書き狂い
首筋に何かが触れる感覚を得て、彼女が側に来たのだと知る
「どう?調子は」
僕の注意が向けられたと気づいた彼女はその程よく肉の乗った白い滑らかな腕を僕の首に絡ませてくる
「ぼちぼちだよ」
全然ノらないと思っていた原稿も気づけばびっしりと黒く埋められていた
よかった、間に合ったみたいだ
心の中で安堵するが、それを顔に出すことはない
これぐらい何でもないと言うような様子で彼女にもたれ掛かる
間に挟まれた椅子の背がぎしりと音を軋ませた
僕の顔を覗き込んでくる彼女の髪がまるで、天上から降り注ぐ雨粒の線のように僕の頬を流れる
彼女の瞳は初めて会った時と変わらず好奇心をたたえ、僕を捕らえる
「そう、楽しみだわ、先生の新作」
彼女がけらけらと笑う
酷く愉快そうに
ぎゅっと力を入れられたその腕がまるで僕の首を締め付けてくるように思えた
彼女の腕は白蛇となって、気の利いた言葉か通る事もない使い物にならない首をじっとりと長くゆったりとしかしやがて掠れた息さえ通らないように締め殺してくるんじゃないか
そんな気配がする
全てが妄想で、僕の職業病だとはわかる
だが、本当にこれは病だ
恐らく精神をやっちまってる
折角、両親が健康な体に産んでくれたと言うのに、僕の内面がそれを長物と化している
しかし、これは彼女のせいにするつもりはない
とっくのとうに、僕は壊れていたのだ、ポンコツの不良品だ
寧ろ、彼女のおかげで、僕はまだ現世にみじれったらしくしがみついていられるのだから、感謝しなければならない
「さてさて、私はお邪魔にならないうちに退散しますよ」
彼女から解放されて、僕の心は酷く虚しくなる
いっその事、君に殺してもらえたら僕は躊躇うことなく喜び勇んでそちら側に行くと言うのに
しかし、そんな事は言えない
彼女が僕に求めていることは僕自身ではないのだ
僕が生み出す作品、空想の世界
彼女の果てることのない探究心を満たすそれ
僕のことなど、どうでもいいのだ
文句など言えない
彼女をあの新緑の森から連れ出したのは僕だ
彼女に飴をチラつかせ、彼女に1番似合いの場所から攫ったのは他ならぬ僕なのだから、ちゃんと責任をとらないといけない
水分をたっぷりと含んだ森の空気の中でそれをいっぱいに吸い込んだ美しい少女
その白く艶かしい肌は木々から滴る水滴を弾き、一層白く光る
伏せられた目がこの神聖な場を荒らした闖入者を見つめた時、僕は彼女に囚われてしまった
全ては僕が悪い
彼女を欲した僕が悪い
そんな事は知っている
しかし、彼女を誰にも触れさせたくないし、彼女の存在を誰にも知らしめたくない
その為には彼女がここを出て行くなどと露にも思わないように、いそいそと筆を走らさなければならない
奴隷ーーそう、奴隷だ
彼女を捕らえているつもりで、本当に囚われているのは僕なんだ
支配されているのは、僕
君は僕から絞れるだけ絞って、搾りかすとなった僕をほいと捨てていくんだ
そして、その玉のような光を閉じ込めた体を野に解き放つのだろう
もう嫌だ
何も書きたくない
でも、書けない僕など何の価値もない
彼女の興味を惹くには口下手な僕はこうして、ラブレター代わりの原稿用紙を山にしないといけないんだ
X
「そろそろ休めば?」
書斎に女性が滑り込む
此方に向けられた背からその言葉はもう用を成さない事を知る
うつ伏せになった男の下には書き連ねられた紙が散乱している
それをそうと引き抜き、順番毎に纏めてやる
ふん
女はそれを片手に暫くその場に立ち尽くしていた
「ふむふむ、やっぱり先生は少し壊れてた方がいいものを書きますね」
女はそれを封筒に入れて、封を閉じ大事そうに腕の中に抱え部屋を後にする
家を出てすぐ近くの郵便ポストに投函し、帰ってくる
戻ってきても男は先程の様子から全く変化がないから気にする事もない
温かい珈琲を淹れてやり、その香りを、鼻先に近づけさせてやれば十分だ
「…起きました?」
男は虚ろな目で女を捕らえる
その両方の下には真っ青な隈ができている
「…」
「原稿は出しておきましたよ
さぁさあ、こんな所でいつまでも寝ていたら、体中傷んでしまうんですから、ベットへ行きましょう」
「…」
男は黙ってむくりと立ち上がる
まるで、死人のようだ
女は男がこうなる度に毎度そう思う
男を急き立ててベットへ向かわせ、そのマットレスに倒れ込んだ男に毛布を掛けてやる
事切れた男はまるで遊び疲れた幼児のようだ
重労働にふぅと息をつく
やがて、男を放置し元来た部屋へと帰った
気合を入れ直した女はまず、床一面に広がった紙を拾い集め、ファイリングしてやり、壁際の棚に収納する
こうしないと、部屋の掃除などしない男が次の作品に取り掛かった時、全てがごっちゃになってしまうからだ
それから、男が齧り付いて離れなかった机の上も整頓してやり、消耗品の在庫を見る
ペン軸は変えてやった方がいいみたいだ
可哀想に、まだ買い替えたばかりなのに早い寿命がきてしまったようだ
男が一度取り掛かるとそこから全く離れず、何も触れさせないので、この僅かな休憩の合間は逃さない
すっかり元々の様子に仕立ててやった部屋を眺めながら、男の為に用意した珈琲に口をつける
もうすっかり冷めてしまっていたが、猫舌なので丁度良い
寧ろ、この一連の流れが自分の習慣であり、最後に温い珈琲を飲んでいるこの時間は女にとって好ましいものなのだ
まったく
女は心の中でひとりごちる
まったく、作家の妻というのも大変なものね
上手くいかない時大体、僕もこんな感じになります
正に、今