3.朝食前の攻防
外で小鳥が囀る朝のうららかな時間、私は1人で図書室に来ていた。朝日の差し込む窓辺に座り、聖女伝と書かれた一冊の本を手に取るが、その内容はあまり頭に入ってこない。お腹の虫がきゅうぅっと切なそうな声を上げる。
「はあ……やっぱり何か軽食を貰えばよかったかな」
結局あの場は、その後すぐに来てくれたベラによってことなきを得た。
「申し訳ございません、リリアーナ様。エルーシャ様は今朝、考え事をしたいと仰っていたので、エルーシャ様分の朝食の用意がまだ出来ていないのです」
「あ、そうそう! 朝食を食べる前に、図書室に行って調べ物をしようとしてたの」
もちろん嘘だ。母の侍女なのに私の面倒まで見てくれている超絶有能侍女長のベラが、私の朝食の用意を忘れるなんてありえない。もしかしたら、昨日の私の様子からあまりリリアーナと私を近づけないよう、おふれが出ているのかも知れない。
それはそれで寂しいというか勿体無い気もするが、自分のガラスハートを守るためだから仕方ない。私がこの世界の記憶を思い出すか、リリアーナの正体を掴むまでの辛抱だ。
何はともあれ、現時点ではリリアーナとの接点をなるべく減らしたい私は全力でそれに乗っかる。
「でしたら、リリも あとでたべます! おねえしゃまと いっしょがいいです」
「はぇっ!?」
食い下がられるとは思わず、素っ頓狂な声が出る。
ちょっと待って、何でそんなに懐いてくれてるの!? そんな可愛いことを言われたら、うっかり推してしまいそうになるんですけど!?
もしかして、本当に転生者でこちらの正体を探っているとか……? だとしたら、ここは慎重にいかなければ。近くで観察されてボロが出るのも、迂闊に遠ざけて変に勘ぐられるのも困る。
「リリアーナ様、食堂でお父様がお待ちですよ! 昨日、一緒に朝食を食べようとお約束していたじゃありませんか」
「あ、そうでした。おとうしゃまと おやくそく……」
ずっとハラハラと成り行きを見守っていた新人メイドが、ナイスアシストを披露するが、それと同時にリリアーナの花のような笑顔がしおしおと枯れてしまった。
いやああああああああああリリたんの可愛い笑顔があああああ!!?? なにこれ、もしかしなくても私のせい!? 嘘でしょ!? 罪悪感で押しつぶされそう!!
「あっ、そ、そうだ! お茶会! もし、リリアーナさえ良ければ、今日の午後のお茶を一緒にどうかしら?」
「おねえしゃまと おちゃかい……!!」
一瞬でパアァァッと効果音が聞こえてきそうな程リリアーナの表情に笑顔が戻る。くっっそ可愛いっ!!!
「はい、ぜひ! ぜひ、おねえしゃまと ごいっしょ したいです!」
午後のお茶会の約束を取り付けてご機嫌になったリリアーナは、こちらに手を振りながらメイドと一緒に食堂へと向かっていった。
推しに手を振られるというファンサを享受しながら、私はこれからの予定を頭の中で高速で組み立てる。
悲しそうなリリアーナに釣られて思わず自分から接点を作ってしまったが、午後までに必要な情報収集を終えればいいのだ。うん、大丈夫。まだ慌てるような時間じゃない。
というわけで、午後のお茶会までに必要な情報を集めなければいけないのだが、いかんせん朝食をたべていないから頭が回らない。エネルギー溢れる5歳児の身体にとって一日3食の食事は何よりも重要事項なのだ。当然、ベラは朝食の前に軽食を取るか提案してくれたが、前世の感覚で朝食の存在を軽く見ていた私は、そのありがたい提案を断ってしまったのだ。
やっぱりベラに何か持ってきてもらおうかと考えていると、図書室の入り口からメイドに声をかけられる。
「はい、どうぞ」
入室許可を伺うものだったため、返事をするとメイドと共に入ってきたのは、侯爵夫人である私の母だった。
「調べ物は捗っていますか?」
「お母様!?」
だらけきった格好をしていた私は、慌てて居住まいを正す。
母は美少女である私の母なだけあって、上品で高貴な雰囲気の中に優しさも併せ持った美しい女性で、日々の私の生活に潤いを与えて下さる女神様だ。
そして、そんな母の問いに答えるかのように、私の腹がもう一度きゅうぅっと鳴った。
「ふふ、あまり捗ってはいないようですね」
「あの、なぜこちらに? 今は朝食の時間じゃ……」
そこまで聞いてハッとする。そうだ、私が朝食に行かなかったから、食堂には父と母とリリアーナの3人だけ。外で愛人を作っていた夫と、その愛人の子どもと囲む食卓。当然、母にとって居心地のいいものではないだろう。
自分のことに手いっぱいで、私の癒しの源である母に対して、そこまで気が回らなかったことに思わず顔が曇る。
「本当に、あなたもリリアーナも、もう少し感情を隠す訓練をしないとダメね」
苦笑しながらも、その声は驚くほど優しい。
「私のことを心配してくれたのでしょう? ありがとう。でもね、お父様も言っていたとおり、私は本当に大丈夫なのよ」
母のたおやかな手が私の頭を撫でる。視線を合わせてくれる母の表情に無理をしている様子はない。
「……これは、本当はあなたがもう少し大きくなってから伝えようと思っていたのだけど、私とお父様は婚約はしていても、それぞれ別の人のことが好きだったの。だけど、家の都合で愛する人との結婚はどうしても許してもらえなかった」
「つまり、お父様とお母様は政略結婚ってことですか?」
「ええ、そう、難しい言葉を知っているわね。だから、お父様とリリアーナのお母様が愛し合っていることも結婚する前から知っていたし、……それに、お母様にも他に好きな人がいるの」
なるほど、確かに思い返してみると父と母との間に恋人同士のそれを感じたことは一度もない。どちらかというと、友人同士とか、仲のいい同僚のような雰囲気がある。
「でもね、これだけは分かってちょうだい」
母が私の手をギュッと握り、真剣な眼差しでこちらを見つめてくる。
「お父様もお母様も、エルーシャのことを本当に愛しているわ。これだけは、何があっても絶対に変わらない」
何を言われるのかと身構えていた私は、母の言葉を聞いてすっかり気が抜けてしまった。
「そんなこと、言われなくても十分伝わってますよ」
この5年間本当に大切に育ててきてもらったと思う。
現に今も、私のことを心配して様子を見に来てくれた。
そう、私は今とても恵まれていて、幸せなのだ。
(だからこそ、この幸せを壊したくない……)
「さて、お腹が空いたでしょう? 私の部屋に朝食の用意をさせたから2人で食べましょう」
「はい」
そして、出来ることならリリアーナとも良好な関係を築いていきたい。そうだ、異世界にだって仲のいい姉妹は沢山いるはずだ!
もしもリリアーナが転生者だったり、将来悪い道に進んでしまうのだとしても、それこそ私が先回りをしてそれを阻止してしまえばいいのだ。先のことはまだ何も分からないけど、やりたいことだけは今決まった。
『可愛いリリたんと優しい両親との仲良しハッピーライフ計画!!!』
今のこの幸せを壊すものがあるなら、断固としてそれと戦おう。
そう決意した私は、母と手を取り合って図書室を後にするのだった。
次回更新:10月28日(月)7:00