閉
その日、坂下清篤は朝から畑仕事に精を出していた。
ここは矢坂村。本州のとある山奥にある、小さな村である。
鍬を振るい、せっせと土を掘り起こしていると、突然数名の村人たちに取り囲まれた。
「悪く思うな、清篤。次の『村八分』が決まったんでな、今の『村八分』であるお前はもう用無しだ」
「何を――」
抵抗も空しく、一斉に棒で殴られた清篤はあっというまに意識を失ってしまった。
―――――――――― ―――――――――― ――――――――――
気が付くと、清篤は見知らぬ部屋にいた。
四方のうち、三方が木の壁で、残る一方が檻のようになっているところだった。部屋の出入り口はどうやらその一方のみで、それ以外には窓などの開口部が一切無い。
清篤は痛む体を押さえながら、体をゆっくり起こしてみた。床は古い畳が六つ敷かれているだけだ。布団も何もない場所に、清篤は野良着のままで寝転がされていた。
「気が付かれましたか」
凛とした声があり、顔を上げると、檻の向こうに青い着物を着た美しい娘が立っていた。
それは矢坂ソラ――この矢坂村の村長の娘、であった。盆暮れ正月、また秋祭りの時にしか皆の前に姿を見せない。そのソラがなぜこんなところに、と思いかけたが、清篤はすぐにここがその村長の屋敷であると思い至った。
「そうか。俺は――」
「お父様たちにずいぶんとひどいことをされたようですね。大丈夫ですか?」
ソラは、清篤の方を見ているようで見ていなかった。目が見えぬというのは本当のようである。たしかそんな話を、立ち聞きではあったが村のどこかで聞いていた。しかし、もしそれが本当ならどうして清篤の体を心配するようなそぶりをみせているのだろうか。なぜ見えないのに「こちらが怪我をしている」とわかるのだろうか……。清篤が訝しんでいると、ソラは形の良い眉をひそめて言った。
「血の……匂いがしています。どこか負傷されているのでしょう? あの、もし良かったらこれを――」
そう言って、檻の下部から白いサラシ布が差し入れられた。
檻は太い幅木が格子状に組まれていて、その上をさらに頑丈な金網が覆っている。その最下部だけが、三寸ほどの何もない状態になっていた、
清篤は畳を蹴ると、急いでその隙間からソラの手を取ろうとした。
しかしすんでのところで相手は離れ、清篤の手は空を切る。
「くそっ」
ソラを人質にとってでもこの牢獄から脱出しようと試みたのだが、あえなく失敗に終わってしまった。ソラは異様な物音に気付き、おびえたように着物の両袖を口の前で合わせる。
「ああ……なんだかわかりませんが、お止め下さい。ここを出ようとしても無駄です。なぜなら――」
その言葉を聞く前から、清篤はある違和感を覚えていた。だがそれがまさか、部屋がこういうことになっているせいだとは思いもよらなかった。
「なぜなら――わたしも、閉じ込められているからです」
清篤はその言葉に目を見開いた。目の前にある檻、その向こう側にはここよりもやや広い部屋がある。ここよりも上等で新しい畳が敷かれた部屋。そこには漆塗りの箪笥やら鏡台やら、贅を尽くした女物の家具がずらりと並べられている。しかし……その両側にはここと同じ窓のない木の壁、そして、奥には清篤の前にあるのと同じ檻が――。
「そうか。ここは……二重の檻、なのか」
唖然としてそう叫ぶ清篤に、ソラはゆっくりとうなづいた。
「ええ、そうです。ここは矢坂家の最奥にある座敷牢……目の見えないわたしがほぼ一年中閉じ込められている場所、です。貴方がいる檻の方は、わたしが何かお父様の機嫌を損ねて、お仕置きを受ける時用の部屋です。そこに入れられては、どうやっても逃げることはできません……」
「そんな……。あんたはなぜ、閉じ込められているんだ? 仮にも村長の娘だろう」
「お父様曰く、『不具者に勝手に外を出歩かれると困る』のだそうです」
「……くそっ。実の娘に、なんたる扱いだ」
清篤の忌々しそうな声に、ソラは悲しげに微笑む。
「いいのです。わたしはいままでずっとそうして生きてきました。そしてこれからも、ずっとそうして生きていく……そう、思っていましたのに。今日から貴方と暮らせと言われました。お父様曰く、貴方はわたしの婿になるのだそうです」
「婿?」
「はい。貴方も、突然そんなことを言われて戸惑ったことでしょう。ですが、お父様の意志に背くなどということは考えない方がよろしいです。たとえ思ったとしても、どうせ無駄になります……」
その、先行きをすべてを諦めきっているような口ぶりに、清篤は思わず背筋をぞっとさせた。
いったいこのソラは、親からどれほどのひどい仕打ちを受けてきたのだろう……。その途方もない経緯を想像して、清篤は閉口する。
「……」
ソラは固まっている清篤に穏やかに微笑むと、すぐにその場で両の三つ指をそろえてかしこまった。
「そういうわけで、不束者ではありますが、どうかよろしくお願いいたします……」
―――――――――― ―――――――――― ――――――――――
ソラの、何も髪飾りをつけていない、結いあげてもいない長い髪が、頭を下げるたびにするすると肩から零れ落ちていく。それはまるで美しい黒絹糸のようだった。
口を開いたまま何も言えなくなっている清篤に、ソラはふと思い出したように尋ねる。
「そういえばお名前は……坂下清篤さん、とおっしゃるんですよね? お父様から聞きました」
ソラは顔を上げ、どことも知れぬ場所へと視線を向ける。
清篤はいっそう憮然として応えた。
「ああ、そうだ……。『坂下』、だ。矢坂の八つある位の一番下、『村八分』の坂下だ。だがその名も今日で剥奪された。次の『村八分』が決まったらしい」
「わたしはこの制度があまり好きではありません。ですが……そういうことでしたか……」
矢坂には上から『村長』の矢坂、『上役』の上坂、『神職』の神坂、『寺職』の寺坂、『平民』の平坂、『村長の親戚』の小坂、『移住者』の入坂、『村八分』の坂下、という八つの位がある。
清篤はその最下位、『村八分』の坂下姓を名乗っていた。
『村八分』はたいてい、村人を殺しただとか、大掛かりな盗みを働いたなどの罪を犯したときにだけ生じる。そしてそれは、次の『村八分』が現れるまで子子孫孫と名乗らされるのだった。
『村八分』は常に村人たちから「いない者」として扱われる。出産と葬儀のときぐらいしか、話しかけてもらえない。清篤もそうだった。父や母が死んだ時だけしか関わってもらえなかった。それからはずっと、ずっと、独りぼっちだった。
今日は親が死んで以来、十年ぶりに清篤が他人から話しかけられた日だった。
襲撃してきた村長たち。そして、村で一等美人とうわさの村長の娘に。
しかしいったい、どうしてこんなこと――婿入りなどということになってしまったのだろうか。
次の『村八分』が生まれてしまった理由すら、清篤にはわからない。
「今日まで俺は誰ともしゃべってこなかった。そのせいで、村で起きていることにもいつも疎かった。なあ、次の『村八分』はいったい何をやらかしたんだ? あんたは何か知っているか」
「……」
ソラはやや視線を動かしたが、結局それについて口にすることはなかった。
知らないのか、それとも知ってる上でしゃべりたくないのか。どちらなのかわからない。清篤はソラにその件を話してもらうのを早々に諦めた。
「まあ、聞いても今の俺には関係ないことか。……あんたの方はたしか、ソラという名だったよな?」
「はい、そうです」
鈴の鳴るような声。清篤はそれを聞くとなぜか胸の奥がこそばゆくなった。未知の感覚にすばやく蓋をし、清篤は気をそらすように手元のサラシ布をいじくる。
「祭り、の時にその……あんたを遠くから見たことがあった」
「え? でも、あなたは……」
「そうだ。『村八分』だ。だから本来は祭りにも参加する資格はない。だが……お囃子や太鼓の音が聞こえてくると、むしょうに寂しくなってな。ついつい毎年隠れて見にいってしまっていた」
「そう、でしたか……」
清篤はおもむろにサラシ布を裂くと、傷ついた頭に慎重にそれを巻きつけはじめた。
傷む箇所を押さえながら、昔のことを振り返る。
「誰にも見つからないように……神社の山の茂みに隠れたりしてな。参道を行き交うやつらを眺めていたよ。そこにはいろとりどりの出店や、神輿や、やぐらがあって……その群衆の中にあんたもいた。あんたは村長や他の家族に手を引かれて、周囲の耳目を集めていた。そりゃあ、これだけ美人なら誰もが放っておかないよな。つくづく、俺とは違う種類の人間なんだって思ったものだ」
「違う種類の人間って……そんなこと……。あの、わたしって、美人……なんですか?」
ソラはうつむきながらも、そうはずかしそうに聞いてきた。
清篤はきょとんと目を見開いて、苦笑する。
「……ははっ。ああ、あんたはとびきり美人だよ。今までにも、誰かから言われたことがあったろう? 自分の姿を見られないとはいえ、自覚していなかったとは言わせないぞ」
「いえ……その……。あなたにも、そう思われてたのかと思うと、ですね……」
ソラはぎこちなくそう言うと、ついと顔を背けてしまった。そして奥の鏡台の前に移動し、引き出しから半月型の柘植の櫛を取りだす。閉じられたままの三面鏡の前で、ソラはその長い髪をおもむろに梳きはじめた。
「……どうして」
「ん? 何か言ったか?」
「いえ、別に!」
ソラのつぶやき声に反応してみせるが、急に大声で返されたので清篤は呆気にとられた。が、そうしている内にサラシの最後が巻き終わり、端を内側にそっと押し込む。布がずれないか何度も確認し終えると、どうやらうまく止血できたようだった。
「うん、良し。とりあえず礼を言う。サラシをもらえて助かった」
「いえ……。あの、ご気分はいかがですか?」
「そうだな……それほど悪くはないから、もう大丈夫だろう。それにしても、だいぶ叩かれたな……」
痛てて、と言いながら清篤は檻に背をもたれさせる。
「あんたの親父さんたちに襲われたとき……俺はてっきり殺されるもんだと思っていたよ。もう用無しだ、とか言われたしな。だがまさか、こんな場所に閉じ込められることになるとは……」
「ごめんなさい。突然、こんなことになって……。本来ならあなたは『平民』に戻れるはずだったんです。なのにお父様たちが……」
「何? それはどういうことだ」
ソラの言葉に、清篤は思わず腰を浮かしかけた。ソラは心底申し訳なさそうに言う。
「次の『村八分』が決まったら……たいてい前の『村八分』は名誉を回復して『平民』に戻れるんです。でも、お父様はわたしのために……強引に……」
「なぜ……」
「わたしは、そんなのいいって言ったんです。でも、もう年頃だし、跡取りの兄も去年結婚したし、わたしだけいつまでもそういう相手がいないのは可哀想だってそう言われて……それで……」
ソラはそう言うと櫛を鏡台に置いて、しくしくと泣きはじめた。
清篤はいたたまれなくなって、顔をしかめる。
「おいおい、泣くな。泣きたいのはこっちの方だ」
それでも泣き止まないソラに、清篤は深いため息をついた。
「はあ……。あのな、別にあんたを責めてるわけじゃない。俺は、『平民』にたとえ戻れてたとしても……たぶん前とほぼ同じ暮らしをしていたことだろう。だから、そんなに気にするな。それに……頭や肩は痛くなったが、さっきからあんたと話していると、その……なんだかこの胸のあたりがこう、あったかくなるような気がするんだ」
「え……?」
ソラが顔をあげた気配がした。しかし清篤は、なぜかそちらの方を向けない。じっと自らの胸に手を置くだけである。
「誰かと話せたのは、本当に久しぶりだ……。これも、案外悪くない」
「清、篤さん……。あの、それは……」
「ん?」
「それはわたしも、です。わたしも、親以外の人と話せたのは久しぶりだったんです。外に出てもいつも一言も話すなって言われていましたし。こんなこと、わたしも変なことだってわかっています。でも……でも、とっても今は嬉しいです」
清篤はその時になってようやく、視線をちゃんとソラの方へと向けた。
ソラはほんのりと頬を染めて、なんともいえない表情を浮かべている。
「まったく同じ、というわけではないだろうが……多少境遇は似ているようだな、俺たちは」
「そうですね」
「閉じ込められていることを除けば、殺されるよりは良かった、か……。うん、そう思うことにしよう。そういうわけで……どうかひとつ、よろしく頼む」
「……はい」
そう言ったソラの顔を、清篤は直視できなかった。
―――――――――― ―――――――――― ――――――――――
ソラ側の檻の向こうは、狭い廊下であるようだった。
すぐ正面に白い壁が立ちはだかり、左側から西日が差しこんでいる。外の光はそこからしか入ってきていないようで、部屋の中はやや薄暗かった。
夕方――ということは、襲撃を受けてからもうかれこれ六時間は経過していることになる。
ソラは相変わらず髪をとかしたり、部屋の真ん中にある座卓に乗せられた菓子盆からなにかをつまんだりしていた。目が見えないのに、つくづく器用なことだと清篤は思う。やはり物の場所を完全に把握しているようだ。
ぐうと突然腹が鳴る。思えば、朝餉しか食べていなかった。清篤は恥をしのんでソラへと声をかける。
「あー、あの。ちょっといいか」
「はい。なんでしょうか」
「ええと、その……飯を食べたいんだが」
「ああ。そうでしたか。そろそろ夕飯が運ばれてくるはずですから、もう少しお待ちください」
「そ、そうか……」
清篤はひとまずほっとしたが、続いて急激に喉の渇きを覚えはじめた。またしても恥をしのんでソラに声をかける。
「すまない。あと、水を一杯だけもらえないだろうか」
「ああ、はい。それはいますぐお持ちいたします」
ソラはゆっくり立ち上がると、部屋の隅に置いてある水瓶の方へと移動した。ひしゃくでそっと水をくみ、こぼさないよう清篤の方まで持ってくる。
「はい、どうぞ。お待たせいたしました」
「ああ、ありがとう」
檻の最下部の隙間から、ひしゃくがすっと差しこまれる。清篤はそれを受け取ると一気に飲み干した。
「ああっ、うまい! 助かった」
「ふふ。それは良かったです」
にこと、返されたひしゃくを受け取って、金網越しにソラが笑う。それに一瞬見惚れてしまった清篤だが、すぐにハッと我に返った。
「あっ……そうだ、重大なことを忘れていた!」
「え、どうかしましたか?」
「厠だ、厠!」
「はい?」
「お、俺の部屋の方には何もない。これは、どうしたらいいんだ? あんたはいったいどうしている?」
「ええと……」
ソラは一瞬考えた後、その細い腕を右手に向けた。そこには一面木の壁があったが、よく見ると一部隠し扉のように厠らしき場所の入り口がある。
「わたしはあそこでいたしております。貴方は……その……そうですね。わたしに危害を加えないというのなら、そこから出して行かせてあげられますけれど」
「じゃあ、頼む」
「……」
必死で懇願する清篤に、ソラは困った顔を浮かべた。
「でも――」
「なんだ、なにかまだ問題が?」
「はい。お父様には……心を通わせてから、信頼し合えてから檻の鍵を開けろと、そう言われていました。それまでは……これにさせろと」
ごそごそと今度は部屋の隅にあったものを、清篤の前まで持ってきた。風呂敷に包まれたそれは……大きな片手鍋だった。そして、それはまた清篤の目の前にある檻の下部から差し入れられる。
「終わったら、わたしがあそこの厠に中身を捨てに行きます。大丈夫です。わたしは目が見えませんし、用を足される時は耳もふさいでおりますから」
そう言うと、ソラは檻から一番離れた場所まで行き、両手で両耳を塞いだ。
残された清篤は、羞恥のあまり顔をしかめてしまった。だがこれしか方法はないのだと、足元の鍋を見つめる。
「くそっ、仕方ない!」
ソラが耳を塞いでいるうちに、と、清篤はついに腹をくくった。股引きを下ろし、小便をすばやく済ませる。ふたを閉め、ソラがまた自然と戻ってくるのを待った。
「もう、よろしいですか?」
「ああ……」
今度は清篤が檻から一番離れた場所に移動する番だった。すぐ近くで見ていてもいいし、鍋を回収するソラの手を今一度掴むために待ち伏せていても良かったのだが、いかんせん今それをする勇気はなかった。今はただ、早く己の汚物が目の前からなくなってほしい。その一心だった。
汚物の入った鍋が、ソラの美しい手によって引き下げられていく。
清篤は、なぜかそれを背徳的な気分で見ていた。
右側の壁の方へソラはしずしずと歩いていく。そして、厠の扉を開けると、その中で鍋の中身を捨てたようだった。戻ってきたソラの手には何もない。鍋は厠の中に置いてきたようだ。
「すまない。こんなことをしてもらって……」
「いえ。わたしが早く貴方と仲良くなれば……こういうこともせずに済むのですが……。ごめんなさい、まだ貴方という方がどういう方なのかよくわからなくて、怖いのです」
詫びる清篤に、ソラも心底申し訳なさそうに言った。
「いや。それは……仕方ない。なにしろ今会ったばかりなんだ。怖ろしくなるのも当然だ。さっき、俺もあんたを捕まえようとしたしな」
「ええ。あの……」
「なんだ?」
「わたしは、こういったことをなんとも思いませんから。その……いつでも、いろいろと申し付けてくださいませね」
「ああ、わかった」
それ以降、清篤は下の世話をすべてソラに頼むことになった。男として、こんなに美しい女に、しかも年下の女にそういうことをさせるのはかなりの抵抗があったが、しかしこんな状況では仕方ないのだと己を無理やり納得させた。
日が暮れ、辺りの闇がさらに濃くなると、ソラは部屋の隅にあるランプに火を灯した。目が見えないはずだが、手際よく作業を進めている。しばらくすると、ちろちろと頼りない炎があたりを照らした。
しばらくすると軽い足音が聞こえてきて、夕餉の盆を持った女がソラ側の檻を開けて入ってきた。
じろりと清篤の方をねめつけると、すぐに笑顔になってソラに向き合う。
「ソラ、待たせたわね。灯をつけてくれていてありがとう。はい、お夕飯」
「お母様……」
どうやらそれはソラの母親のようだった。
「どう? そこの元村八分とは。うまくやれてる?」
「ええ、今のところは。とくに問題はありません」
「そう。くれぐれも、慎重にね。男っていうのは……いつなにをするかわからない生き物だから」
「はい……」
母親は清篤の前にも来ると、清篤用の食事を檻の下から差し入れてきた。それは犬の残飯のようなごった煮だった。
「こんなものしかないけれど。嫌なら残していいのよ」
「……ありがとう、ございます」
一応箸はついている。清篤は文句も言わずにそれにがっついた。さすがに腹が減っていた。傷を早く治すためにもまずはちゃんと栄養を取らなくてはならない。幸い、味も異様な酸っぱさや臭いがあるなどということもなく、無事に食べ終えることができた。
「まあ、ご満足いただけたようで良かったわ。ソラ、貴女は食べ終えるのが遅くなるでしょうから、またあとで取りに来るわね。その時にまた」
「は、はい、お母様……」
そう言うと母親はまた厳重にソラ側の檻の鍵を閉め、去っていった。
残されたソラは座卓の上の料理をもそもそと口に運んでいる。清篤は先ほど自分の食べたものとの差に辟易した。
「あの……」
しばらく沈黙が続いていたが、ソラが突然声をあげる。
「なんだ」
「わたし、の食事なんですけど……少し食べていただけませんか」
「何? それはお前の食事だろう。まさか、俺を憐れんでるのか?」
「違います。食事を……残すと怒られるのです。貴方の今いるその部屋で……。その、いつもならば、折檻を受けます。今日からはどうなるかわかりませんが……。お願いです。この一品だけでも食べていただけませんか? わたし、どうしてもこの牛肉だけは飲みこめないのです」
「……」
清篤は軽くため息をつくと、困った顔をしているソラを呼び付けた。
「わかった。来い。俺も少し物足りないと思ってたところだ。食ってやる」
「本当ですか!?」
「ああ」
「良かった……では」
ソラは手にその小皿と箸を持つと清篤の檻へと近づいていった。そして、その最下部からまた食事を差し入れる。清篤は何も言わずに、三切れほどの牛肉片をつづけざまに口に入れた。もぐもぐと咀嚼すると、何とも言えないうま味が舌の上に広がる。
「はあ……。あんた、いっつもこんな美味いもん食ってるのか。さすがは村長の娘だな」
「……」
「ほら、食い終わったぞ。早く戻れ。またあんたの母親が来る」
ソラは清篤からすぐにその食器を受け取ると、泣き笑いのような表情を浮かべた。
「あ、ありがとうございます。……清篤、さん」
その表情と、自分の名を呼ばれたことに、清篤はハッとした。大輪の花がまるでそこに咲いたかのようだった。しかし、そんな幻覚を見たのもつかの間、ソラはまた座卓へと戻っていってしまう。清篤は目をしばたたいた。そして驚きに心を支配されていた。
―――――――――― ―――――――――― ――――――――――
しばらく経つとまた、ソラの母親がやってきた。今度は湯を張った大きな木の桶を前に抱えている。
「あら、今日は綺麗に食べたのねえ。えらいえらい」
そう言ってわしわしとソラの頭をなでる。
ドンと桶を床に置くと、ソラの母親は自分の帯に挟んでいたてぬぐいをとって、それを湯にひたした。
「じゃあ、食器を片づける前に体ふいちゃいましょうか」
「えっ?」
「えっ、じゃないわよ。いつもやっていることでしょう? あ、もしかしてあの男のことを意識しているの? 一丁前に」
「あ……その……」
顔を赤く染めあげて狼狽えるソラに、母親は容赦がない。見るに見かねた清篤は、ソラに向かって声をかけた。
「大丈夫だ。俺は、あっちを向いてる」
「……!」
その優しい配慮に、ソラは一瞬嬉しそうな顔をしたが、母親はそれを見て二人をからかった。
「あらあら。まあまあ……。二人とも少しの間にずいぶん仲良くなったようね。清篤といったかしら。この子は曲がりなりにも矢坂家の娘なのよ? 本当は貴方がそんな口をきいちゃいけない存在なの。でも、まあいいわ。貴方はもうこの子の婿なんですものね」
「……」
「まだ納得いっていない、って顔ね。でもいつまでそんな意地が張ってられるかしら? だってこの子の顔……ふふ。村一番の器量良しでしょう? この子次第とは言ったけれど、もうそこの檻を解放してしまってもいいのよ? そうなったら貴方我慢できるかしら」
清篤は背を向け、吐き捨てるように言った。
「実の母親が言っていいセリフじゃないな。よくもそんな……」
「あら、もうそんなにこの子にご執心なの? 良かったわ。ずっと村八分だったせいで、わたしたちは貴方にもっと憎まれてるかと思ったけれど……杞憂だったようね」
着物を脱がせる音と、水音だけがあたりに響く。
清篤が湧き上がる苛立ちを押さえている中、母親はソラの体を丁寧に拭きはじめた。
「この子は外へは出さないし、激しく動くこともないからあまり汚れないのよ。だから毎日こうして拭くだけで十分。髪は三日に一度くらいだけれど。貴方の場合は……もっと少なくていいかしらね」
「……」
意地悪なことを言いつづける母親に、ソラは申し訳なさそうな顔をする。だが、母親に反論することはついぞなかった。やがて身を清める時間が終わり、母親が桶と食器とを持って去っていく。
「はあ……もう、いいか?」
「あ、はい」
清篤の問いかけにソラはおずおずとそう答えた。清篤が振り向くと、そこにはもう寝間着の浴衣に着替えたソラがいた。
「ごめんなさい、清篤さん……」
「なにがだ?」
「貴方も、さっぱりしたかったでしょうに……」
「ああ……だが、あんたの母親によると、俺は毎日体を清められないらしいな。まあ、それは仕方ない。多少臭ってはくるだろうが、そういうことだから、あんたも勘弁してくれ」
「あ、その……」
ソラはもじもじとすると、やおら立ち上がって箪笥から適当な手拭いを出してきた。そしてそれを部屋の隅にある水瓶の水で濡らす。
「おい、何を……」
「良かったらこれで体を拭いてください」
清篤が呆気にとられていると、ソラはそれをまた檻の下から差し入れてきた。つ、と一瞬二人の指が触れる。清篤はそれに気づかないふりをして、濡れたてぬぐいを受け取った。
「いいのか? それは、飲み水用だろう」
「中には浸していません。手ぬぐいに軽くかけただけです。そんなもので、うまく清められるかわかりませんけど……」
「いや、助かった。俺は朝方畑仕事をしていたからな。多少は綺麗にしたいと思っていたんだ」
そう言うと、清篤は顔やら首やら、足の裏やらを順に拭いていく。ソラは清篤がそうしているあいだ、顔を真横に向けていた。見えはしないが、なんとなくそうしたほうがいいと思ったのだ。終わると、清篤はそれを返そうとしてふと思いとどまった。
「あ、これ……どうしたらいい? 返したほうがいいか、それとも……」
「はい、一応お返しください。わたしが使った、ということにしておきますから」
「そうか」
濡れた手拭いをまた檻の下部から返す。それを取ろうとしたソラの手首を、清篤は今かとばかりに、しかと掴んだ。驚くソラ。
「なっ、何を……!」
「別に、こうして今さら何ができるとは思っていない。だが……ちょっとな」
「え?」
「夫婦、というのがどういうものかはだいたいわかっている。でも……このままではその、俺たちがそういう関係になれるかわからん」
「……」
「まだ、信用してはもらえないか?」
「え?」
「そっちの部屋へは行かせてもらえないのか、と聞いてる」
「あ、その……」
ソラは戸惑った。今目の前にいる男がどんなことを考えているのか、またどんな表情をしているのかまったくわらない。そんな中で、なんと答えればいいのか。
「貴方は……こ、こちらへ……来たいのですか?」
「まあ、そうだな」
「ど、どうして……。わたし、目が見えないのですよ!? それなのに……」
「そんなことは関係ない。俺は、あんたが綺麗だと思ってる……。側に行きたい」
「へっ?」
ソラはかっと顔を赤く染めた。
そして、自分の手首をつかんでいる男の手を、反対の手でそっと触れてみた。
「えっと……。お、おかしくないですか? こんな状況で……。こちらへ来たとしても、外には出られないんですよ? 誰かがきたら、またそちら側へ入っていてもらうことになります。誰もいないときだけしか、あなたはこちらに来られないんです。それなのに、わたしの方に来て、いったいなんの利が……」
「独りより、二人の方がいい」
「え……?」
「あんたが嫌じゃなければ、そっちで……一緒に居たい。大丈夫だ、いきなり何かすることはしない。襲ったりも……しない」
「……」
ソラは汗ばみはじめた男の手の甲をそっとなでると、清篤側の檻の鍵を開けようと決めた。