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帰ってきたアッシュ王弟殿下


 庭ができてもすぐには、殿下は帰ってこなかった。


 学生として2年、公爵邸の女主人として慣れるのに1年、庭づくりに没頭して2年、結局、私たちの白い結婚式から5年後、今年の春遅く、殿下は馬車で初めて見る自宅に担ぎ込まれた。


 戦争は隣国の勝利に終わり、国境線は守られたらしいが、アッシュ王弟殿下の左足首の包帯にはべっとりと血が滲んでいた。


 1階の看病用の寝室に辿りつくなり意識を失った殿下の顔は、学園一の美形と謳われた青年のものではない。


 数日たって殿下が目を覚ました時、彼は虚ろな目でサイドテーブルに飾っていた鈴蘭の花瓶を眺めていた。


 2週間後、枕を背に上体を起こせるようになったときが、白いアイリス。


 綺麗に咲いたから見てもらおうと鉄砲百合を持って行ったら、「匂いがきついから百合はやめてくれ」と言われてしまった。


 帰国後初めて聞いた言葉がこんなだなんて、私は腕の中の花を抱きしめてこの庭に駆け戻ったっけ。


 さらに1週間後、殿下は寝台を離れ掴まり立ちができるようになって、お祝いも兼ねて腕いっぱいの白の芍薬と薔薇を生けようと寝室を訪れると、

「歩行訓練するから、花瓶と花は片付けてくれ」

 と。


 殿下に意識のないときはよかった。医師や看護師の手伝いとして包帯を替えたり、身体を拭いたり、妻らしいことができた。


 自分でも必死だったから、辛いとも苦しいとも感じず、寝汗をかいた胸や背中を拭いながら、「早く元気になってください」とただただ祈った。


 意識が戻って、本人が一通りのことができるようになったら、わたしはもうお役御免、してあげられることがない。


 衣食住は従者たちが気付かぬうちに整えてしまう。


 朝夕の食事は一緒でも、食事中の私語はしないように躾けられてきた。


 殿下が飲んでいる特別な薬湯は、家令が毎日用意している。


 領内のことは家令がまとめて報告し、国家の案件は王家から刻々と通達が来るようで、殿下はベッドからマホガニーの机まで室内を伝い歩きして執務に取り組んでいた。


 読書に勤しんでいることもある。


 わたしは何をしてどう話しかけたらいいのかわからなくなった。


 殿下の病室が執務室に代わり、わたしはもう、ドアをノックする言い訳がない。


 そんな夜のこと。


「旦那様ももう大丈夫です。安心してお里帰りしてもいいですし、町におでかけも楽しいですよ? お友達を誘ってお茶会でも開きますか?」


 わたしの寝支度を整えながらアンは提案してくれたけれど、どれも気が乗らない。


 6月2日は殿下の誕生日だったのに、ささやかなパーティも開かせてもらえなかった。


 「そんな気分じゃない」そうだ。


 わたしは、造りのしっかりしたローズウッドのウォーキングスティックを誕生日プレゼントとして贈った。


 首のところのプレートに殿下のイニシャルと、「愛を込めて 妻より」と刻印してもらったけれど、仏頂面で一言、ありがとうと言ってくれただけだった。


 アンにそそのかされてその頃から、3階の夫婦用寝室で眠ることになった。

 それまでも邸内の自室のベッドで一人寝ていたが、王様夫妻が使いそうな豪華なメインベッドだと広々とし過ぎて、夏だというのに心がうすら寒い。


 夫は1階で眠っているのだろう、1か月過ぎても隣はもぬけの殻だった。


 ある夜、寝室のドアに物音がして、わたしは縮こまった。


「え、誰? こんな時間に」


 アンの足音じゃない。もっと重たい。家令? それとも強盗?


 ギィ―――――ッとドアが開く。


 暗い部屋の中に、廊下の窓明りが射し込み、逆光の背の高い影は肩で息をしながら数歩近づいた。


「やっと3階まで階段上がれたっていうのに」


 殿下の声だった。


「その報酬がこれとはね」


 わたしは掛布に半分顔を隠しながら夫のほうを窺った。


 彼の目線の先には、白百合を生けた花瓶。

 庭であまりに綺麗だから、綺麗なのに夫の部屋には飾れないから持ってきていた。


「この花があったら落ち着かない。私は君を愛せない。虫除けにもってこいだ。そうだな、次は除虫菊ってのはどうだい、あれも白花だろ?」


 わたしは布団の中に潜り寝たふりをした。


 人が違ってしまったような、皮肉な物言いが悲しい。


 14歳で婚約してから毎週月曜日に朝摘んだ花々を学園に持ってきて、照れながら渡してくれた殿下と同一人物だと思えない。


 たまに馬車で王宮庭園に連れて行ってくれて、花束にした植物の育っているところを見せてくれたりもしたのに。


「心配いらない、ゆっくりお休み」

 殿下はわたしの髪にキスを落として去っていった。


 それが今月、7月の初めで、そして昨日が「ウェセックス公アッシュ王弟殿下社交界復帰歓迎パーティ」だった。


 殿下は、漆黒の髪色に合わせた黒タキシードに、艶々のカマーバンドは瞳に合わせてブルーというエレガントないでたちに着替えながら、

「こんな足でダンスも踊れやしないのに、復帰とか言われても」

 と、ぶつぶつ言っていた。


 昔、王立学園で見ていたはずの、誰にでも優しく思慮深い姿とはかけ離れている。


 戦争が殿下を変えてしまったのか、足の怪我のせいなのか、もしかしたら、わたしのことが邪魔になってきたのか、疑念ばかり心に渦巻く。


 夫婦そろっての初めての公式行事、わたしは失態をさらしそうで恐いのに、殿下はわたしの緊張などに気付きもしない。







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