203号室
アパートの一室、203号室。そこは、大家である私にとっても、少し特別な部屋だった。家賃を相場より安く設定しているにもかかわらず、長く住みつく者がいない。いつも数ヶ月で退去届が出される。
そして、皆、一様にこう言うのだ。「あの部屋は、寒い」と。
この古いアパートは、冬場は確かに底冷えする。しかし、彼らが言う「寒さ」は、季節的なものとは少し違った。真夏に契約した住人ですら、退去の際には「まるで氷の中にいるようだった」と震えていた。
その日もまた、203号室は空室になった。最後の住人、若い女性は、鍵を返す時、私と目を合わせようともせず、ただ小さな声で「すみません」とだけ言って立ち去った。
私は意を決して、久しぶりに203号室に入った。
ドアを開けた瞬間、生ぬるい廊下の空気とは明らかに違う、冷たい空気が頬を打った。思わず身震いする。部屋の中は至って普通だ。フローリングは綺麗に磨かれ、壁にも目立った汚れはない。前の住人が丁寧に使っていたのだろう。
しかし、部屋の中央、四畳半ほどの空間だけが、異様に暗く、そして、冷たい。
好奇心と、大家としての責任感が、私をその部屋の「中央」へと誘った。一歩、また一歩と足を進めるたび、冷気は増していく。
そして、部屋のほぼ中央に立った瞬間、耳の奥で微かな囁きが聞こえた気がした。
「……ここに」
反射的に周囲を見回すが、誰もいない。照明をつけているのに、部屋の中央だけが、ぼんやりと影を帯びているように見える。
私はポケットから出した温度計を見た。室温は20度を指している。しかし、私の肌が感じるのは、明らかに10度を下回るような冷たさだ。
再び、囁き。今度は少し、はっきりとした。
「……来て」
声は、足元から聞こえる気がした。私は、恐る恐る床に目をやった。
フローリングの木目は、他の場所と同じように見える。だが、その一箇所だけ、まるでそこに穴が開いているかのように、意識を吸い込むような黒い影が、ほんの少しだけ、揺らめいているように見えた。
いや、影ではない。それは、黒い何かが、床下から這い上がろうと、木目と木目の隙間に、張り付いているように見えたのだ。
恐怖で息が詰まり、体が動かない。
その黒い影は、ゆっくりと、しかし確実に、その形を**「手のひら」**へと変えていった。
ひんやりとした冷気が、足首を這い上がる。
そして、その黒い「手」の中心から、細く、弱々しい声が聞こえた。
「……ひとりで、さみしい。あなたも、ここにいればいい」
その声は、私が最後に会った、あの女性の声にそっくりだった。
私は悲鳴を上げることすらできず、ただただ、その場から後ずさり、無我夢中で部屋を飛び出した。ドアを閉め、鍵をかけ、廊下にへたり込んだ時も、冷たい吐息のようなものが、ドアの隙間から漏れ出してくるのがわかった。
それから、私はその部屋を「物置」として、誰にも貸していない。
時折、通りかかると、ドアの向こうから、部屋全体を包み込むような、底知れぬ冷たさが伝わってくる。
そして、ごくたまに、あの女性の声ではない、もっと古く、深い、子供のような声で、微かに「寒い、寒いよ」と、囁く声が聞こえるような気がするのだ。
あの部屋は、私たちが感じる「寒さ」ではなく、誰かの**「寂しさ」**を、永遠に溜め込んでいる。そして、次にその扉を開ける者が、その冷たさに永遠に囚われるのを、静かに待っているのだ。
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気づかないうちに、誰かがすでにあなたの部屋に潜んでいるかもしれません。




