ベランダの囁き
彩**が一人暮らしを始めたマンションは、築年数はそこそこ経っていたが、南向きで日当たりがよく、広々としたベランダが付いているのが気に入っていた。洗濯物を干すのも、小さなプランターでハーブを育てるのも、すべてベランダで完結する、彩にとってはお気に入りの空間だった。
しかし、引っ越してきて数週間経った頃から、そのベランダに違和感を覚えるようになった。
夜、寝室の窓を閉めていても、ベランダから微かな声が聞こえるような気がしたのだ。それは風の音のようでもあり、隣の部屋の話し声のようでもあったが、妙に耳にまとわりつくような、はっきりしない音だった。
ある日、彩はベランダで洗濯物を干している時、ふと手すりの外側を見た。マンションの敷地内には小さな庭があり、その木々が風に揺れている。
その時、彩は目にした。
庭の隅に立つ、枯れかけた一本の桜の木。その枝の間に、白いものが揺れている。
「あれ?」
目を凝らすと、それはどう見ても人の顔だった。しかし、すぐに枝葉に隠れて見えなくなった。
「まさか…そんなはずない」
彩は自分に言い聞かせたが、心臓はドクドクと不規則なリズムを刻んでいた。
その夜、ベッドに入った彩は、やはりベランダからの囁き声に眠りを妨げられた。
「…あや…こっち…」
今度は、はっきりと自分の名前を呼ばれたような気がした。
彩は恐怖で布団を頭からかぶったが、声はどんどん大きく、明確になっていく。
まるで、すぐそばに誰かがいるかのように。
翌朝、彩は勇気を出してベランダに出てみた。昼間の光が降り注ぐベランダは、昨夜の恐怖が嘘のように明るかった。
しかし、手すりの端に、泥のついた小さな足跡がいくつも残されているのを見つけた。鳥のものではない。もっと、指の跡がはっきりとした、まるで子供の素足のような足跡だった。
彩は震え上がった。
足跡は、ベランダの手すりを乗り越え、ベランダの床を横断し、そして彩の部屋の窓に向かって続いていた。
彩は急いで窓を閉め、鍵をかけた。もうベランダに出たくない。
だが、その日の夕方、彩はスーパーからの帰り道、マンションのエントランスで、見知らぬ老婆に呼び止められた。
「おや、あなた、あの部屋かい?」
老婆は、彩の部屋の方向を指差した。
「あの部屋はね、昔、子供が落ちたんだよ。ベランダからね。おもちゃを取りたくて、身を乗り出しすぎたんだ」
彩は血の気が引くのを感じた。老婆はにこやかに話し続ける。
「今でもね、夜になると、あのベランダに遊びに来るんだってさ」
老婆の言葉に、彩は全身が冷たくなった。あの足跡は、あの囁きは。
その夜、彩は部屋の電気を全てつけ、布団に潜り込んだ。
窓は二重にロックし、カーテンも閉め切っている。
だが、夜が深まるにつれて、ベランダからの声は、もはや囁きではなく、子供が話しかけるような、はっきりとした声になっていった。
「…あや…開けて…」
「…遊ぼうよ…」
そして、彩は聞いた。
カタン…カタン…
それは、ベランダの窓を、小さな何かが爪で引っ掻くような音だった。
彩は恐怖で身動きが取れない。早く朝になってほしいと、ただ祈った。
しかし、その音は、だんだんとガラスを叩く音に変わり、そして、
ドンドン!!
と、激しく窓を叩く音になった。
彩は叫び声を上げそうになったが、喉が張り付いて声が出ない。
その時、カーテンの隙間から、ベランダの窓を見た。
窓ガラスに、泥だらけの小さな手形が、いくつも、無数に張り付いている。
そして、その手形の向こう側、暗闇の中にぼんやりと浮かぶ、汚れた白い子供の顔。その顔は、大きく口を開けて、彩に向かって、何かを叫んでいた。
「…開けてよぉおおおお!!」
彩は恐怖のあまり、意識が途絶えそうになった。
翌朝、マンションの住人が、彩の部屋から悲鳴を聞いたと通報した。
しかし、警察が部屋に入ると、そこには誰もいなかった。
ただ、ベランダの窓には、無数の子供の小さな手形が残されており、その中央には、**「あけて」**と、汚れた指で書かれた文字があったという。
そして、その手形の一つ一つが、まるでガラスの内側から付けられたかのように、拭いても取れなかったという。




