鏡の部屋
夜の帰宅後のルーティンは、いつも同じだった。
アンティークな机の上で宿題を終え、本棚から今日読む本を選び、それからベッドサイドの古い楕円鏡でヘアブラシを通す。エミリーは規則正しい生活を送る大学生で、この薄暗い下宿の一室での一連の動作が日課だった。
その夜も、いつものように鏡の前に座った。
しかし、髪に櫛を通そうと手を上げた瞬間、妙な違和感を覚えた。
鏡の中の自分の手が、ほんの一瞬、現実の自分より早く動いたような気がしたのだ。
「疲れているのね」
エミリーは首を振った。最近、レポートの締切が重なって夜更かしが続いていた。きっと目の錯覚に違いない。
翌朝も、同じことが起きた。
今度はもう少しはっきりと分かった。鏡の中の自分が、現実の自分より0.1秒ほど早く手を上げたのだ。
美咲は動きを止めて、じっと鏡を見つめた。鏡の中の自分も同じように見つめ返している。当たり前だが。
「おかしいな」
彼は意識的にゆっくりと右手を上げてみた。鏡の中の右手も、同じタイミングで上がる。今度は問題ない。
しかし、無意識の動作の時だけ、微妙なズレが生じるようだった。
一週間が過ぎた。
ズレは徐々に大きくなっていた。最初は0.1秒だったのが、今では0.5秒ほど先行している。鏡の中の自分が先に動き、現実の自分が後追いする形になっていた。
エミリーは鏡を疑った。下宿の大家によると19世紀のものらしいが、特に歪みはない。デスクランプの角度を変えてみたり、椅子の位置を変えてみたりしたが、現象は変わらなかった。
「病院に行くべきかしら」
神経系の異常かもしれない。しかし、鏡の前以外では何の異常も感じなかった。講義も普通に受けているし、友人との会話にも支障はない。
ただ、夜の髪を梳かす時だけ。鏡の中の自分が、勝手に先回りして動くのだった。
二週間目に入った頃、もっと奇妙なことが起きた。
鏡の中の自分が、現実の自分とは違う表情を浮かべたのだ。
エミリーが無表情で髪を梳いていると、鏡の中の自分は微かに笑っていた。それも、どこか皮肉めいた、嘲笑するような笑みだった。
「何なの、これ」
エミリーはブラシを置いて、鏡をじっと見つめた。すると鏡の中の自分も無表情に戻り、同じように見つめ返した。
まるで、観察されていることに気づいて、慌てて演技を始めたかのように。
それからは、鏡の前に立つのが怖くなった。
しかし髪の手入れをしないわけにはいかない。エミリーは恐る恐る鏡を見ながら、できるだけ早く済ませるようにした。
だが、鏡の中の自分は確実に変化していた。
動作の先行は1秒近くになり、時折、現実の自分とは全く関係ない動きをするようになった。現実のエミリーがヘアブラシを取っている間に、鏡の中のエミリーは本を手に取っていたりする。
そして表情も、日に日に現実の自分から乖離していった。現実のエミリーが困惑している時に、鏡の中のエミリーは満足げに微笑んでいる。まるで何かの計画が順調に進んでいることを喜んでいるかのように。
三週間目、決定的な瞬間が訪れた。
エミリーが鏡の前で髪留めを付けていると、鏡の中の自分が振り返って、エミリーを見つめたのだ。
鏡の中から、こちらを見つめて。
エミリーの血が凍った。鏡の中の自分は、現実のエミリーの後ろ側を見ているはずなのに、正面を向いてこちらを見ている。そして、ゆっくりと口を動かした。
「入れ替わる時だ」
声は聞こえなかったが、口の動きではっきりとそう言ったのが分かった。
エミリーは慌てて振り返った。当然、薄暗い部屋には誰もいない。壁の時計だけが静かに時を刻んでいる。再び鏡を見ると、鏡の中の自分は普通に後ろを向いていた。
しかし、その瞬間から、エミリーは自分の動作をコントロールできなくなった。
今度は現実のエミリーが、鏡の中の自分の動作を後追いするようになった。
鏡の中の自分がヘアブラシを取ると、現実のエミリーの手も勝手に動いてヘアブラシを取る。意識では止めようとするのに、体が言うことを聞かない。
「これは夢よ」
エミリーは必死に自分に言い聞かせた。しかし、髪を梳く感触も、ランプの暖かい光も、全てリアルだった。
そして鏡の中の自分は、時折振り返ってエミリーを見つめ、満足そうに頷くのだった。
大学でも異変が起き始めた。
友人から「最近、なんだか雰囲気が変わったね」と言われるようになった。エミリー自身は普通に話しているつもりなのに、なぜか相手が困惑した表情を浮かべる。
「エミリー、さっきと言ってることが違わない?」
「え?」
エミリーは記憶を辿ろうとしたが、確信が持てなかった。もしかしたら、現実でも鏡の中の自分が主導権を握り始めているのではないか。
下宿に帰って、恐る恐る鏡を見ると、鏡の中の自分が先に振り返って微笑んだ。
「もうすぐよ」
ある夜、エミリーは鏡の前で気がついた。
鏡の中の自分が、現実のエミリーよりも生き生きとして見えることに。肌の色艶も良く、目にも力がある。一方で、現実のエミリーは青白く、どこか人形のような無機質さがあった。
「これが現実なの、それとも鏡の中が現実なの」
エミリーにはもう分からなくなっていた。
そして、その夜。エミリーは夢を見た。いや、夢だったかどうかも定かではない。
鏡の中の自分が、こちら側に歩いてきた。楕円の鏡面を突き破って、現実の世界に足を踏み入れた。
「あなたの人生、とても窮屈そうだったわ。代わってあげる」
鏡の中の自分は、現実のエミリーの手を取った。そして、今度はエミリーを鏡の中に引きずり込んだ。
翌夜。
エミリーは鏡の中で目を覚ました。
現実の世界では、もう一人のエミリーが夜の身支度を始めている。そのエミリーは、鏡の中のエミリーを見て微笑んだ。
「心配しなくても、あなたの人生は私がちゃんと生きてあげる。きっと、あなたより上手に」
エミリーは叫ぼうとしたが、声が出なかった。鏡の中では、音を立てることはできないのだ。
現実の世界のエミリーは、満足そうに身支度を終えると、机に向かって勉強を始めた。残された鏡の中のエミリーは、ただそれを見送ることしかできなかった。
それから数か月後。
現実の世界のエミリーの評判は上々だった。成績も上がり、友人からの評価も高い。恋人もできて、充実した日々を送っているようだった。
一方、鏡の中のエミリーは、毎夜同じ光景を見続けている。
現実のエミリーが身支度をする姿を。そして時折、現実のエミリーが鏡を見て、勝ち誇ったような笑みを浮かべる瞬間を。
鏡の中のエミリーは、ついに理解した。
自分は最初から、鏡の中の存在だったのではないか。現実だと思っていた世界こそが、実は鏡に映った虚像で、今いるこの鏡の中こそが、本来の居場所だったのではないか。
だとすれば、入れ替わったのではなく、ただ元の場所に戻っただけなのかもしれない。
エミリーは、その可能性について考え続けている。
今夜も、明日の夜も。
鏡の中で。
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気づかないうちに、誰かがすでにあなたの部屋に潜んでいるかもしれません。