クローゼットの闇
健太が引っ越した新しいマンションの部屋には、贅沢なほど大きなウォークインクローゼットがあった。部屋の三分の二ほどの広さがあり、洋服だけでなく、季節外れの物や、趣味の道具、誰にも見られたくない思い出の品まで、すべてを飲み込む巨大な「収納庫」だった。
そのクローゼットの壁には、どこか古びた鏡が貼られていた。どうやら前の住人が残していったもののようだったが、なぜかその鏡はいつも少し曇っているように見えた。健太は「古いからだろう」と気にも留めていなかった。
ある夜、健太は明日着るスーツを選ぼうと、クローゼットの重い引き戸を開けた。内部のライトをつけると、無数のハンガーに掛けられた服が、ずらりと並んだ。
その時、健太は気づいた。奥の壁に貼られた鏡に映る自分。その足元、洋服の影になっている部分が、いつもより濃く、黒い。まるで、鏡の中にもう一つの床があるかのように。
「なんだこれ?影のせいか?」
健太は首を傾げたが、深く考えなかった。急いでスーツを選び、クローゼットから出ようとした。
その時、棚に置いていたはずの古い野球帽が、床に落ちていた。健太が子供の頃から大切にしている、サイン入りの帽子だ。
「あれ?ちゃんと置いたはずなのに、なんでこんなところに」
健太は不思議に思いながら、帽子を拾い上げ、元の棚に戻した。
そして、ふと振り返ると、鏡の中の自分の足元の黒い影が、さっき野球帽が落ちていた場所の形をしていたような気がした。ほんの一瞬の錯覚だろうか。
その夜から、異変は続いた。
クローゼットから衣擦れの音がする。カサカサ、という静かで乾いた音。健太は「風のせいか?」と思ったが、締め切った部屋でそんな音はしないはずだ。
数日後、健太は部屋の模様替えをしようと、クローゼットに入った。ライトをつけ、奥へ進む。
その時、棚の隅に立ててあったはずのスキー板が、なぜか横倒しになっていた。
健太はスキー板を起こし、違和感を覚えた。
「重い……?」
いつもよりずっしりと、中身が増えたかのように重く感じた。健太は「まさか」と思いながら、中を覗こうとしたが、その瞬間、背後で**「フッ」と、誰かの息が漏れる音**が聞こえた。
健太は心臓が凍り付くのを感じた。
このウォークインクローゼットは、袋小路だ。奥まで入ると、逃げ場がない。
健太は反射的に振り返ったが、そこにあるのはただの洋服の列。しかし、その服の隙間、隙間から、何かが自分を見ているような気がしてならない。
そして、健太は確信した。あの衣擦れの音は、何かが体を動かす音だ。それは、自分と同じ空間にいる、何かの。
震えながら、健太はゆっくりと後ずさりし、入り口の引き戸に手をかけた。
「は、早く…」
手がノブに触れたその時、**カサカサ…**と、健太のすぐ背後の洋服の列から、再び衣擦れの音がした。今度は、より近く、より大きく。
恐怖でドアノブを回せない健太は、目を閉じて、ひたすら時間が経つのを待った。
どれくらい経っただろうか。健太は意を決し、目を開けた。
クローゼットのライトは点いたまま。服の列も変わらない。
「い、いない…」
ホッとして、健太は急いでドアを開け、部屋へ飛び出ようとした。
その時、背後の鏡が目に入った。
鏡の中の健太の姿は、ドアに向かって走ろうとしている。
しかし、その鏡像の着ているシャツの裾を、黒い、節くれだった指のようなものが、しっかりと掴んでいた。
健太は、自分のシャツには何も触れていないことを確認した。しかし、鏡像は、確かに裾を引かれている。
「やめろ!」
健太は悲鳴を上げ、全身でドアを押した。
その瞬間、**ゴツン!**と、頭に何かがぶつかる音がした。
健太は倒れ込みながら、ドアを振り返る。
そこには、先ほど重く感じたはずの、スキー板が、健太目掛けて倒れていた。
そして、スキー板のケースのわずかな隙間から、古びた鏡の破片が覗いているのが見えた。
健太は意識が遠のく中、もう一度鏡を見た。
鏡の中の自分の口元は、笑っていた。そして、その鏡像の背後、黒い影の中には、無数の手が、まるで健太の服を漁るように蠢いていた。
そして、健太の耳に、静かで乾いた囁きが聞こえた。
「お揃いに、なれたね、健太」
それは、健太の服と、健太の体を、永遠に自分のコレクションに加えるという、暗闇からの誘いだった。
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