯が今日の疲れを流してくれる。しかし、浴槽の向こう側、半透明のシャワーカーテンの向こうに、何かの気配を感じた。それはお湯の蒸気とは違う、重い、沈黙した存在感だった。
「気のせいよ。ただの水蒸気よ」と愛は自分に言い聞かせたが、心臓はドクドクと不規則なリズムを刻み始めた。
シャワーを止め、愛は素早くバスタオルを掴み、身体を拭いた。一刻も早くこの部屋を出たかった。
鏡台に向かい、顔の水分を拭き取ったその時、それは起こった。
愛は鏡を見た。そこに映る自分の背後、白いタイルの壁の中央に、さっきまで影があった場所に、黒い人型の染みが現れていた。それは輪郭が曖昧ながらも、愛の全身を見つめているように見えた。
愛の呼吸が止まった。恐怖で体が動かない。これは染みじゃない。そこに「いる」。
その時、愛の鏡像が、彼女の動きに一瞬遅れて反応した。そして、鏡像の背後にあるはずの染みが、わずかに、床を這うように愛に近づいたように見えた。
愛は悲鳴を上げそうになったが、喉が張り付いて声が出ない。逃げなければ。
しかし、足が床に縫い付けられたかのように動かない。彼女は、鏡の中で動く染みから目を離すことができなかった。
そして、その染みが形を変えた。
細長く伸びて、まるで手のようになった。その手が、鏡の中の愛の背後に回り込み、肩に触れようとしている。
愛は、自分と鏡像の間に、見えない膜があるのを感じた。そして、鏡の中の世界が、こちら側と繋がろうとしていることを本能的に悟った。
「ダメ…!」
愛は絶叫し、全身の力を振り絞って鏡から離れ、ドアに向かって走り出した。
ドアノブに手をかけた瞬間、背後で**「カチッ」と、乾いた音がした。それは、鏡台の上にあった整髪料のボトルが倒れる音**だった。
愛は振り返る勇気がなかった。ドアノブを回そうと力を込めるが、手が汗で滑る。
「…離さない、愛」
その声は、囁きであったにもかかわらず、バスルームの密室で響き渡った。それは愛の耳元で発せられたかのように、湿気を帯びた、冷たい、男性の声だった。
そして、ドアノブから手を離すこともできず、愛は感じた。
背中一面に、ひんやりとした、濡れた五本の指の感触を。
その感触は、すぐに愛の首筋へと移動し、強く、深く、彼女の皮膚に食い込んでいった。
愛の意識は薄れていった。最後に見たのは、ドアのわずかな隙間から漏れる廊下の光と、その光を飲み込むかのように濃く、深くなっていくバスルームの闇だった。
翌朝、愛の姿はアパートから消えていた。
バスルームの鏡には、誰もいないはずなのに、水滴で曇った指の跡が、五本、くっきりと残されていたという。そして、床には愛の髪の毛が数本、濡れたまま落ちていた。




