奇妙な寝室の樹
深い霧が街を覆い尽くした晩。
伊佐木蓮は、あの館の前に立っていた。
『黒百合の館』。
一度は逃げ出したはずの場所。だが、あれ以来、悪夢が彼を夜ごと苛んでいた。夢の中で、彼はいつも誰かの青白い光の目に見つめられ、足元からは樹木の根が絡みつく。目を覚ましても、その冷たい感触が残っている。
蓮は元は刑事だった。だが、ある事件で相棒を失い、心に空洞を抱えて以来、探偵まがいの仕事で食いつないでいた。
「……もう一度、確かめなければ」
そう心に言い聞かせ、彼は館の錆びついた扉を押し開けた。
軋む階段を上り、二階の寝室に足を踏み入れる。
そこは前に見た光景と変わらなかった。
中央に置かれた古いベッド。
壁には取れかかった奇妙な絵画。
天井から垂れる蜘蛛の巣。
そして床板を突き破るように生えた一本の樹木。
棚の上にはジャック・オー・ランタン。
青白い光の目が、まるで生きているかのように彼を追い、冷たく射抜いてくる。
蓮は震える手で、前回持ち帰った画家・高見沢幽斉の手記を取り出した。
読み進めるたびに、背筋が冷たくなる。
手記にはこう記されていた。
「私はあの日、色を失った。だが、代わりに樹は私に『真実の景観』を見せてくれた。
それは血と影に塗られた、別次元の色彩だった。
このランタンの光こそ、私の視覚の魂だ。」
さらに続く。
「だが樹は飽き足らず、今度は『運動』を欲した。
私は足を失い、この部屋から出られなくなった。
それでも樹は言う。『次の協力者を連れてこい』と。」
蓮は思わず顔を上げる。
部屋の絵画は、以前は理解できなかったが、今ははっきりと見える。樹木の根が絡みつく人影――顔は潰れて判別できない。だが、その姿は痛ましくも、どこか諦めの笑みを浮かべているようだった。
ランタンの光がふと、ベッドの下を示した。
恐る恐るマットレスをめくると、そこには埃まみれのスーツケース、白黒写真の束、そして古びた義足があった。
写真はすべて街の風景。だが必ずどこかに黒百合の花が写り込んでいる。幽斉が描き続けた象徴。
「……幽斉は、視覚を奪われ、さらに足までも失い、この部屋に閉じ込められた。外へは『使者』を送り出し、黒百合を集めさせていた……?」
蓮の胸に戦慄が走る。
スーツケースは、その使者が持ち出す道具。義足は幽斉の失われた「運動」の証。
すべては、この部屋が人を喰らうための仕組みだったのだ。
「――蓮。」
不意に、耳元で囁く声がした。
低く掠れた、しかしどこか優しい声。
「君も、まだ真実を見たいのだろう?」
背後の樹木が軋みを立てた。枝の影が床に広がり、巨大な鎌のように彼を取り囲む。
ランタンの目は細められ、まるで満足げに笑っている。
手記の最後のページに、乾ききらない墨文字が浮かび上がった。
「ようこそ、伊佐木蓮。
お前は、私の『目』となった。
次は……『足』になってもらおう。」
蓮は愕然とした。
なぜ彼は何度もここに戻ってきたのか――。
それは好奇心などではなく、すでにこの樹によって「欲望」を植え付けられていたからだ。
足元から冷たい感触が這い上がる。
影が自分の影を侵食し、根のように絡みついていく。
「やめろ……!」
動こうとするが、体は鉛のように重く、足が動かない。
視界から色が抜け落ち、世界が灰色に沈んでいく。
その瞬間、蓮の脳裏に亡き相棒の笑顔が浮かんだ。
「お前は人のために生きろよ」
最後にそう言って死んだ男の声。
蓮はその約束を守れなかったことを、今さらながらに悔いた。
「……すまない」
彼の最後の言葉は、誰に届くこともなく霧に溶けた。
数週間後。
黒百合の館を通りかかった者が、二階の寝室の窓を見上げた。
そこには、三つの青白い光の目が並び、夜の闇を愉快そうに瞬いていた。
その夜、街で一人の男が忽然と姿を消した。
ただ彼の足元には、一輪の鮮やかな黒百合が落ちていたという。




