拝啓 私のことが大嫌いな旦那様。あなたがほんとうに愛する私の双子の姉との仲を取り持ちますので、もう私とは離縁してください
「拝啓 わたしのことが大嫌いな旦那様。旦那様、わたしたちのいまの生活に意味はあるのでしょうか? すくなくとも、わたしにはいまの生活に意味や意義を感じてはいません。そして、これからもそれらを感じることはないかもしれません。このさきずっとです。わたしにはわかっています。あなたにはほんとうに愛するレディがいることを。あなたは、ずっと昔からそのレディのことを愛し、ほんとうはそのレディを娶りたかったということを。それなのに、実際に娶ったのはこのわたしでした。だから、あなたはわたしのことが大嫌いなのです。そのことを、わたしは身をもって知っています。つねに感じています。ですから、そろそろ終わりにしませんか? わたしたちの生活を。この意味のない結婚を。ムダな夫婦関係を。あなたからのお返事をお待ちしております」
最後に、「ミカ・スタンフィールド侯爵夫人」と署名する。
この署名をするのは、これを最後にしたい。
そう考えつつ手紙を折りたたんで封筒に入れ、封をした。
「今度こそ、この手紙を彼の手に……」
完璧に仕上がった手紙を、窓から射しこむ月光にかざした。
が、手が勝手に動き、机の端に置いてある箱にそれを放り込んでしまった。
その箱の中には、彼に嫁いでからずっと書き続けてきた手紙が入っている。
手紙の数? これまでに何通書いたか?
数えたことはない。夜、こうして寝台に横になる前に書いているので、千通よりすくなくはないはず。
箱の大きさは、最初よりずいぶんと大きくなってしまった。今では、幅と奥行きは机の三分の一をゆうに占め、片腕を伸ばせばなんとか手紙を放り込めるほどの高さにまでなっている。
「今度もまた、せっかく書いた手紙を彼に渡すことが出来なかった」
つぶやいてしまった。つぶやきは、いまやすっかり癖になっている。
とはいえ、屋敷のみんなの前ではつぶやかないけれど。
「それはともかく、いったいいつになったら彼にわたしの気持ちを伝えられるのかしら?」
いま記したばかりの手紙の内容を、いつになったら彼に伝えることが出来るのか?
わたしのことが大嫌いな旦那様に、わたしの気持ちをいつになったら伝えることが出来るのかしら?
いまのわたしの悩み、というよりは問題である。が、わたしが彼に自分の気持ちを伝えられないというのは、ささやかな問題にすぎない。
それよりも、彼は妻のわたしを愛していなくて、彼がほんとうに愛しているのはわたしとは違うレディだということが問題なのだ。
いいえ。それもまだマシな問題。
最大の問題は、彼がほんとうに愛しているレディには夫がいるということ。しかもその夫というのがふつうではないということ。
夫がほんとうに愛しているのは、わたしのお姉様。
彼女はいま、王都にいる。具体的には王宮にいる。
彼女は結婚していて、その相手がこの国の王太子であるということ。
わたしの問題というよりか、夫の問題かもしれない。
自分の愛しているレディは、手を伸ばそうにも伸ばせない。
それは、彼にとっては大問題に違いない。
姉のオードリーとわたしは、二卵性双生児である。
姉は美しくて気高く、背が高くて最高のプロポーション。性格は、やさしくて気遣い抜群で聡明で社交的で積極的。さらには、前向きで努力家でもある。彼女は、ありとあらゆる長所を供えている。
一方、妹のわたしは姉とはまったく異なる。姉とは、外見も内面もまったく違う。
双生児でありながら、これだけ違うといっそ清々しい。年齢の離れた姉妹でさえ、ここまで違うことはないかもしれない。姉とわたしの共通点は、同じ性別で同じ親だということくらい。
外見内面ともに完璧なのが姉。外見内面ともにダメダメなのがわたし。
しかし、わたしは知っている。そんな完璧な姉にもダメなところがあるということを。
とはいえ、両親や世間には姉のダメなところも可愛く見えるみたい。
だれもが完璧な姉のイメージに暗示にかかっているのだ。
ダメな部分もよく見せる、という暗示に。
それはともかく、わたしはそんな完璧な姉をいつも遠くから眺めていた。けっしてそばには近づかず、そっと見守っていた。
わたしのような「残りカス」が側にいたら、姉に迷惑をかけてしまう。
そう。世間からすれば、わたしはまさしく「残りカス」。姉にいいところを全部持っていかれた、どうでもいい存在。
産まれてからずっとチヤホヤされ、尊ばれ、頼りにされ、大切にされてきた姉と対極をなすわたしは、両親にさえ「残りカス」や「余りもの」や「どうでもいい存在」と思われている。両親だけではない。姉からも。そして、世間からも。
いつも視線が痛い。痛すぎる。蔑すまれ、ないがしろにされてきた。
わたしは、そのような中で生きてきた。
結果、すっかりひねくれ、いじけ、ひがみっぽくなった。
よりいっそうダメになってしまった。
だれかのせいにするつもりはない。結局はわたし自身の弱さによるものだから。なににたいしても臆病だから。
姉のせいにすることなど、けっしてない。
たとえわたし以外の人には完璧な姉が、わたしにだけはひどい姉だとしても……。
この夜もまた、いつものように夫に手紙を書いた。手紙、というよりかは訴えかもしれない。
彼に顧みられることのない生活に慣れたとはいえ、なにもない生活、なにもない夫婦関係を続けることは時間と労力のムダである。彼もわたしもやり直すのならすこしでもはやい方がいい。本来なら、直接彼に言葉でもって訴えるべきなのだ。というか、お願いすべきなのだ。しかし、わたしは姉とは違う。自分の気持ちをうまく伝えられないどころか、彼の顔をまともに見ることさえ出来ない。
彼に話せず、見ることが出来ないのはわたしだけではない。彼もまた、わたしに話したり見ることはいっさいない。もっとも、彼の場合はわたしのように臆病だからではなく、わたしのことが大嫌いというのが理由だけれど。
いずれにせよ、最強のコミュニケーション方法である言葉で伝えることが出来ないから、毎夜彼宛に手紙を書いている。
たしかに、手紙でさえ手渡せないというダメダメっぷりだけど。
いえ、本来なら手渡すチャンスはいくらでもあった。彼は、遠い戦地にいるわけではない。他国ですごしているわけでもない。同じ屋根の下、寝起きしているのだから。すくなくとも朝食と夕食は、いっしょに食べているのだ。わたしたちは、長テーブルをはさんで向かい合わせになり、おたがいにおたがいを見ることなく、当然会話もなく、ただ黙々と食べ物を口に運んでいる。
彼と食事をする際は、料理人ではなくわたしが料理を作っている。社交的で飛びまわっている姉と違い、わたしは屋敷内ですることならなんでも大好きなのである。料理は、もっとも大好きな家事。美味しい不味いはともかく、自分では得意だと思っている。
とはいえ、彼と食事をすると、どれだけ美味しく仕上がった料理でも美味しく感じられない。きっと料理ではなく、食べている環境がそう感じさせるのだ。
わたしだけではない。彼もまた、大嫌いなわたしを前にしての料理は美味しくないにきまっている。
もっとも、彼はわたしが料理を作っていることは知らない。スタンフィールド侯爵家の料理人が作っていると思っている。スタンフィールド侯爵家の使用人たちには、そのようにお願いしているのだ。
それはともかく、手紙を渡すチャンスはそういった食事のときだけではない。
彼は、わたしの行動をつねに見張っている。
とはいえ、わたしに気づかれぬようこっそりとである。わたしも最初は気がつかなかった。しかし、気がついてしまったのだ。
メイドたちと掃除をしているとき。洗濯物を干しているとき。野菜や花の世話をしているとき。居間で読書をしているとき。町で買い物をしているとき。近くの森でベリーやキノコをとっているとき。
彼は、自分が屋敷にいて時間の許すかぎりわたしを見張っている。というか、監視している。
わたしがなにかいけないことや悪いことをしでかさないか……。
彼は、目を光らせている。
いまではもうそんな彼の厳しい視線にも慣れてしまっている。逆に、彼の厳しい視線がないと落ち着かない。そんな自分に自分で驚いてしまう。
最近、そんな彼と食事をしたり監視されたりということがない。
彼はいま、王都に行っているからだ。
いまのところまだ戻ってこない。
じつは王都で不穏な空気が流れていて、彼はその様子を見に行ったらしい。
具体的には、反乱が起こりそうなのだとか。
その話を彼にではなく、彼の執事からきいた。彼のことは、スタンフィールド侯爵家の使用人たちから情報を得ている。
彼の過去について。現在について。
(お姉様、大丈夫なのかしら?)
反乱のことを聞いた瞬間、姉のことが頭をよぎった。
彼のほんとうに愛するレディだから。
彼女は、王太子妃として王宮にいる。
反乱といえば、王族が危険にさらされることになる。
姉になにかあれば、彼が悲しむだろう。絶望するだろう。
彼には、そんな思いをさせたくない。
彼には、そんな苦しみやつらさを味わわせたくない。
だからこそ、姉の無事を祈るしかない。
とにかく、この日も戻ってこなかった。
書き終えた手紙は、なぜかこの夜はいつもの箱に放り込むのではなく机の上に置いた。
それから、夜着に着替え、眠りについた。
が、心がざわめいてなかなか寝付けなかった。
これもまた、いつもとは違った。
心のざわめきは、翌朝になってもおさまらなかった。
(もしかして、彼になにかあったのかしら?)
自分になにかあるのはいいけれど、王都にいる彼になにかあったらと思うと落ち着かない。
しかし、心のざわめきが違う原因であったことは、すぐに知れた。
姉のオードリーが訪ねてきたのだ。
しかも、たったひとりで。さらには、とんでもない姿になって。
彼女が身にまとうドレスは、破れたり裂けたりしているだけではなく、塵埃や得体の知れない汚れにまみれまくっている。それだけではない。ところどころ血らしき赤いシミもついている。
(ズタズタぼろぼろだわ)
彼女の姿を見れば、彼女の身になにがあったのかすぐにわかる。いえ。彼女の身だけではない。王族になにがあったのかを。
(ついに反乱が起こったのね)
美しく気高く誇り高い彼女のいまの姿は、わたしが嫁ぐ前に見たときとすっかり変わり果ててしまっている。
「やっとここまでやって来たわ」
彼女は、開口一番そう言った。
「こんにちは」とか「ひさしぶり」とか「元気そうね」とか「いいお天気ね」とか、いっさいの挨拶を省いて。
「ふたりきりにしてちょうだい。それから、わたしがここにいるということを、だれにも言わないで。いいわね?」
激しくも疲れを漂わせつつそう命じたのは、わたしにではなく侯爵家の使用人たちにだった。
使用人たちは、このただならぬ様子のお姉様からわたしへと視線を移した。
その彼らに無言で頷いた。
姉に従っておいた方がいい。
しばらくぶりに会う姉だからというわけではない。なにせ彼女は王太子妃なのだ。
みんなが居間から出て行くと、あらためて姉を見た。
あれだけ美しかった彼女の顔も汚れまくっているだけでなく、疲れがにじみまくっている。
彼女は、わたしが見守る中侍女が持ってきてくれたお茶をいっきに飲みほした。
「ミカ、あなたに王太子妃をやらせてあげる。わたしのかわりに王都に行きなさい。街道をウロウロしていれば、だれかが見つけて連れて行ってくれるわ。このドレスや装飾品をあげるから、いますぐここを出て街道を王都に向けて歩くのよ」
「ちょっ、お姉様。どういう意味なの? どうしてわたしが王太子妃に? お姉様のかわりをするの?」
意味がわからなすぎる。
「やはり、あなたはバカな娘ね。空気を読みなさい。わたしの言葉の裏に気づきなさい」
彼女の甲高い怒鳴り声は、いつも静かな侯爵家の居間を震わせた。
使用人たちにも聞こえたに違いない。
「ええ、お姉様。わたしはバカですから、空気を読むことも言葉の裏に気づくことも出来ないのです」
姉は、昔からわたしにたいしてだけストレートな表現をした。いまのように。
しかし、彼女の言うことは間違ってはいない。そう信じている。
「バカなあなたでもわかるように詳しく説明している暇はないわ。事情は、だれかに王都に連れて行ってもらう最中にわかるはずよ。とにかく、たったいまからわたしがスタンフィールド侯爵夫人で、あなたが王太子妃。いいわね?」
有無を言わせぬ勢いである。
(なるほど。彼女は、王都から逃げてきたのね。わたしを身代わりにして反乱軍に差し出し、自分は生き残ろうという算段ね)
国王や王妃は、どうなっているのかしら。なにより、彼女の夫である王太子はどうなっているのかしら。
(というか、よくここまで逃げてこられたわね。いったいどうやって逃げてきたのかしら?)
いろいろな疑問が浮かんでくる。
(彼女に尋ねたところで、わたしみたいなバカには答えてはくれないわね)
ささいな疑問は置いておくとして、最大の疑問、というよりか問題がある。
「お姉様のかわりになって王太子妃のふりをしたとして、バカなわたしにお姉様の身代わりが務まるとは思えないわ」
問題は、これである。
双子とはいえ、外見のまったく違うわたしに美しい姉の身代わりが務まるはずはない。
反乱を起こした人たちは、当然逃げた彼女を捜している。姉は、その人たちにわたしを連れて行かせたいのだ。しかし、その人たちも姉の美しさは知っている。なにせ彼女は「美貌の令嬢」で有名だったから。
このわたしがそんな彼女のドレスや装飾品を身にまとったところで、バレるという以前にムリがありすぎる。反乱軍の人たちは、遠くから見ても偽者だとわかるだろう。
「大丈夫よ。連中が欲しいのは、わたしではなくて王太子妃、なのだから。あなたが『わたしが王太子妃よ』と主張すればいいだけのこと。連中にとっては、王太子妃の中身はどうでもいいの」
「はい?」
(バカはあなたよ、お姉様)
そう口から出そうになったことは言うまでもない。
(いずれにせよ、とりあえずわたしは彼女の身代わりになるしかない。すぐにバレるけれど。だけど、お姉様の言うように、万が一にも反乱軍がお姉様自身ではなく王太子妃という肩書を断罪したいのなら、わたしを王都に連行するはず。そうすれば、お姉様がここに残って侯爵夫人になれる。ということは、彼の長年の想いがかなうということね)
いまのわたしは、ありえないことでも自分にとっていいように解釈するしかない。
どうせ姉の思いどおりにしなければならないのなら、わたしが実現するようがんばればいい。
彼の想いがかなうのなら、わたしはどんな困難だって乗り越えてみせる。無茶なことだってやりとげてみせる。
わたしは夫に愛されなかったばかりか顧みられず、物理的に視線を向けてさえもらえなかった。しかし、ここでの日々はそこまで悪くはなかった。
彼が近くにいるというだけで、心のどこかに安心感があった。平穏だった。
なぜかわからないけれど、いまそのことに気がついた。自分の気持ちに素直になれた。
もしかすると、もう二度と彼に会えないからそう思えたのかもしれない。
とにかく、これはある意味チャンスである。
姉を助けるつもりはないけれど、彼のしあわせを思えばいい。
「お姉様、わかったわ」
凛と答えた。
そのつもりだったけれど、実際はそう答えた声は震えていた。
恐怖と不安によって。
「奥様、旦那様がお戻りになるまでお待ちください」
「そうです。奥様が身代わりなどと、旦那様が許すはずがありません」
「そもそも、身代わりになる必要はありません」
「うまくいくはずがありませんよ」
お姉様の内密の話は、スタンフィールド侯爵家に響き渡っていた。
当然、使用人たちはわたしを引き留めた。
しかし、わたしにも都合というものがある。
お姉様がここにいる以上、わたしは邪魔になる。彼女にとっても夫にとっても。それだけではない。お姉様を捜している反乱軍の人たちが侯爵領内にいたとすれば、彼らは領民たちに迷惑をかけているかもしれない。
とりあえず、ここを出て彼らに捕まえてもらう。そのあとは、どうにかなる。
というか、どうにかすればいい。
「旦那様がお戻りになるまで、迷惑でしょうけど姉をわたしの部屋にでも閉じこめておいてください。旦那様さえお戻りになれば、あとは旦那様がうまくやってくれるはずです」
夫は、元軍人。将軍だった。その上、政治的にもうまくたちまわっていた。どちらも引退してしまっているけれど、そんな彼ならこの状況をうまくやりすごすはず。
たとえば、スタンフィールド侯爵領のどこかでひっそり暮らすようにするとか、亡命するとか。あるいは、世間には姉をわたしだということにしてうまくやりすごすとか。
いずれにせよ、彼ならうまくやる。
そう信じている。それから、確信している。
というわけで、恐怖や不安で気が挫ける前にスタンフィールド侯爵家を出て行った。
姉が着用していたボロボロのドレスは、わたしには大きすぎる。わたしの方がかなり背が低いからである。とにかく、重くて長いドレスをひきずり、履き慣れないヒールに苦戦しつつ町を抜け王都のある方向へと街道を歩いている。
とりあえず、街道を歩いた方が姉を捜している人たちも見つけやすいだろう。
夜になってもだれも追いかけてこない。王都の方からだれかがやって来ることもない。
道端の岩や草むらに座って休憩しつつ、ひたすら王都を目指した。
「このまま見つけてくれなかったら? 王都まで歩き続けるのはぜったいにムリ」
距離的な問題だけではない。この恰好だし、なにより体力がない。街道馬車に乗るのも、他の乗客に迷惑をかけることになる。
なす術はない。だから、このまま歩き続けるしかない。
というわけで、また歩き続けた。
仮眠を取ったり休憩をはさんで歩き続けていると、ようやく夜が明けてきた。
今朝も清々しい朝を迎えそうである。
夜の闇は怖かった。一方、朝の光は安心する。
元気が出てきた。空腹は、すでに感じなくなっている。それよりも疲れている。
すると、背中で馬蹄の響きを感じた。
振り返ると、わたしが歩いてきた方角から何頭もの馬がやってくる。
「やっと見つけてくれたのね」
不安や恐怖などより、安堵の方が勝った。
複数の騎手たちは、やはりわたしを、というか姉を、というよりも王太子妃を捜している人たちだった。
その先頭で馬を立てている人の顔を見たとき、すべてを悟った。
その彼はいま、視覚的にやっとわたしをまともに見ている。それこそ、わたしの顔や体に穴が開くほど熱心に。
その彼の瞳がわたしの大好きな蒼色であることに初めて気がついた。
彼は、やっとわたしをまともに見てくれた。それは、皮肉にも嫁いできて初めてのことである。そして、わたしもまた彼を初めてまともに見た。
そう。その彼は、わたしの夫である。
わたしの夫であるはずのキャメロン・スタンフィールド侯爵なのである。
「きみたちは、このまま王都に戻るといい。今後、われわれはいっさい関係はない。わたしが関与することもない。そのことを、首謀者によく伝えよ」
わたしが夫に見惚れていると、彼はすぐうしろにいる兵士に言った。
「閣下、かならずや。ですが、われわれのリーダーは閣下の協力をお望みです。あたらしい国には、閣下のような人物が必要だと申されています」
「だれでもきっとそう言うだろうな。いまはひとりでも多くの貴族を味方につけたいだろうから。しかし、わたしはもう古い。年寄りだ。考え方、行動、すべてにおいて時代遅れなのだ。きみらのリーダーには、わたしなどよりきみらのような若くて才覚のある人物がずっとふさわしいだろう。さあ、さっさと行きたまえ。そのくそったれのレディを、失礼、元王太子妃を連れてな」
夫のその言い方は、厳しい内容のわりには穏やかだった。
彼が兵士たちの間に視線を送ったことで、一頭の馬におおきな荷物がくくりつけられていることに気がついた。
厳密には、だれかがうつ伏せの状態でくくりつけられている。
「お姉様っ」
それは、間違いなく姉だった。
わたしの普段着を着用した姉は、身がちぎれそうなほどきつく縛られ、馬にくくりつけられている。そして、口にはご丁寧に猿轡までかまされている。
「ㇷガッ! フガフガッ!」
姉がなにかを訴えているとしても、わたしにはわからない。
なにせわたしはバカだから。
「侯爵夫人、ご心配なく。あなたは関係ない。われわれが断罪するのは王族だけだ。とくに王太子と王太子妃は、すでにその運命が決まっている。彼女は、王都に戻ったらすぐ断頭台に立つことになる」
兵士が言った。
「侯爵夫人。残念ですが、あなたのご家族も彼らの利を享受しただけでなく、増長させた罪により監獄に送られることになるでしょう。そして、一生そこですごすことになる」
彼は、そう言ったけれどちっとも残念そうではなかった。
そして、わたしも。
(わたしって、こんなに薄情だったのね。わたしって、こんなに冷酷非情だったのね)
姉や家族の末路や悲惨な将来を告げられても、なんの感情もわかないのである。
怒りや悲しみ。それどころか、「ざまぁみろ」とか「せいせいした」とかも。
真っ白だった。なにも思えず、考えられない。
反乱軍の兵士たちは、姉を連れて王都へと去った。
姉は、ずっとわたしに燃えるような視線を向けていた。
(さようなら、お姉様)
その視線を全身で浴びながら、彼女に別れを告げた。
気がつけば、夫であるはずの侯爵が馬を降りて横に立っていた。
「帰るぞ。みなが心配している」
彼は、わたしを見てくれただけでなく話しかけてくれた。
「あの……」
言いかけたけれど、あいにく言葉は出なかった。
「机の上の手紙だが、答えは『ノー』だ」
彼は、わたしとしっかり視線を合わせたまま唐突に言った。唐突すぎて意味がわからなかったけれど、すぐにどういう意味かわかった。
毎夜、彼に認めていた例の手紙のことである。
「今回のことはなにも尋ねるな。きみは知る必要のないことだから。それに、知ったところでどうにもならない。ただ、謝罪する。きみをひとりにしたばかりにひどいめにあわせてしまったことを。それから、いままでのことも」
彼は、いきなり頭を下げた。
こうしていると、彼はめちゃくちゃ背が高い。その彼が、ふたつ折れになるほどの勢いで頭を下げたのだ。
驚きすぎて、口があんぐり開いてしまったほどである。
「いえ、侯爵閣下……」
「誤解だ。わたしには最初からきみしか見えていない。王都できみを見て一目惚れし、好きになってしまった。どうしてもきみを娶りたかった。だから、きみのことなど考えもせずに強引に妻に迎えてしまった。しかし、わたしはきみよりずっと年長だ。しかもごつくて強面だ。さらには、性格はよくない。とくに恋愛に関しては、苦手すぎる。きみを妻に迎えたはいいが、どうしていいかわからなかった。不甲斐ないわたしは、きみと直接口をきくことさえ出来なかった。だから、きみがわが家で快適にすごせるよう使用人たちにはからってもらうしかなかった」
さらに驚くべきことに、彼は無口ではなかった。
(ちゃんと喋れるのね)
驚きを通りすぎ、感動さえした。
とはいえ、いまの彼の説明でこれまでのことに合点がいった。
毎日部屋に飾られる花。書斎にあるわたし好みの本。屋敷内の装飾品や調度品。日々のちょっとしたこと。てっきり使用人たちが気を利かせてくれているとばかり思っていた。しかし、すべて彼の指示だったのだ。
(ということは、彼がわたしを見張っていたのは、姉がらみの監視ではないってこと?)
わたしを追いかけてきた彼を見た瞬間、彼がわたしを監視していたのは、彼が反乱軍に味方していて、反乱が起こったら姉がわたしのもとに逃げてくる、もしくはコンタクトを取ってくることを予測し、わたしを監視していたのだと思いいたった。
しかし、その推測はまったくの的外れだった。
彼は、反乱軍とは関係がない。ということは、それ絡みでわたしを監視するわけはない。
「きみを遠くから見ることさえ、わたしにとってはかなり勇気のいる行動だった」
「そうでしたか……」
そうとしか答えようがなかった。
たしかに、情熱的な視線だったような気がしないでもない。
「食事は、あれはあれで距離があるからなんとかもちこたえられた。きみの作る料理は、どれもあたたかくてやさしくて、なにより美味い」
「ご存知だったのですか?」
「もちろん。うちの料理人よりずっと繊細で美味いから」
「ですが、あの状態で食べるのは、きっと美味しくなかったはずです」
わたしもそうだから。
楽しく食べなければ、どれだけ素晴らしい料理でも味気なく感じられる。
「きみの手紙を読んだ瞬間、こんなことではダメだと悟った。きみは、身代わりという勇気ある行動に出た。男のわたしが、いや、夫のわたしがこんなことでどうする、とな」
「侯爵閣下、もういいのです。わたしも悪いのです。わたしにも非があります。あなたは、てっきり姉を愛しているものとばかり思いこんでいました。あなたから『妻に迎えたい』とお話をいただいたとき、姉はちょうど王太子と極秘に付き合っていました。ふたりの婚儀が決まったという噂が流れていました。ですから、あなたは仕方なく姉に最も近いわたしを、せめて姉のかわりにと欲したのかと考えたのです。ですから、あなたに愛されていないと思うとどうしても気おくれしてしまい、その結果いろいろなことをこじらせてしまいました。侯爵閣下。ですから、おたがいさまなのです」
彼だけではない。わたしも饒舌なのだ。
ふたりとも、いままで会話をしなかった分を取り戻したいのかもしれない。
「侯爵閣下、時間はたっぷりあります。これまでの時間を取り戻すには充分すぎるほどです。そうですよね?」
「ミカ、その通りだ。わたしは、不器用で不愛想だ。こんなわたしでもよければ、これからもいっしょにいてくれるか? とりあえず、いますぐいっしょにわたしたちの屋敷に帰ってくれるか? いまはまだ、きみに『愛している』とか『しあわせにする』とか、そういう恥ずかしいことを言えそうにないが、それでもいいか?」
彼は、視線をあらぬ方向へ向けた。
彼のごつい顔は、真っ赤になっている。
その真っ赤に染まったごつい顔が可愛い、と心から思えた。
「ええ、ええ。侯爵閣下、大丈夫です。いま、仰っていただきましたから。いまは、それだけで充分です」
おもわず笑ってしまった。
「わたしもです。わたしも不器用です。それから、臆病すぎます。わたしは、『気遣って欲しい』とか『大切にして欲しい』と、あなたに面と向かって言えそうにありません」
そして、ちゃっかりそうねだっていた。
あらぬ方向に視線を向けて。
ふたりで同時に笑った。
そのとき、彼はいま彼に出来る最大最強の愛情表現をしてくれた。
わたしを全力で抱きしめ、口づけをしてくれたのだ。
キラキラ光る陽光の中、これまでの時間を取り戻すことなどどうでもいいと思った。
それよりも、これからの時間をふたりですごすこと、ふたりでしあわせになることを考えるべきである。
いろいろあったけれど、わたしたちは今日はじめて夫婦になった。
ほんとうの夫婦に。
(了)