走るだけの仕事
駐車場から降りたとき、まず最初に思ったのは——
「なんか、音がない」ってことだった。
晴天。緩やかな川沿い。人工芝の仮設会場。
バルーンゲートには《第3回フルサクリファイスマラソン》の横断幕がふわふわ揺れてる。
受付テントが4つ。メディカルと給水も設置済み。
正直、思ってたよりちゃんとしてる。
けど、音がない。いや、人の音がない。
誰も喋っていないのだ。
ゼッケンを貼ってる参加者も、スタッフらしき人間も、
全員が「何かに集中している」顔をしていて、耳を塞がれてるような静寂が広がっていた。
走る大会って、もっとこう、ストレッチしたりさ、
「今日のペースどうします?」とか言い合ってるもんじゃないのか。
俺が知ってるマラソンは、もっと雑音がある。空気がざわついてるもんだ。
──これ、間違って宗教の集会来たか?
ほんの少し、背中に冷たい汗が流れた。
でも、そう思った次の瞬間、
「導き手様、こちらです」
と声をかけられて、俺はさらに固まった。
振り向くと、黒いジャージ姿の女がひとり。
笑顔なんだけど、目が笑ってない。
「導……?」
「本日、あなたは《先導者A》としてご登録されております。こちらにお名前をご記入ください」
事務的に差し出されたボードとペン。
A4の紙には【導き手リスト】って文字。いや、なにそれ。
名前を書いた瞬間、手際よく肩にビブスをかけられた。
鮮やかな朱色。その背面にはでかでかとこう書かれていた。
《導き手A》
「よろしくお願いします。あなたのペースで、彼らの魂を運んでください」
俺は口をあんぐり開けたまま、返事をしそこねた。
「おっ、君がAか」
後ろから聞こえた声に振り返ると、
赤のビブスに《導き手B》と書かれた男がいた。
50歳くらい。ジャージにワークマンのタオルを首から下げて、
ペットボトルのアクエリアスをラッパ飲みしてる。
体つきは細いのに、どこか底知れない雰囲気がある。
「俺、B。黒岩って呼ばれてる。導き手の先輩な。よろしくね」
「……あ、柏木です。初めてなんで、よろしくっす」
「うんうん、大丈夫。最初はみんな緊張するから」
黒岩はニコニコして、妙に距離が近い。
肩にポンと置いてきたその手が、やたら熱かった。
走る前とは思えない温度。
「ま、走ってるうちにわかるから。心配いらんよ」
「わかるって……何がですか?」
「いろいろだよ。速さの意味とか、ついてくるってどういうことかとか」
言いながら、黒岩はコースの方をチラリと見た。
その視線の先には、白いユニフォームの信者たちが黙々と整列している。
誰一人としてスマホをいじっていない。話してもいない。目を閉じてる者もいる。
「……みんな、なんか真面目っすね」
「うん、信じてるからね」
「なにを?」
「全部」
そう答えてから、黒岩は不意に笑い、ボトルの中身を一気に飲み干した。
グシャッと潰れたペットボトルの音が、会場でやけに大きく響いた気がした。
「君、走るの好き?」
「いや、まあ……普通っす。昔やってたんで。今は……生活のため」
「うんうん、それもいい動機だよ。でも、走ってると、いろいろ思い出すでしょ?」
黒岩の声には、何かひっかかる“重み”があった。
聞き取れない何かをぶら下げたまま、俺は曖昧にうなずいた。
「そっか、Aかぁ……」
「え?」
「いや、君がAでよかったなって。今回はAが肝だから。
Bの俺はただついてくだけ。ついてくだけの人生って、楽だよ?」
その言い方が、まるで「お前は楽じゃないぞ」って言われたみたいで、背中にじっとり汗がにじんだ。
「それでは皆さま——、お集まりいただき、心より感謝いたします」
ピンマイクの音が会場全体に、まるで脳に直接流し込まれるみたいに響いた。
静寂が、さらに静かになる音がした気がする。
ステージに立っていたのは、一人の男。
白いローブに金の縁取り。丸い眼鏡。白髪混じりのオールバック。
誰がどう見ても“宗教の人”って格好なのに、声はやけに優しかった。
「今日、あなたがたが走る道は、単なる距離ではありません。
それは、過去を浄化し、未来へ向かう“川”です。
私──天川を筆頭に、私たち《清らかな流れの会》は、この“川”を、42.195kmの祈りとして設けました」
拍手がない。誰も動かない。
ただ、全員が首をうなずかせていた。まるで洗濯機に同時に吸い込まれてるみたいな統一感だった。
「皆さまは、走ることで、何を超えますか?
他人ですか? 自分ですか?数字ですか?
それとも、心の壁ですか?」
淡々と語るその声には、妙な説得力があった。
言葉が直で腹の奥に刺さってくる。
“走る”という行為が、まるで魂の儀式みたいに聞こえてくるのが怖かった。
「そして——」
天川は、観衆を見渡して少し笑った。
「導き手の皆さま。あなたがたは特別です。
あなたがたが守るペースは、単なるラップタイムではありません。
それは、《神の速度》です。
どうか、そのリズムで、魂たちを導いてください」
ざわ……と、空気が揺れた。いや、揺れたように錯覚した。
拍手すら起きない。全員が、感極まった表情をして、じっと見ている。
俺は目をそらした。なんか見てちゃいけない気がした。
「それでは、祈りを込めて。今日も、よき流れを」
合掌する天川。
それを合図に、周囲の信者たちが一斉に手を合わせる。
俺は咄嗟にタイミングを逃して、腕を組んだまま立ち尽くした。
黒岩が隣で小声で言った。
「な? ただのマラソンじゃないって、わかったろ?」
スタート地点に整列した瞬間、俺は「しまった」と思った。
思ってたより、いや、想像の十倍くらい静かだったのだ。
呼吸の音しかない。
風も止んでるみたいに感じる。誰も何も言わない。
この数百人の“走者”たちは、マジで一言も喋ってない。
ゼッケンを見ると、みんなに“謎の言葉”がプリントされていた。
《川を渡る者》
《沈黙の速さ》
《神速一滴》
意味はわからない。けど、全員がそれを誇らしげに身につけていた。
黒岩は俺の横で肩を回している。涼しい顔。
対照的に俺の鼓動は速くなっていた。スタート前の緊張というより、“人違いで迷い込んだ感”の方だ。
「おい、あれ……」
小声で言う黒岩の視線を追うと、数メートル先に女がいた。
あの女、じっと前を見据えながら、何かを呟いている。
唇の動きが、詩の朗読みたいだった。
そしてそれを見た隣の信者がうなずき、また同じ言葉を口にしはじめる。
それが徐々に、波紋のように広がっていった。
「……流れに、我を、委ねよ」
「……流れに、我を、委ねよ」
「……流れに——」
なんだこの状況。
だが止める言葉が口から出なかった。
俺だけが、どうにも合流できない世界の中に立たされている。
「今日は、生まれ変わります」
唐突に、横に来ていたあの女がそう言った。
前を向いたまま、はっきりとした声で。俺に言ったのか、誰に言ったのかもわからなかった。
「……なんすか、それ」
「生まれ変わる日なんです。ここで」
それだけ言って、また前を向いたまま静かになった。
ゼッケンに小さく書かれた名前には、「千夏」の文字。
数分後、スタッフの男が無言でスタートラインにロープを張った。
そして、タイムカウント用の電子時計が静かに起動する。
あと5分でスタート。
「詠唱は、しないの?」
と黒岩が俺に言った。
「いや、あの……初めてなんで。どの曲かとか……わからないっす」
「曲じゃねえよ」
その瞬間、全員が同時に手を胸に当てた。
そして目を閉じ、低く呟き始めた。
まるで、全員が同じ夢を見てるみたいだった。
俺だけが、その夢の“外”にいる。
パン、という空砲が鳴った。
でも、誰も動かなかった。
本当に、誰一人として、足を踏み出さなかったのだ。
全員が、何かを待っていた。
それは号砲でもなく、拍手でもなく、たぶん“合図でもない何か”。
俺は前傾姿勢のまま固まり、横目で黒岩を見た。
黒岩は少し笑って、ほんのわずかに頷いた。
意味がわからないまま、俺は一歩だけ前に出た。
それはただ、マラソンでいつも通りの“自然なスタート”のつもりだった。
でもその瞬間だった。
ザッ。
という音と共に、背後からいっせいに空気が押し寄せた。
圧倒的な“数”の気配。
数百人が、ぴったり同じタイミングで踏み出した音。
地面が一瞬、軋んだように感じた。
走り出した。俺を先頭に。
俺の背中を目印に、全員が吸い寄せられるようにペースを合わせてくる。
「マジかよ……」
思わず漏れた声は、風の中に消えていった。
振り返る余裕はない。ただ、ペースを作らないといけない。
A=先導者。
“導き手”。
言葉ではわかってた。
でも今、その意味が、身体で理解された気がした。
これは──俺が止まったら、
“全員が止まる”ってことだ。
それが冗談じゃないってことが、空気と足音でわかる。
俺は走る。速度はキロ5分ペース。ベーシックなフル用。
でも後ろの奴らが、ピッタリついてくる音が、なんかおかしい。
ただの集団走とは違う。意志がある。統率されすぎてる。
いや、ちがう。
こいつら、意思じゃなくて、“信仰”で走ってる。
どこかで笑えそうな話なのに、笑えない。
額から落ちた汗が、視界を曇らせる。
まだ数百メートルしか走ってないのに、もう喉が渇き始めてた。