悲劇の町
「はっ、はぁ、はぁ」
私は逃げる、走る、逃げる。
息が続く限り、いや、息が切れようとも、できなくても、逃げないといけない。
――食べられた。
目の前にいた仲良しの友達は、大きな口と鋭い牙でその体を食いちぎられた。
隣に座っていた年下の友達は足を食いつかれて、狂ったように悲鳴を上げていた。
背中を向けて逃げようとした男の子は、硬そうな爪で肉を引き裂かれた。
町の周りはフェンスで囲われていて、畑仕事をする大人だって何人も居たのに、町の近くに居るはずのない、大型の肉食獣が群れで現れて、無防備に遊んでいた私達を狩り始めたのだ。
そう、町から見えるなだらかな丘の上で、私達子供はいつものように遊んでいた――。
『お姫さまケーキが焼けましたよ』
空のお皿にハンカチを盛り付けて、私はテーブル代わりのお盆の上に置いた。
向かいに座るサラが嬉しそうに笑って、私もつられて笑顔になる。
『まあ、ありがとうシンリーいただくわ。わあ、とってもおいしい』
『お姫さま、今日は龍族の王子さまがお迎えにきますよ』
頭一つ小さい年下の女の子がエプロンの端を摘んで、澄まし顔で告げる。
『あら、大変。ローラ、ドレスを用意してちょうだい』
『人間国一番のデザイナー、ローラにお任せください』
サラの言葉に、ローラは畳んであった大きなスカーフを取り出してサラの体に巻き付ける。くるりと回ってローラは得意げにポーズを決めた。
『どうです、お姫さまとっても綺麗ですよ』
『それでは私は、王子さまに踊りを見せてくるわね』
スカーフをひらひらと揺らし、サラは空想の王子さまに踊りを見せている。最後に一礼で踊りを終えたところに、私とローラが拍手をする。
『今度はあたしがお姫さまがいい!』
今回の役は終わったとばかりに、ローラが飛び跳ねた。
『それじゃあ、私はまたコックさんね』
私はいつもコックさんを選ぶ。お母さんみたいに、おいしい料理を作ってみんなに喜んでもらいたいから、人間国一番の料理人、シンリーになる。
『それじゃあ、私は宝石でアクセサリー作る人ね。それでお花が宝石ね』
『うん。やろう』
お姫さまをやっていたサラが役を決めて、私たちは笑顔で第二幕に取り掛かる。
『うわ、女たちがまた弱いことやってる』
『げー弱くなる』
『離れようぜ、端っこまで競走な。よーいスタート!』
『はやいっ』『ずるい』
男の子達が私達をからかって、丘の草を蹴って駆けて行く。
落ちていた木の枝を拾って、駆けっこがいつの間にかチャンバラに変わる。
穏やかな風に吹かれながら、揺れる緑の草に囲まれて、私達子供はのどかな午後を過ごしていた。
それは、何の前触れもなく突然、私達の身に起こった。
水筒からコップにお茶を注いで、お盆に乗せた時、『グルゥ』と低いうなり声が聞こえてきた。
お盆の上に赤いものが飛び散り、目の前に座っていたサラは声を出すこともなく、お腹に大きな獣をくっつけて血の泡を吐いていた。
大きな牙を赤く濡らした、灰色の毛と鬣を持った獣と目が合った。
『やあーーっ!』
絶叫を聞いて跳ねるように隣を見ると、大きな獣がローラの足にかじりついて、何度も噛みながら体までを飲み込んでいく。
ばきばきっと骨の折れる音がした。
『いやーー!』
耳をつんざくローラの悲鳴。
『ッアーーーー!!』
私は言葉にならない叫びをあげて、座っていたシートの上から駆け出した。
同じように悲鳴をあげて、町に向かって逃げ出す友達の背中を、鋭い爪が突き刺し、ひっかき、柔らかな体に牙が突き立てられる。
瞬く間に緑の丘が赤い液体に侵食されていったーー。
「はっ、はぁ、はぁ。あっ」
必死に走る私は、小さなくぼみに足を取られて大きくバランスを崩した。
勢いの付いた体はなだらかな丘をごろごろと転がり落ちる。
体が止まった時にはすっかり目が回っていて、立ち上がろうとしても、どっちが上でどっちが地面だかもわからなかった。
『ガルゥ』
私のすぐ側で獣の唸り声がした。
全身に電気が通ったような痛みが走り、心臓が尋常でない鼓動を刻むんだ。その瞬間、方向感覚が戻った。
仰向けで倒れていた所を、反射神経の速度で跳ね起きて、間一髪私は足を失わずに済んだ。
けれど、獣と向き合った今、どうすればいいのか。
背を向ければ爪が襲い、立ち向かえば牙が襲い、私の体が引き裂かれる運命しか思い浮かばない。
体中を冷や汗が流れていく。
逃げるしかない事は分かっていても、その逃げ出す隙も場所もない。のんびりしている時間もない。
『ギャン』
突如、太い木の枝が私を襲おうとしていた獣の横っ面を叩いた。
『走れ!』
獣の顔面をフルスイングで殴ったのは、さっき私達をからかっていった男の子の一人、ティーダだった。
殴った衝撃で折れた木の枝を放り出し、ティーダは私の手を取って走り出す。
獣は顔をブルブルと振るとすぐに一声唸って追いかけてきた。
全力での攻撃とはいえ、十歳に満たない子供の力などたかが知れている。
頑丈で大型の肉食獣になど、大したダメージにはならない。
走りながらティーダはポケットから折り畳みのナイフを取り出し、私とつないでいた手を放した。
後ろから狙いを定めた獣が私達に襲い掛かってくるその時、ティーダは身をひるがえした。
飛びかかる大きな獣と小さなティーダの体がぶつかる。
『ガウゥ、ガルゥ』
後方から低い唸り声が何度も聞こえ、夢中で走りながらも、私は後ろを振り返った。
見えたのは、両手で獣の鼻面にナイフを突き立てているティーダと、そのナイフを引き抜こうと首を振る灰色の獣だった。
子供の手の平ほどの小さなナイフで、大きな獣に致命傷を与えられるはずがない。
『逃げろ!』
そう叫ぶティーダの腕は獣の爪で大きく切り裂かれ、大量の血と共に白い骨までがさらけ出されていた。
『イヤーーァ!』
何もかもが思考から飛び去り、私は叫びを上げ、ティーダの下へと走り寄ろうとした。
『来るな!』
ティーダは再び叫ぶ。
その間にも獣はティーダの腕を噛み砕き、ティーダは苦悶の声をあげる。
『逃げろ、シンリー。俺の行動、無駄にすんな』
脂汗まみれの顔で、唸るように言ってティーダはもう一度、残った片手だけでナイフを振りかざした。
『うっああ~~~~!』
私は泣きながら走るしかなかった。
全てを吐き出すような声を上げて、獣に気付かれるのが分かっていても叫びを止められなかった。
町に着けば安全だと、大人たちが助けてくれると信じて、友の死と獣の恐怖を振り払おうと狂ったように走った。
しかし。
『ガウゥ』
『グルル、グルゥ』
町の中から聞こえてきたのは獣の咆哮と人々の上げる悲鳴と混乱の声だった。
外から見るその町は、無数の獣に蹂躙された絶望の光景だった。
私は、他の人たちが襲われているうちに、畑に放り出された農作業用の荷車を見付けて、その下へと入り込んだ。
『うっうっ。うっうっ……』
止めようとしても、堪えようとしても、嗚咽と涙が零れ落ちる。
体中が震え、手も足も凍える様に冷たくて、抱えて丸まりたかった。もし少しでも動いて獣に見つかってしまったら。そう思うと歯を噛みしめて恐怖と震えをこらえるしかなかった。
丘にいたよりずっと多くの獣が町の中を走り回っていて、逃げる場所も、助かる道も思い浮かばない。
ーー助けてください、神様、神様、神様……!
ひたすらに助けを願った。
いっそ、気を失った方が楽かもしれないと思いながら、私は見つからない事を願い、獣たちの蹂躙が終わるのを待った。
気の触れるような時間耐え忍び、ようやく辺りは静かになった。
それでもまだ、この場所から出るのは怖かった。
お腹は空いた、喉はからから、頭は割れるような痛みがある。
体は自分の物とは思えないような動きでガクガクと震えている。
フーフーと荒い息が喉から漏れる。
目は怖くて閉じられなかった。瞬きしたその一瞬に獣が現れて私に食いつくのではないかと思うと、いくら目玉が乾きと痛みを訴えても、瞼を閉じるわけにはいかなかった。
それでも、体には限界が訪れる。
どれだけの意思を持っていようと、エネルギーを使い果たした体からは力が抜け、死への恐怖を感じながら私は意識を失っていった。
ざわざわざわ。
――何かの、音がする。
ざわざわざわ。
ーー人の声。足音。土を耕す音?
その『生きている音』を聞いて私の全身を安堵が駆け巡った。
ーー体中、いたい。
起き上がろうとして体に力が入らない。
目を開けようとして痛みに悲鳴を上げる。いや、上げようとした。
喉からは声が出ない。
体が勝手に震えだす。
ーーなに? 何で? 私の体どうしちゃったの?
自分の体なのに、自分の思い通りに動かない。
ーー逃げなきゃ、逃げなきゃ……。
ガタガタと震える体を何とか前に動かし、脳から送られてくる『逃げろ』という生きるための命令に従おうとする。
「に、げる? なにから」
声はほとんど言葉になっていなかった。
ガツガツと歯の鳴る音が頭に響く。
必死に記憶を辿り、私は急速に全ての場面を思い出した。意識を失う前の出来事を。
「っやぁーーーー!!」
目の前で食い殺されていく友人たち。
町を襲った無数の獣。
「お、おい。何かいるぞ!」
「こっちだ」
「この下だ」
「気をつけろ、奴らの残りかもしれない」
複数の男の声がしたが、何を言ってるのかは聞き取れない。
ただ、自分の喉から言葉にもならない叫びが出続けた。
「子供だ! 生きてるぞ!」
「生存者がいたぞぉ!」
「よーし、もう大丈夫だ。大丈夫だよ。怖かったな」
男の一人が私を抱き上げた。
ゆっくりと背を叩かれ、強く抱きしめられ、生きている体温の心地よさに安心して、私はだんだんに落ち着きを取り戻した。
「助かったのはこの子だけか」
「他は全滅だ」
話し合う男達の声は暗く沈んでいた。
「獣族の国に一番近い町だったからな」
「それでも、ずっとおとなしくしてたのに。いきなり戦争を仕掛けてくるなんて」
ぎりっ、と誰かの歯ぎしりの音が聞こえた。
「その子供を、まずは治療所に連れてってやれ。全身汚れているし疲れ切っている。そのままでは可哀想だ」
誰かの声に、私を抱き上げた男がそのまま歩き出し、テンポよく揺れる体に、私は安らいだ心地でうとうととし始めた。
「この町はもうだめだ。必要な物資を持ったら撤退を始めるぞ、救護班は基地に戻れ、我が隊は戦線に合流する」
大きな音で聞こえてくる声は、私にはもう、意味を理解することはできなかった。
「獣国は名を変え魔族国となった。これより戦うのは今までの獣ではない。
獣族はどのような方法を使ってかその身を進化させた。
全身を金属や岩石で構築し、酸や溶岩を吐き出す『魔族』と称するものになった。
そして人間国に従属するよう求めてきた。
この町の蹂躙は奴らの宣戦布告だ。
我らはこれを良しとしない。
人類には知恵がある。知能がある。知識がある。協力し合ってこの難敵に立ち向かおう!」
「「「おおう!!!」」」
――目が覚めた時、私の知る世界は大きく変わっていた。