水張り師匠
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
へー、これが忍者の使ったとされる道具のひとつ「水グモ」か。
創作だと、この円形の真ん中に足を設置して、水のうえをすいすい動いたというけど、なかなか怪しいなあ。
この図だとどれほどの大きさか分かんないけどさ。人を支えるんだったら、それにふさわしい大きさになるんじゃない? いくら人間が骨と皮だけになるほど、思い切り痩せたとしても、体重以外に各種道具類の重さもあるわけでしょ?
最近は、実は真ん中のところに入れるのは、足じゃなくて身体。周りの円部分は浮き輪代わりになって、半分身体を沈めながら動いていたんじゃないか説も出ているんだってさ。水かきとかのフォローを込みで。
実際、想像してみると当初のイメージよりかっちょ悪いけど、水の厄介さを考えたら、ありかもなあと、個人的には思う。
水は人間がいまだ、完全には克服できていないものだ。
各種装備があれば自在に泳げるといっても、専門家の魚には及ばない。度を過ぎた水圧には耐えられないだろうし、そもそもカナヅチのため、いささかも泳げない人もいる。
水の秘めたるパワーは、まだまだたくさんあるかもしれないね。
かくいう僕も、小さいころに奇妙な体験をしたんだけど、聞いてみないかい?
昔の僕は、水たまりに魅せられたひとりだった。
周りの子は長靴をはきながら水たまりを蹴散らし、そのはねをあちこちに飛ばしながら、空っぽにしていくことにはまっていたのが大半。それに比べると、僕のするアプローチは落ち着いていたものだと思う。
僕は水たまりをパレットに、地面に絵を描くのにはまっていた。せっかく自然が用意してくれた、ありあまる絵の具だ。使わない手はないだろう?
多少なりとも、絵心があると自負している僕の今回のモチーフは、雪の結晶だった。
つい先日、図書室で写真を見たのが大きい。
僕の描くのは、樹枝六花。中心部から六本の枝が伸びている、典型的な形だ。水たまりそのものの形にも手を入れ、そこから枝を筆代わりに支流を組み立てていく。
枝が地面をなぞり、えぐるたび水が流れ込んでくる。いまのいままで飢えていた、と言わんばかりの貪欲ぶりだ。
大きい水たまりを選んだが、それにおごってはいられない。一ヵ所をひいきにしていては、他のところへ渡す水が足りなくなってしまう。
そうなれば竜頭蛇尾を越えた、首だけドラゴンのようなもの。どこのデュラハンにくっついて稀代の魔物を生むのやら。
どこまでも細心の注意を払い、僕は水たまりの限られたリソースを六つの枝へ行き渡らせていく。溝の幅と細さへのこだわりがミソであり、神経の使いどころだ。
慎重になぞった枝が、やがて最後の一筆へ迫る。
ふっと深呼吸。そうっと着けた枝の先端が沈み、かすかに余力を残していた支流の水が、さあっと走り込む。この芸術立つ瞬間が、何物にも代えがたい、作者冥利に尽きる時間さ。
そのせいか、耳に残った。枝を置き、いままさに放心しようとしている聴覚が、意識とは別に声を拾ったんだ。
「先生」とね。
誰かと、僕はあたりを見回す。
ここは公園にある背が高い樹の影。乾きづらい水たまりを選ぶとなると、どうしても日当たりの悪いポイントを選んでしまう。自然、あたりから見えづらい位置に立っていた。
それらしい人影はない。木の向こう側とか、どっきりを思わす近場にいるのかと思いきや、それもない。聞き間違いにしては、いやに鼓膜へよく響いていた。
先生、という言葉も気に食わない。仲間うちでこの手の評価が下されると、そいつはほとんどが皮肉だ。「画伯」などと評されるに近い、ネタじみた罵倒だ。
個人的に、気に食わない言葉。僕は公園中を回るも、犯人らしき影を探すも無駄骨を折ってしまう。
自分でもそうとう根に持ったらしく、晩ご飯の食卓で家族にぶちまけるほどだったよ。
「先生ってのはね、真似したがるほどうまいってことでもあるんだよ」
母がそう教えてくれた。皮肉な意味ではなく、大勢が考えるような、まっとうな意味でとらえてもいいんじゃないか、と。
たとえ諭されても、重ねた経験は簡単にひっくり返るものじゃない。心の中では不満げに口の先をとんがらせたまま、僕は早めに布団へ入った。
その日はほとんど夢を見なかったよ。代わりに、口の中へしばしば溜まってくるものがあるんだ。
つばじゃない。苦すぎる。
当時はふきとかの苦みあるものが嫌いだったが、いま味わっているこれらは輪にかけてひどい。
ややもすると、含んでいる口の粘膜をぴりぴり刺激し、しびれを残すほど強いものを発してくる。
夜の間、僕は何度も身を起こしてティッシュを口にあてがった。
薄いティッシュの紙は、吐き出したものをすっかり吸い取り、色を薄めてしまったがその色はどこか黄色や緑じみているように見えたんだ。
前者ならまだ、タンかもと思える。でも、さすがに後者は人間が出していいものじゃないだろう。メロンシロップかき氷なんて、ここ数年、縁遠くなっているものなのに。
その晩、数えきれないほどの、文字通り苦汁がにじみ、僕は汚れティッシュを大いに作る羽目になった。
先生うんぬんへの不満どころじゃない。もはや病気か、呪いのたぐいじゃないか。
起きてきた親に訴え、病院に連れて行ってもらう。朝から午後のはじめにかけて調べられる限りのことはしてもらうも、立派な健康体と太鼓判を押されてしまった。胸をなでおろす親とは対照的に、僕は複雑な心地だったよ。
まるまる無駄にしてしまった一日。まだ陽は出ているも、いまから学校に行っても、とんぼ返りになる時間帯だ。
あの時の公園から、ケチがつきっぱなし。
むかっ腹を立てる僕は、もう一度現場へ舞い戻る。あの「先生」とけなされた現場へね。
ちょうど絵描きをしていた時と、ほぼ同じ時刻だ。伸びる影の向きや大きさもほぼ同じ。その影の中をのぞいて、僕は思わず目を見張っちゃったんだ。
僕の作った水たまりの結晶は、まだ残っていた。
それだけでなく、僕の水たまりより、わずかに奥にずれてそっくりな結晶が、もうひとつできている。
少し観察して、そいつは僕のように水で作ってあるのではないと分かった。ところどころ、光る水玉を浮かばせているも、その中心も、そこから伸びる六つの枝も、すべてが細い糸でつむがれていたんだ。
しばし見とれる僕の背後から、不意に羽音とともに飛び込んでくるものがあって、つい飛び上がってしまう。
カナブンだ。耳元をかすめるように飛び、影の中へ入り込んだそいつは、二つ並ぶ結晶のうち手前側。僕の作った水たまり製の中へ降り立ったんだ。
とたん、僕の口の中へ昨晩にさんざん味わった、苦い汁があふれ出る。
同時に、降り立ったカナブンが仰向けになるや、手足をばたつかせてもがき始めたんだ。
虫によっては、体勢を戻すのは容易じゃない。ああなってはもがきにもがいて、どうにか重心がずれるきっかけをつかむよりないだろう。
すでに,、僕の口内は苦汁でいっぱいだ。たまらず吐き出したそれは、ほんのり黄色がかっているように見えたけど、すぐ土へかぶさって、しみついてしまう。
カナブンの動きは、みるみる弱っていく。気のせいか、その姿もふくらみを失い、しぼみかけているかに思えたよ。そして、僕の口内はまた、おのずと苦汁をため始めてしまう……。
三度吐き出した後には、もうカナブンは動かなくなっていた。その身はほとんど干物になってしまっている。
僕はあらためて目を凝らし、そして確かめる。
僕の作った水たまりの結晶。その中心と六つの枝たちのそこかしこに、大小の虫の死骸が浮かんでいること。彼らは一様に、すっかりしぼんで干からびてしまっていることを。
「先生」
あの時の声が、また聞こえた。やはりすぐそばで。
ふと顔をあげると、影の中で背の高いものが動いた気がする。「なんだ?」と一歩後ずさり、よくよく目を凝らして、今度こそ僕は短く声をあげた。
背の高いクモが、そこにいた。
僕のものより奥に立つ、糸でつむがれた巣。それをまたぐようにして、数本の足で立つそれは、当時の僕と同じくらいの背丈があったんだ。
虫は苦手じゃないけれど、さすがに人と同じ大きさは規格外。夢中でその場を逃げ出した僕は、自室で布団を頭からおっかぶり、長いこと震えていたよ。
どうやら僕ははからずも、長く巣を張れずにいたあの大きなクモに、うまい巣の張り方を伝授してしまったらしい。ゆえに先生呼ばわりだと。
クモは人間などが胃でやる仕事を口でやる、いわゆる口外消化をする生き物だとも聞く。
巣の形ばかりでなく、その効用についても僕は写し取ってしまったようだ。
このままだと、ずっと虫の液を口にすることになる。
そう考えついた僕は、木製バットを片手に三度現場を訪れるも、そこには僕の結晶を残し、あのクモも巣も消えてしまっていた。
僕が作品たる結晶をめちゃくちゃに乱してしまうと、もう苦い汁が口にあふれることはなくなったんだよ。