書斎の薔薇
午後の陽だまりが差し込む書斎で、咲良は卒業論文に向き合っていた。
この部屋を借りてから三か月。
静かで勉強に集中できる環境は申し分なかった。本棚には前の住人が残していった文学書がぎっしりと並び、壁の時計が規則正しく時を刻む。
ただ一つだけ、奇妙なことがあった。
毎朝、床に一本の赤い薔薇が落ちているのだ。
最初は管理人の心遣いかと思った。「新しい入居者への歓迎の意味で、薔薇を置いてくれているのかもしれない」と。
しかし、薔薇は決まって同じ場所に、同じ向きで落ちていた。まるで誰かがそっと置いていくかのように。
咲良は管理人に尋ねてみた。
「いえ、薔薇なんて置いていませんよ」
管理人のおばさんはきっぱりと首を振った。
「前の住人さんも、同じことを言っていましたね。毎朝薔薇が落ちていると」
前の住人のことを詳しく聞いてみた。
彼女も大学院生で、文学を専攻していたという。真面目で静かな人だったが、ある日突然姿を消した。家賃も払ったまま、荷物もそのままに。
「警察にも届けましたが、事件性はないということで…。でも不思議でしたね。あの子、この部屋をとても気に入っていたのに」
咲良は背筋がひやりとした。
その夜、咲良は薔薇がどこから来るのか確かめようと、夜更かしをして待ち構えた。
午前3時。
静寂を破って、かすかな足音が聞こえた。廊下を歩く音。そして、扉の前で止まる。
咲良は息を殺した。
しばらくして、扉の下の隙間から、何かが滑り込んできた。薄い影のようなものが、床をゆっくりと這うように進む。
そしてそれは、いつもの場所で止まった。
咲良が恐る恐る電気を点けると、そこには真っ赤な薔薇が一本。
しかし、扉は施錠されたままだった。
翌日、咲良は本棚の本を詳しく調べてみた。前の住人の残していった本の中に、何かヒントがあるかもしれない。
すると、詩集の間に挟まれた小さなメモを見つけた。
「彼が来る。毎晩、薔薇を持って。私を呼んでいる」
震える字で書かれていた。日付は、前の住人が消える一週間前のものだった。
咲良は急いで他の本も調べた。あちこちにメモが挟まっている。
「薔薇の声が聞こえる」
「彼は私を待っている」
「もう逃げられない」
その夜から、咲良にも異変が起きた。
薔薇を見つめていると、かすかに声が聞こえるような気がした。男性の声で、名前を呼んでいる。
「咲良…咲良…」
しかし、はっきりとは聞こえない。まるで遠くから風に乗って届くような、曖昧な音だった。
咲良は薔薇を捨てようとした。しかし、ゴミ箱に入れても、翌朝にはまた同じ場所に戻っている。
まるで、そこにいることを運命づけられているかのように。
一週間後、咲良は本棚で奇妙な本を見つけた。
表紙には何も書かれていない、古い日記帳。しかし、中には前の住人の字ではない、男性の筆跡で文章が書かれていた。
『美しい人よ。君を見つめている。この部屋で、ずっと』
『君が本を読む姿、ペンを握る手、すべてが愛おしい』
『薔薇は私からの贈り物。君への愛の証』
咲良は慄然とした。誰かが、この部屋の住人を見ている。そして、愛している。
その夜、咲良は決意した。真相を確かめよう、と。
午前3時、薔薇が現れる時間を待った。そして今度は、薔薇が現れると同時に声をかけた。
「誰? あなたは誰なの?」
すると、薔薇がかすかに光ったような気がした。そして、はっきりとした男性の声が聞こえた。
「君を愛している。ずっと、この部屋で君を愛している」
「どこにいるの? 姿を見せて」
「君は美しい。前の彼女も美しかった。でも、彼女は逃げてしまった」
咲良の背筋が凍った。
「前の住人をどうしたの?」
「彼女は私を怖がった。だから、連れて行った。今は一緒にいる」
翌朝、咲良は荷造りを始めた。しかし、部屋の扉が開かない。
鍵は回るが、まるで外から何かが押さえつけているかのように、扉が動かない。
窓も同じだった。施錠されているわけではないのに、びくともしない。
「逃げようとしているね」
薔薇から声が聞こえた。今度は昼間だというのに、はっきりと。
「君も前の彼女と同じだ。私を怖がっている」
「お願い、出して。私はここにはいられない」
「大丈夫。すぐに慣れる。彼女もそうだった。最初は怖がっていたが、今は幸せそうだ」
咲良は気づいた。本棚の奥に、微かに人影が見える。女性のシルエット。
前の住人だった。
「助けて」
咲良は本棚に向かって叫んだ。しかし、女性のシルエットは首を振った。そして、口の形で何かを言った。
「無駄よ」
咲良は絶望した。しかし、その時、机の上のノートパソコンに目が留まった。まだ電源が入っている。インターネットも繋がる。
咲良は急いでSNSにメッセージを投稿した。自分の状況を、この部屋の住所を、全てを書いた。
「誰か助けて。部屋から出られない。前の住人も捕らわれている」
「無駄だよ」
薔薇から男の声が聞こえた。今度は怒りを含んでいた。
「外の世界など必要ない。君はここにいればいい。私と、彼女と、一緒に」
咲良は投稿を続けた。友人たちが心配してコメントを寄せている。
「警察に連絡する」「今すぐ向かう」
しかし、薔薇は嘲笑うように光った。
「彼らが来ても無駄だ。この部屋は、外の世界とは繋がっていない。時が止まっている」
咲良が時計を見ると、針が3時15分で止まっていた。いつから止まっていたのか、分からない。
数時間後—いや、時間の感覚がもうなかった。
扉を叩く音が聞こえた。友人の声、警察官の声。しかし、まるで遠い世界からの音のようで、こちらの声は届かない。
「咲良はいない」と管理人の声が聞こえた。「今朝、荷物を全部持って出て行きました」
咲良は叫んだ。「ここにいる! ここにいるの!」
しかし、外の人たちには聞こえていないようだった。
そして、やがて足音は遠ざかっていった。
それから時が過ぎた。どのくらいかは分からない。
咲良は諦めて、本棚の前に座っていた。前の住人の女性と並んで。もう二人とも、透明になりかけている。
「慣れたでしょう?」
薔薇から男の声が聞こえる。今は優しい声だ。
「私たちはずっと一緒にいられる。時間に追われることもない。完璧な世界だ」
咲良は何も答えなかった。もう答える気力もなかった。
そして、新しい入居者がこの部屋に来た時、きっと床に赤い薔薇が落ちているのを見つけるだろう。
毎朝、同じ場所に。
同じ向きで。
新しい愛の対象として。
読んでいただき、本当にありがとうございます。
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そして覚えていてください――あなたが今いるその部屋も、いつか物語の舞台になるかもしれないことを。
気づかないうちに、誰かがすでにあなたの部屋に潜んでいるかもしれません。