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 がちゃりと、檻の錠が開く。

 清篤はソラの居る部屋の方へおそるおそる足を踏み入れた。どことなく緊張を帯びた表情のソラに、そっと近づく。ソラは一歩後退して、すでに敷かれていた己の布団の上に座りこんだ。


「ほ、本当に、何もしないん……ですよね?」

「ああ」

「ええと……ご、ごめんなさい。まだ、ちょっと怖くて……」

「かまわない。俺からはこれ以上近づかない」


 清篤はそう言ってその場に留まった。ソラは足元の布団をつかみ、申し訳なさそうに言う。


「す、すみません。布団はこの……一組だけしかなくて」

「別に俺が寝るのはここでいい。向こうよりこっちの畳の方が上等なんでな。だから、気にするな」

「あ……はい……」


 ソラはその言葉に、明らかにホッとしたようだった。たしかにいきなり来た男と床を同じにするとなったら、恐怖くらいはするだろう。

 清篤はなぜか頬をゆるませた。そんなことをする気になど、ならないというのに。自らもその場に胡坐をかき、ソラと向かい合う。その顔をまじまじと眺めていると、視線を感じたのか、ソラは途端にそわそわしだした。


「な、なん、ですか?」

「いや、本当に……美人だと思ってな」

「はっ!? えっ!?」

「こんなところにずっと閉じ込められてたからなのか……白く透き通るような肌だな。まつげも長い。瞳は……わずかに青みがかっている、のか? 綺麗だな。……俺は、他の村人とほとんど面と向かって話したことがない。無論、女ともだ。だからかより、美しいと感じる」

「あ、えっと……その……」


 清篤の度重なる褒め言葉に、ソラはまた赤面した。ずっと他人と関わってこなかった清篤は、こんなふうに思ったままを伝えることに抵抗がないようだ。ソラはどうしたらいいかわからなくなって、うつむいた。


「あ、済まない。あんたは目が見えないというのに……一方的に俺ばかり、見た目の事をいろいろ言ってしまったな。卑怯だった」

「ひ、卑怯だなんて……。あ、でも、もしそう思うのでしたら、わたしにも教えてください。貴方は、いったいどんなお顔立ちをされているのですか」

「どんな、と言われてもな……」


 清篤は、己のあごをつるりとなでた。目の見えない者にどうやって自分の顔つきを教えてやるべきか。男前だとも思っていないが、醜男(しこお)というわけでもない。ううむとうなっていると、ソラがおずおずと近寄ってきた。


「あの、なら……ふ、触れてみてもいいですか?」

「は?」

「そうすれば……少しは形がわかるかと。あ、お嫌でしたら、すみません」

「……」


 ソラはしゅんとなって、出しかけた手をひっこめる。清篤は軽く肩をすくめると、ソラの手を取って己の顔に当てた。


「あっ……」

「ほら。いいぞ。存分に触れ。俺はあんたをじろじろ見てしまったからな。あんたもこうして触れば、お互い様だろう」

「は、あ……ありがとう、ございます」


 ぺた、ぺた、とソラの柔らかな手が清篤の固い頬に触れる。そして両の五指が、清篤の凛々しい太眉や、二重のまぶたをなで、しっかりとした鼻梁をたどっていった。そこからぶ厚い唇までおりてきた時、清篤は思わず息を吐いてしまった。その熱い息に、ソラはびくりと手を止める。


「どうした?」

「あ、いえ……」

「俺の顔は分かったか?」

「は、はい……」

「髪はどうだ。洗えていないから、あまりいい手触りではなくなってると思うが」


 そう言って、清篤はぐいと手を引き、今度はソラに自分の頭を触らせた。コシのある毛が後頭部で一つにまとめられている。その結わえられた後ろ毛は意外と長く、肩の先まで続いていた。手を延ばしていくと、いつのまにかソラは清篤を抱きかかえるような体勢になっている。


「あっ……ご、ごめんなさい!」


 ハッとなって後ずさると、清篤からは何の反応もなかった。不思議に思ってソラはもう一度声をかけてみる。


「あ、あの……清篤さん?」

「……済まない。少し驚いてしまった」


 清篤は、ソラの顔が至近距離に来たために、動揺しきっていた。バクバクと心の臓がうるさい。不謹慎ではあるが、ソラの目が見えていなくてよかったと思った。もし見えていたら、非常に情けない顔を見られていたことだろう。


「そ、それで……。俺がどういう男かわかったか?」

「あ、ええと、はい。触れてわかったことを今、頭の中で整理しております。わたしよりは年上、でらっしゃいますよね?」

「ああ。あんたはまだ十代、だろう? 俺はその一回り上だ」

「わたしは、今年で十九になります。ということは……清篤さんは三十路くらいですか」

「まあ、そうだな」

「結構年上なのですね。あ、もうひとつ、いいですか?」

「なんだ」

「手を……」


 そう言うと、ソラは清篤に向かって両手を彷徨わせてきた。清篤は少し迷った末にその手をとる。


「ああ……なるほど。畑仕事をしていた、とさっきおっしゃってましたよね? たしかに、しっかりした手をしてらっしゃいます。先ほど少し触れたときにも思いましたが……良い手ですね」

「良い手? あんたの方が、良い手だと思うが。労働をしていない綺麗な手だ」

「していない、のではなく……させてもらえない手、ですよ。綺麗でも、わたしは清篤さんの手の方が良いです」

「……これは、誰にも頼れなかった、助けてもらえなかった手だ。自給自足をするしかなかった手、だよ」

「それでも……」

「それでも、だ」


 清篤はこちらを向いているソラの頬にいきなり触れた。びくりとしてソラは目を見開く。


「俺たちは、やはり似ている。お互い、相手の境遇を憐れんで、うらやましがっている。違うか?」

「そう、ですね……」


 清篤はソラの目を覗き込む。それはいまだにどこを向いているともしれない、焦点の定まらぬ目だった。清篤は首を振ると、触れていた手をひっこめる。


「……もう寝よう。ああ、その前に。こちらに来たついでに厠に行ってきていいか?」

「あ、はい、どうぞ」


 ソラの了解を得て、清篤は目星をつけていた厠に向かった。戸を開けると、そこには昼間用を足した鍋が置かれていた。



 ―――――――――― ―――――――――― ――――――――――



「なるほど。やはりな……」


 清篤の予想通り、厠は汲み取り式の和式便所だった。

 窓がどこにもないことから、おそらく下が暗渠のようになっていると推測される。きっと外には別の穴があって、そこからこの暗渠内の糞便が汲み出されるのだろう。

 清篤の家にもほぼ同じ構造の厠があったので、もしかしたらと思っていたのだ。


「ただ、この中が全て空にならないと……脱出するのは難しいな……」


 ここからなら、もしかしたら出られるかもしれない。望みは薄かったが、試してみる価値はありそうだった。反対側の穴が小さすぎたらどのみち出られないが、候補のひとつとしては悪くない。問題はいつ汲み取り業者が来るか、ということだった。


 用を足し終えて戻ってみると、もうソラは自分の床に入っていた。なにやら呟いているので寄ってみると、小さな声で清篤の名を呼んでいる。


「な、なんだ。何か用か」

「あっ、その……厠は汚くなかったですか? 目が見えないので、汚してしまっていても気付けないのです」

「ああ。それは……大丈夫だった。うちよりは綺麗だったよ」

「そうですか。たまに母が掃除してくれるのですが……なら良かったです」

「まあ、もし汚れていたとしても……できるだけ、俺が行った時に掃除しといてやるから、心配するな」

「本当ですか? ああ、でも悪いです……」

「気にするな。あんただって俺の汚物を始末してくれただろう。お互い様だ」


 ソラははずかしそうに布団を引き上げると、己の顔を隠した。清篤はごろりと畳の上に寝そべり、ランプの灯に照らされた天井を見上げる。


「なあ、ここから出たいと思ったことはないのか?」

「……あったような気もしますが、今はないです。清篤さんは出たいと思っているんですか?」

「そうだな。やはり、外で働いていたい。誰ともしゃべれなくても……太陽の下で体を動かしていたいな」

「そうですか……。ごめんなさい、けれど、それはもう……」


 それっきり黙ってしまったソラに、清篤はさらに突っ込んだ質問を投げかけてみた。


「なあ、あんた、俺と一緒にここを出ないか?」

「え?」

「外に出て、外で暮らすんだ。ここの村じゃなくてもいい。どこか別の場所で――」

「そんな……。無理です。わたしは目が見えないんですよ? もしできたとしても、きっと貴方の足手まといになってしまう。わたしは、ここでしか暮らせないんです。この部屋で、この屋敷で、この村で。それ以外の場所でなんて……考えられません」

「そうか、そう……だよな。俺もずっとこの村に囚われてた。この檻の中と一緒だった。二重どころじゃない。三重にも四重にも、俺は囚われてた……」


 檻はここだけではない。

 村という共同体にも、村という場所にも、清篤は精神的に囚われていた。そこでしか暮らせていけないのだと――。こうして物理的な檻に閉じ込められて初めて、清篤はその事実に気が付いた。

 しかし、ソラは……清篤とは微妙に立場が異なっていた。彼女はさらに、『家族』という檻、そして『目の見えぬ障害』という檻に閉じ込められていた。


「わたしには……きっと無理です。万が一、億が一、ここから出られたとしたら……貴方ならどこでだって生きていけるでしょう。でも、わたしには無理なんです。どうしても出たいというのなら止めませんが……わたしには、できません」

「できるか、できないかじゃない。やろうとするかどうかだ」

「……。おやすみなさい」


 ソラはそれだけ言うと、背を向けて寝てしまった。

 清篤もそれ以上追及はできず、隣で寝入るしかなかった。




 翌朝――。

 ソラの母親が来る前に、清篤は自ら進んで元の檻の中に戻った。そのおかげか、朝餉、昼餉、夕餉のときにも変わったことは特に起こらなかった。

 

 ソラと清篤はその間、誰も来ない間を見計らって、たわいのない話をした。幼かった頃のこと、普段の生活のこと、好きな食べ物や、お互いの癖、いままでしたくてもできなかった「他人との会話」を思う存分味わった。最初はこんなにするはずではなかった。けれど一度話し出したらもう止まらなくなった。


 お互い、いつぶりかというような笑みを浮かべていた。

 楽しいという感情を久しぶりに取り戻せていた。


 けれど、そんな幸せな時間は夜になって終わりを告げた。

 それは、ソラの湯あみが終わったあたりの時刻だった。ソラの体をきれいに拭き終わった母親が、ぽつりとつぶやいたのだ。


「ああ、そうだ。今日はこのあと、お父様がいらっしゃるわよ」

「……え?」

「あなたたちの様子を話したら、『さっそく見に行ってみたい』ですって」


 その言葉を聞いて、ソラは目に見えて顔を青ざめさせた。ただならぬ空気を感じて、清篤も警戒する。母親が御膳と湯桶を回収して去っていくと、しばらくして当の父親がやってきた。

 矢坂村の村長、矢坂虎蔵(やさかとらぞう)である。

 虎蔵はまるで般若のような険しい顔立ちで、檻の向こうからソラたちを見つめていた。


「ソラ、久しぶりだな。どうだ、その男との暮らしぶりは。ええ? 昌代に聞いたが、ずいぶんとよろしくやっているようじゃないか」

「……お父様」


 がくがくと体を震わせているソラに、清篤はこんな檻など目の前になければいいのにと思った。これさえなければ、今すぐソラを抱き寄せて支えてやるのに――と。そこまで考えて、清篤はすでにソラに並々ならぬ感情を抱いていることを自覚した。


「そんな、俺は……」


 激しく動揺するが、そんな感情にいまさら気付いてもどうすることもできない。なんとか助けてやりたいけれど、閉じ込められたままでは手も足も出ない。清篤は黙って事の成り行きを見守ることしかできなかった。


 父親はゆっくりとソラ側の錠を開け、部屋の中に入ってくる。ソラは後ずさろうとしたがうまく足が動かず転んでしまった。その目先に、父親がよっこらせとしゃがみこむ。


「ソラよ。お前にはさんざん目をかけてやったな? お前のためにこれだけ高い調度品をそろえてやったんだ。着物も、かんざしも。そして今度は元村八分の男をあてがってやった。な? そういう時はどんな言葉を言えばいいかわかるか。ん?」

「あ、ありがとう、ございます……お父様」

「そうだ。感謝だ。良くできたな」


 すっとその毛深い手がソラの頭に伸びる。なでて褒めるかと思ったが、虎蔵は力強くソラの頭をわしづかみにした。そして急に怒りの表情に変わる。


「だが、なんだその態度は! 感謝しているならもっと嬉しそうにしろ!!」

「きゃあっ!」


 ぐいっと、ソラの頭を突き飛ばし、倒れた胴体へ容赦ない蹴りをおみまいする。そのあまりにも傍若無人なふるまいに、清篤は激昂した。


「おい、てめえ、止めろ!!」

「……ああ? てめえ、だ? いったい誰に向かって口をきいてるんだ。この元『村八分』め!」


 虎蔵はソラの側から離れ、清篤側の檻に近づいた。そして唾を飛ばして怒鳴りはじめる。


「いいか? 貴様の爺さんはこの村で人を殺した! お前は人殺しの孫なんだ! そんなやつが俺たちに馴れ馴れしく口をきくな!」

「俺の爺さんは……たしかに人殺しだ。だがただ殺したんじゃない。村で不正を働いていた上役に意見して、逆恨みされて、婆さんを手籠めにされたから怒ったんだ。それを……まるで何もなかったみたいにしやがって!」

「何もなかった? ふっ……ちゃあんとけじめはつけさせてる」

「は? なんだと?」

「次の『村八分』、いったい誰になったと思う?」


 その含みのある言い方に、清篤はハッとなった。


「……まさか」

「そう、そのまさかだよ。『上役』の上坂だ。そこの跡取りがな、今年二度目の不正……さらにうちの親戚の娘を襲ったんだそうだ。すでに前科があるからな。前は見逃されても、今回は相手が悪かった。さすがに見過ごせんと皆で決めて『村八分』にしたんだよ」

「今ごろ……になってか? その間、俺や両親たちがどれだけ苦しんだか……」

「悪いな。それがこの村の決まりだ。今まで処分されてこなかっただけでもせいぜい有難く思え!」」

「有難く……思えだと? この人でなし、鬼畜生め!!!」


 清篤は檻にしがみつくと、体全体を使ってそれを揺らしはじめた。建物全体がぎしぎしと鳴るが、それでも壊れることはない。虎蔵は「おお怖い」とうそぶくと、そのまままたソラの方へと戻っていった。ソラは何らかの危険を察知して、左の壁際へと後退していく。


「こ、来ないで……ください。お父様……!」

「ふふ。そんな口を利くなんて。どうやらまたお仕置きをされたいようだなあ?」

「ち、違います。こ、来ないで、ください! 嫌ぁああっ!」


 虎蔵は壁際でうずくまるソラに、いきなり強烈な蹴りを入れはじめた。ぐうっとくぐもったうめき声があがるが、すぐにまた別の角度からの蹴りが入る。


「や……止めろぉっ!」


 清篤は必死に止めるが、やがてぐったりとしたソラの浴衣が、虎蔵の手によって暴かれていった。そのあまりにもおぞましい光景に、清篤は強烈な吐き気を覚える。この父親の暴力は、殴る蹴るだけではなかったのだ。


「おいっ、何をしている! 止めろっ! 実の父親が……。おい、それ以上触れてみろ。絶対に殺してやるからな!」

「ふふっ。殺してやる、だと? 出来もしないことを……せいぜいそこで指をくわえて見ていろ。なに、俺がこうするのはごく稀に、だ。いずれお前にもこの機会が回ってくる。そうそう文句を言うな」

「は? 今……なんと言った? 母親もそうだが、父親も……相当なクズだな。仮にも村長だろう。それを……それが我が子に対してすることか!」


 ソラを触るのに夢中になっている虎蔵が、面倒くさそうに顔を上げる。


「おい、少しは静かにしろ……。お前はソラの婿としてこの家に引き取ったんだ。もう、これ以上ごちゃごちゃ言――」


 虎蔵はそう言ったまま、硬直した。

 そして数秒の後、ドサリとうつぶせに倒れる。清篤は、いったい何が起こったのかと注視した。


「あ、あ……」


 虎蔵の後頭部には、深々と赤い珊瑚玉のかんざしが刺さっていた。ぴくぴくと手足が動いているので、まだ絶命はしていないようだが、起き上がろうとするそぶりもまるでみられない。

 ソラはしゃがみこんだまま、はあはあと荒く息を吐いていた。虎蔵を隙をついて殺そうとしたらしい。ソラは衣服を乱れさせたままゆっくり立ち上がると、虎蔵を避けながら清篤の方へと近づいた。


「あんた、どうして……」

「早く、お逃げください。今のうちに」


 檻の錠を開け、ソラは清篤を開放する。あらかじめまとめておいたであろう荷物をその手に渡して言った。


「これは、父からもらった宝飾品の数々です。宝石のついたかんざしや、象牙の帯留め、螺鈿細工の櫛などが入っております。これらを売れば、多少は旅費の足しとなるでしょう」

「なんで……」

「嬉しかったです。不可能とはわかっていても、わたしと一緒に出ようと言ってくださって。いろいろ、優しくもしてくださって、ありがとうございます。そんな貴方と……ひとときだけでも夫婦になれて、良かった」

「なんで……」

「え?」

「なんでだ!? 俺は……俺はあんたに、まだ何にもしてやれてない! さっきだって、助けてやれなかった。なのに……なんで俺にここまでする!?」

「……清篤さん。貴方には幸せになってほしいんです。わたしにはできなかったことを、わたしの分まで……やってほしい。仮初めでも、夫婦となれたなら……わたしは夫の幸せを第一に考えたいんです。ね? だから、早く。お逃げください!」


 ぐいぐいと、そう言ってソラは清篤をさらに部屋の外へと押しやる。清篤は檻を出る直前、ソラに向き直ってその身をきつく抱きしめた。


「すまない……ソラ」


 初めてその名を呼ばれて、ソラは見えぬ両目から涙をとめどなく流した。ずっと「あんた」呼びされていたのに……嬉しくて、たまらなくなった。もっと一緒に居たい。でも、この人のためには想いを振り切らないといけない。


「行って、くださいっ!」


 声の限り叫んで、ソラは檻を内側から閉めた。その様子に、清篤はしばらくその場で立ち止まっていたが、やがて意を決したかのように駆け出した。ソラを連れていきたかった。しかし、どんなに言ってきかせても、きっと首を縦にふることはなかっただろう。

 断腸の思いで廊下を駆け抜けると、しばらくして中庭が見えてきた。清篤は暗闇に紛れて屋敷の外へと出る。月の無い夜だった。家の者が異変に気付くにはまだだいぶかかるはずだ。清篤は暗い夜道でも誰かに行き合ってしまわぬよう、山に入ることにした。この村にはもう居場所はない。ならばどうにかしてここ以外の場所まで行かなくてはならない。


「……」


 ソラの顔がふっと浮かんだ。

 美しい女だった。自分と、どこかしら境遇が似ていた女だった。自分のためにすべてをなげうつ、仏のような慈愛を持つ女だった。


「……馬鹿か。馬鹿だ、俺は」


 山の中腹まで来た時、清篤は突然がつんと、自らの横っ面を自分で殴った。

 そうだ。ソラは……すべてをなげうってまで自分を救ってくれた。実の父親を殺してまで。その後どうなっても構わないと、死の覚悟をしてまで――。

 それなのに自分はそのソラの厚意に甘えてそのまま独りで逃げ出してきてしまった。


 あの家には、まだ母親と、たしか昨年結婚したばかりの兄がいるはずだ。跡取りは、虎蔵が死ねば、自然とソラの兄になるはずである。だとしたら……ソラはまた、そいつらからさらにひどい仕打ちを受けるに違いない。より厄介者になるのは明白だ。

 そう考えると清篤はすぐさま踵を返そうとした。しかし、脳裏にまた別のソラの顔が浮かぶ。


『わたしにはできなかったことを、わたしの分まで……やってほしい』


 その切実すぎる思いも、清篤は叶えてやりたかった。どうする。どうすればいい。迷いに迷った挙句、清篤はやはりもと来た道を引き返すことにした。



 ―――――――――― ―――――――――― ―――――――――― 



 ソラのいる座敷牢まで戻ると、ソラの手には、今まさに虎蔵の首から引き抜いたと思われる、血塗られたかんざしがにぎられていた。


「だ、誰!? お兄様……?」


 足音に気付いて、ソラはハッと顔を上げる。誰が来たかもわからぬまま、ソラはあらかじめ考えていただろうセリフを口にした。


「こ、これは……わたしが、したことです! あの人はわたしが外へ逃がしました。もう、こんなことは止めにしましょう。わたしも、どうかここで……殺してください」


 殺してください、という言葉に、清篤は胸の奥がぎゅうとにぎり潰されたようになった。

 檻の戸を開け、ソラの元へと歩み寄る。その手の中にあるかんざしをそっと奪うと、強く抱きしめた。


「え? あ、あの……清篤さん!? どうして、どうして戻ってきたんです!? い、今のうちに……まだ誰も来ていませんから、早く。逃げ――」

「もう、どこへもいかない」

「え……?」

「俺は、ソラとここで、一生を添い遂げる。そのつもりで戻ってきた」

「な、何を……」

「どうせ他の所へ行っても、この村でしか生きてこなかった俺は……せいぜい野垂れ死ぬだけだ。だったらここで……」

「だ、駄目です! お母様やお兄様がこの惨状を見たら、絶対にただでは済まない。わ、わたしだけならまだしも、あなたも……なんて。そんなことに巻き込ませるわけには――」

「俺たちは……夫婦、だろう」


 清篤の言葉に、ソラは視線の定まらぬ目を見開いた。


「だったら、喜びも悲しみも分かち合うべきだろう。それでもそれが辛いなら……今、ここで共に死のう」

「え……?」


 清篤は立ち上がると、部屋の隅にあるランタンを持って戻ってきた。


「これでこの家に火をつける」

「清篤、さん……?」

「選んでくれ、ソラ。俺はどちらでもいい。ここで死ぬのも、みじめに生き続けていくのも」

「……」


 ソラは手探りで清篤の持っていたランタンをつかむと、それをぶんと壁に放り投げた。ランプのガラスが割れて、中の油が飛び散る。やがてパチパチと火の手があがった。


「すみません。やっぱりわたしと、死んでくれますか?」

「ああ……。望むところだ」


 ソラは清篤の体を抱きしめ返すと、煙が満ちる中ぽつりと言った。


「清篤さん、好きです。わたしの夫になってくれて、ありがとう……」

「ソラ。俺は……村八分でいて良かった。そうじゃなければここで、お前と出会えなかった」

「わたしも……目が見えなくて良かったです。そうじゃなければ貴方とここで――」


 それ以降の言葉は、清篤の唇がソラの唇を覆ったためにつむがれることはなかった。


 やがて、矢坂村の空に火の粉が舞った。黄金色の火炎は、暗い昏い夜を照らしつづけ、明け方まで消えることはなかった。屋敷はすべて消し炭へと変わり、四つの遺体を生み出した。村人たちは数が合わぬと首をかしげたが、それ以上そのことを追究する者はいなかった。


 後年、とある街の一角で、青い着物を着た女性と髪の長い男が連れ立って歩いているのが目撃された。その女性が盲目であったかどうかは定かになっていない。しかし、その女性の着物と同じくらい青い空が彼らの頭上に広がっており、二人とも大変晴れ晴れしい表情であったという。






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― 新着の感想 ―
[一言] 企画ご参加ありがとうございました! じっとりとっくり和風監禁を丁寧に描かれた印象です。 主催の個人的な好みと致しましては、最後もっと生死がぼかされていても全然よい後味になったと思いますが…
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