四畳半の客人
拓海は、急な転勤で、築年数の古い一軒家を借りることになった。他の部屋は洋室だったが、二階の隅に、日当たりの悪い四畳半の和室があった。そこは、押入れと床の間だけの、ごくシンプルな部屋だった。
その部屋に足を踏み入れた瞬間から、拓海は言い知れぬ重さを感じた。畳は湿り気を帯び、常にカビのような、古い木の匂いがする。
拓海はその和室を「物置部屋」として使い、極力足を踏み入れないようにしていたが、ある夜、仕事の資料を取りに、久しぶりに和室の襖を開けた。
電気をつけると、部屋は静かに拓海を迎え入れた。しかし、その時、拓海は床の間の小さな違和感に気づいた。
床の間に飾ってあるべき掛け軸が、わずかに傾いていたのだ。
「地震でもあったか?」
拓海は首を傾げながら、掛け軸を真っ直ぐに戻した。その掛け軸には、達筆な文字で「静心」と書かれていた。
資料を探していると、ふと、床の間の隅に、見慣れないものが置いてあるのが目に入った。
それは、古びた日本人形だった。白い肌に黒い髪、伏し目がちで微笑んでいるような顔立ち。小ぶりだが、妙に存在感を放っている。
「こんなもの、いつからあったんだ…?」
拓海は引っ越し後、この部屋を軽く掃除したはずだが、人形の記憶はなかった。前の住人が忘れていったのだろうか。触るのもなんだか薄気味悪く、拓海はそのままにして部屋を出た。
その夜、拓海が寝室で眠っていると、微かな音で目が覚めた。
「…カタ…コト…」
何かを引きずるような、あるいは小さい足で歩くような、静かで耳障りな音。
音の出どころは、二階の四畳半の和室だ。
拓海は恐怖で身動きが取れなかった。強盗ではない。音は、ゆっくりと、床の間から押入れへ、そしてまた床の間へと、規則正しく移動しているように聞こえた。
「気のせいだ。古い家の軋みだ」
拓海は心の中で何度も繰り返したが、音は止まらない。
意を決した拓海は、懐中電灯を手に、ゆっくりと二階へ上がった。
和室の前に立つと、音はピタリと止んだ。
拓海は息を殺し、襖に耳を当てた。
静寂。
あまりの静けさに、耳鳴りがしそうだ。
拓海は恐る恐る、襖に手をかけ、一気に開けた。
部屋には誰もいなかった。
床の間の掛け軸は、朝の記憶通り、真っ直ぐになっている。押入れの襖も、ぴたりと閉じている。
そして、床の間には、あの日本人形がちょこんと座っていた。
「やっぱり気のせいか…」
安堵し、部屋を出ようと背を向けたその瞬間。
ドォン!!
背後の押入れの襖が、内側から激しく叩かれた。
拓海は反射的に振り返った。心臓が飛び出しそうになりながら、懐中電灯の光を押入れに当てる。
襖は、今にも破れそうに、真ん中が膨らんでいる。
「な、なんだ…!」
拓海は押入れから一歩後ずさった。
その時、**ズズッ…**と、襖の下の隙間から、黒い、湿ったものが滲み出してきた。
それは、まるで髪の毛のような、細く、絡み合ったものだった。
そして、その黒い塊が、畳の上を這い始め、拓海の足元に向かって、ゆっくりと、しかし確実に伸びてくる。
拓海は逃げようとしたが、足が畳に縫い付けられたように動かない。
黒い塊が、拓海の足の指先に触れた。
ひやりと、凍るような冷たさが伝わってきた。
その瞬間、床の間の掛け軸が、**「ブチッ」**という音と共に、真ん中から裂けた。
掛け軸の裂け目から現れたのは、真っ暗な闇。そして、その闇の中から、二つの、光を反射しない、黒い眼が、拓海を見据えていた。
押入れと床の間。二つの空間から挟み撃ちにされた拓海の耳元に、畳の古い匂いと共に、粘り気のある声が響いた。
「…見つけた…」
それは、日本人形から発せられたかのような、高い、しかし重い声だった。
拓海は全身が硬直し、最後に見たのは、床の間に置かれた日本人形が、伏し目がちの顔のまま、ゆっくりと口角を吊り上げ、笑みを深くしていく光景だった。その瞳は、先ほど掛け軸の闇の中から拓海を見つめていた、あの黒い眼そのものだった。
翌日、家主が部屋を訪れた時、拓海の姿はどこにもなかった。
二階の四畳半の和室は、相変わらず静まり返っていたが、床の間の掛け軸は二つに裂け、そして、床の間には、あの日本人形が、畳の上に両手をつき、まるで這い出したかのように、部屋の中央を向いて座っていたという。




