夢の残像
浅野 悠は、夜勤明けの深い疲労感と、奇妙な「違和感」に苛まれていた。
始まりは、一週間前。毎朝、自宅の玄関で靴を履く瞬間、彼は自分が裸足で立っていることに気づく。
「まただ」
しかし、靴は確かに履かれていた。まるで、靴を履くまでの数秒間の記憶が、夢と入れ替わったかのように欠落している。
その夜から、悠は繰り返し同じ夢を見るようになった。
薄暗い、無機質な病室。自分は拘束着を着てベッドに縛り付けられている。天井の蛍光灯がチカチカと瞬き、聞き覚えのない男の声が響く。
「目を覚ますな、浅野。お前が**『現実』**と信じているものは、最悪の夢の続きだ」
そして、夢の中の男は、彼の左腕を指差す。そこには、現実の悠にはないはずの、小さな手術痕があった。
翌日、奇妙な出来事が起こる。
職場のデスクの引き出しを開けると、いつも置いていたはずの愛用のマグカップがない。同僚に尋ねるが、誰もそのマグカップを知らないと言う。
「悠さん、いつも紙コップ使ってるじゃないですか」
その日の夜、悠は夢の中の病室で、男に詰め寄った。
「マグカップはどこだ!お前が隠したのか?」
男は冷笑した。
「隠した?違う。お前がそれを**『夢の産物』だと無意識に切り捨てたんだ。お前の現実の容量はもう限界だ。夢と現実が同じものになった時、お前の意識は存在しない世界**に固定される」
翌朝、さらに大きな「欠損」が悠を襲った。自宅のマンションの外壁の色が、前日までの白から薄いグレーに変わっていた。
「まさか…」
彼は慌てて、スマートフォンでマンションの購入時の資料を探す。しかし、保存されていた写真も、契約書の記載も、すべて**「グレーの外壁」**を示していた。
彼の現実こそが、書き換えられていた。
悠は恐怖に駆られ、自宅の鏡の前に立った。左腕を捲り上げる。夢で男が指差したはずの場所。
最初は何もなかった。だが、彼が鏡を強く見つめ、「夢の男の言葉」を思い出そうとするにつれて、皮膚にうっすらと小さな手術痕が浮かび上がってきた。
「これは…現実じゃない。夢だ!目を覚ませ!」
悠は必死に頬を叩いたが、痛みは鈍い。部屋の家具が、壁が、まるで水彩画のように色褪せ、滲み始めた。
そして、彼の背後の壁が、白いタイルの病室の壁へとゆっくりと変貌していく。
振り返ると、そこはまさに、夢で見たあの病室だった。薄暗く、拘束着を着た自分が入るはずだったベッド。そして、そのベッドの傍らに、あの夢の男が立っていた。
男は悠にそっくりだった。ただし、その瞳は絶望で深く澱んでいた。
「よく来たな、浅野」
「お前は誰だ!?」悠は叫んだ。
男は静かに答えた。
「僕は、一週間前の君だ。君が『最悪の夢の続き』へと移行するのを止めようとした、本物の意識だ」
男は、壁に設置された一枚の写真を指差した。それは、白い外壁のマンションの前で、悠がマグカップを持って笑っている写真だった。
「君は事故で、現実を受け入れられなくなり、**『何もかもが理想通りではないこの現実』を、『悪夢』**だと決めつけた」
「そして、君の潜在意識が、この病室の虚構を**『現実』として作り替え始めた。マグカップも、外壁の色も、すべて、『君が忘れたい現実』**から、消えていったんだ」
男は深いため息をついた。
「そして、僕は、君の**『忘れたい現実』に置き去りにされた、君の残像だ。もうすぐ僕は消える。お前が完全に『病室』を現実だと観測し終われば、僕のいた世界は完全に『夢』**になる」
「違う!僕が本物だ!」悠は叫びながら、男に手を伸ばした。
しかし、男はホログラムのように指の間をすり抜け、淡い光となって消え始めた。
「さよなら、浅野。新しい現実で、永遠の眠りにつけ」
悠が再び目を開けたとき、彼は拘束着を着て、白い病室のベッドに縛り付けられていた。天井の蛍光灯がチカチカと点滅している。
窓の外は、薄いグレーの空。
彼は、これが**「現実」**だと理解した。
だが、彼の左腕には、確かに手術痕があった。
彼は、自分が誰だったのかを忘れた。 マグカップが、白壁のマンションが、ただの「夢」の残像だと思いながら、永遠にその病室で目覚めを待つ。




