母との別れ
最初の先輩に二週間ついて回ったあと、今度は他の乗務長についてまた二週間研修をした。
全ての研修が終わると、本社に戻り担当車を受け取っていよいよ一人立ちになるのだが、大型車の準備が間に合わなかったという事で、とりあえずは四トン車を受け取って仕事をすることになった。
最初の運行は九州だった。
福岡近辺で荷物を降ろし、九州のベースとなる北九州支店に入って挨拶をし、帰り荷の指示を待つ。
すると、関東行きは無いが東北方面の荷物があるというので、それを積んで走ることになった。
北九州から東北だと3日運行になる。
金曜日の夜に出れば、月曜日降ろしになるわけだ。
場合によっては2日運行になることもあるが、この時は3日運行で余裕があったので、一度横浜の自宅に寄ってから東北の降ろし地へ向かうことにした。
自宅によって休憩したあと、横になってのんびりしている母親に『いきなり南から北だよ。』と言うと、『気を付けなさいよ。』と言われ、『行ってきます、』と家を出た。
これが母親と交わす最後の言葉になるとは知るよしもない。
翌日の朝一、青森で荷物を降ろすと、岩手、宮城、福島と荷物を降ろしていき、空車になると郡山の支店に入った。
関東行きの荷物を依頼すると、その日は荷物がなく、支店で一泊して翌日の荷物を積むことになった。
支店の風呂に入り、湯船に使っていると、事務所の人が入ってきて、『妹さんから電話です。』と、言われた。
なんだろうと思って風呂を出ると、電話にでた。
『お兄ちゃん、早く帰ってきて!』
泣きながら妹がうったえてくる。
『どうした?』
話を聞くと、母親が脳内出血で倒れ、意識不明の重体だという。
支店の人に事情を伝えると、翌日の荷物をキャンセルし、母親が運び込まれた病院に向かった。
病院につくと、手術は終わっており、頭に包帯を巻かれ、いくつもの機械につながれた母親と対面することになった。
医者の説明によると、頭のど真ん中の血管が破れた為、意識が戻る可能性は限りなく低いということだった。
そんな母親を置いて長距離を走る訳にもいかず、会社には事情を説明して、大型車を受け取ったあとも、何かあったらすぐに帰れる地場仕事をすることになった。
主に関東周辺を回るので当然運賃は安く、歩合制なので結果的に稼げなくなってしまったのだ。
こんな状況になると自費出版とか言っている場合ではなく、諦めることになると共に、母親を心配しながら仕事をするうちに、彼女に対する気持ちも、徐々にフェードアウトしていくことになった。
母親が倒れてから約半年、結局意識が戻ることはなく、そのまま他界してしまった。
元々父親と家族は確執があり、母が他界したことで、俺も妹も一人暮らしを始めることとなり、家族はバラバラになった。
そして、地場仕事をする必要が無くなったことから、九州と北海道をメインにした本格的な長距離トラックの仕事が始まったのである。
この辺のエピソードは全然『のほほん』していないが、転職の流れを説明するために、あえて記した。
ということで、本来の『のほほん』したエピソードに繋げていきたい。
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