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陰陽峠  作者: 六十一
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第6話

 ついに陰陽人は僕の周りをぐるりと一周し、また僕の目の前に現れた。

 片手をゆっくりと僕の首根っこの辺りへと伸ばしてくる。

 大声を上げて駆け出したくなる衝動を懸命に抑えて、満月を見上げながら、僕は“その時”を待った。

 ――ぴたり、と陰陽人の手が止まる。

 そしてまた、つい今しがたと同じように、僕の周りを周り出す。

 どうした、のだ?

 その様子は明らかに一度目とは違うようだった。

 よりゆっくりと、思案気に、注意深く。

 そして、何かを警戒でもしているかのような唸り声を、時折漏らしている。

 生暖かい陰陽人の吐息が首筋にかかる度、冷や汗が滝のように流れ、生きた心地がしない。

 一体僕の何をいぶかしんでいるのかは分からないが、少しは考える時間ができた。

 このままなんの案も無いままでは、僕の運命は決まったようなものだ。

 しかし、なにか思いつかないかと頭をフル回転させても、焦りばかりが先に立って、一向に考えがまとまらない。

 くそっ落ち着け! 落ち着いて考えるんだ!

 またきっちり一周りした陰陽人は、正面からぐっと顔を近づける。

 視線を微妙にずらして、正視しないようにしても、首をかたむけて僕の顔を覗きこんでくる。

 疑惑に満ちた、納得がいかなそうな顔で、陰陽人の目がぎゅっと細められた。

「われの子は、かくもにほわず・・・・・・あやしや・・・・・・」

 しわがれた呟き声。

 ――臭いとは・・・・・・なんのことだろう?

 陰陽人は、ほとんど触れんばかりに更に顔を近づけ、今度はなんと鼻を鳴らし始めた。

 足元から序々に、全身の臭いを嗅ごうとしているのだ。

 せり上がる巨大な顔面がもたらす恐怖感に耐えるのが精一杯で、とても考えることなどできない。

 気を静めろ・・・・・・冷静に・・・・・・冷静に・・・・・・

 僕の手は、自然と左胸に伸びていた。

 トントンと二回、指先で触れる。

 ――陰陽人が、びくりと体を震わせ、動きを止めた。

「にほうたぞ。いま、なんとした?」

 お碗大の目で、ぎろりと上目遣いに、僕を見上げる。

 僕は訳も分からず、何度も首を横に振った。

「にほうたぞ。あやしや・・・・・・あやしや・・・・・・」

 陰陽人の動きが、妙にせかせかとしたものになり――

「どこや・・・・・・どこや・・・・・・」

 と鼻を鳴らしながら、顔を上下左右に激しく動かし、何かを探し始める。

 もしや――

 僕は、胸ポケットからハンカチを取り出すと、陰陽人の鼻先に突き出した。

 突然目の前に現れたハンカチを不思議そうに眺めながら、

 何を思ったか陰陽人は、すうっ、と鼻で思い切り息を吸い込んだ。

 途端、目が限界を知らないかのように見開かれていき、一瞬の沈黙が訪れた後――

「エォオオオオアアアアア!」

 鼓膜が破れそうな大声で陰陽人は絶叫し、顔をのけぞらせた。

 暗闇に青白くぬめ光る陰陽人の咽喉が、怪しげに蠕動し、濁った音を立てる。

 僕は、呆気にとられ、その場に立ち尽くした。

 水飲み鳥の仕掛け物のように、前に振られる陰陽人の頭を、僕は呆然と見ていた。

「オゴォオオオエエエエエエエ!」

 異様に粘り気のある液体が、陰陽人の口から吐き出され、僕の頭に振り注ぐ。

 咄嗟に両手で頭を庇いながら後ろに飛び退ったが、謎の汚汁がビシャリと嫌な音を立てて、腕にかかってしまった。

 見ると、左腕が赤黒く染まっている。

 鉄錆の臭いが強く鼻をついた。

 これは――血だ。

 陰陽人に視線を移すと、口と同じように、両目、両耳からも血液を噴出させながら、

 両手で顔を覆い、ぶんぶんと上体を振り回している。

 傍にあった何本かの木々が、巨体にぶち当たり、ミシリと嫌な音をたてて軋んだ。

 まるで暴風のように荒れ狂う陰陽人から慌てて離れ、手頃な木の裏に隠れようとして、僕の左腕に突然激痛が走った。

 燃えるような痛みに、堪らず両膝を突く。

 月明かりにかざして見れば、先程悲鳴を抑えるために、自分で噛み付いた傷口から、薬品が化学反応を起こしている時のものに良く似た、白い煙のようなものが、細く尾を引いて立ち上っている。

「ああああああああ!」

 反応しているのは、他でもない僕の血と、陰陽人の血だ。

 なにか取り返しのつかないことになった感覚に、僕は声を抑えることができなかった。

 手にきつく掴まれていたハンカチで傷口を縛るも、すぐに血を含んでグズグズになってゆく。

 灼熱の感覚は腕から、全身に及び始めていた。

 体の中に、煮え滾った溶岩が流れ込んでしまったかのようだ。

 四肢が自分の脳の制御を受け入れずに、てんで勝手ばらばらに動き出す。

 僕はのたうち、泣き喚き、辺りを転がった。

「オオオオオ! 外具や! 外具の子ぉや! 外具の子をわれの子と欺くとは、許すまじ!」

 流血の止まらぬ両目をかっと見開き、歯を剥き出しに荒ぶる陰陽人の姿が、ちらりと視界の隅に映る。

「きっと! 殺すべし!」

 それは正に、鬼と呼ぶにふさわしかった。

 痛みに曇った頭でなければ、それだけでおかしくなっていたかも知れない。

 ・・・・・・ああ・・・・・・僕は殺されるのだ。

 山の禁忌を破ったために、こんな人気の無い暗い山中で。

 誰にも知られることもなく、殺されてしまうのだ。

 後少しで、麓に降りられたというのに・・・・・・

 悔しさと、死を目の前にした恐怖に、奥歯を噛み締める。

 ――しかし、陰陽人は、いつまでたっても近づいてくる気配がなかった。

 なんとか頭を起こし、辺りを見渡す。

 ――それは僕に向けられた言葉ではなかったのだ。

 陰陽人は怒りも顕わに、奥寺の放り投げられた辺りに歩み寄ると、奥寺の髪を鷲掴みにして、宙に吊り上げた。

「う・・・・・・あ? ひぃいいいい!?」

 地面に叩きつけられたショックで、意識を失っていたらしい奥寺は、それでようやく目を覚ましたようだった。

「い゛い゛い゛! 離せよ! お前の子供はあっちだろうが!」

 血まみれの顔の陰陽人に睨まれ、倒れ伏す僕の方を指差して、狼狽する奥寺。

 気絶していた奥寺には、どうしてこんなことになっているのか、全くわからないだろう。

「・・・・・・まだ申すか・・・・・・貴様! こうなれば、殺せと自ら乞ひ願うまで、いたぶるべし!」

「なんだよそれ!? なんなんだよ!」

「来ぃや!」

「はあ!? わかんねぇ! イテェよ、おいやめろ! サカイギ!? サカイギィ! どうなってんだよこれは! お前返事したじゃねぇか! なんで・・・・・・オレが・・・・・・やめてくれ! オレを連れていかないでくれ! いやだぁああああ! サカイギ! 助けてくれぇえぇぇ・・・・・・」

 僕にはその奥寺に応えてやれる力は、残っていなかった。

 霞む視界の中、じたばたと暴れる奥寺をものともせずに、山奥へと、今来た山道を戻っていく陰陽人の姿が遠ざかって行く――

 同じように小さくなっていく奥寺の声。

 痛みに焼かれる僕の脳髄に限界が訪れ、意識が途切れると同時に、その声もまた――

 ――途切れた。


 あれから、一月が経っていた。

 今では、意外に深かった腕の傷も、跡形もなく治っている。

 あの日、麓近くの山中で気を失った僕は、水無瀬市街中心部にある「水無瀬中央病院」のベッドの上で目を覚ました。

 丸二日程、眠っていたらしい。

 僕がだらしなくも気絶した後に、奥寺が祥子と呼んでいた女性が自力で下山し、救助を呼んでくれたのだそうだ。

 ・・・・・・彼女とは、あの峠での出来事以来、会っていない。

 精神的に深い傷を負ってしまった彼女は、個室のある隔離病棟で、今も治療を受けており、僕からの面会の申し出は許されなかった。

 事件の当事者である僕と会うのはまだ早い、という医者の説明だった。

 最後に山中で見た彼女の様子では――確かに時間がかかっても仕方がないと思う。

 ・・・・・・もしかしたら、もう会うことは出来ないのかもしれない。

 救助を呼んでくれたお礼を、ちゃんとしておきたかったが、そういう事情であれば、どうしようもなかった。

 奥寺は――やはり戻ってきてはいなかった。

 これでまた“陰陽峠の神隠し伝承”に、また一つ、新たな話が加わる事になってしまったわけだ。

 目を覚ましてからの僕は、警察の事情聴取に明け暮れて過ごした。

 多量の返り血を浴びて発見された僕と、失踪した奥寺、精神に異常をきたした奥寺の女友達、祥子。

 そして山中の広場に残された夥しい血痕。

 誰の目が見ても、事件性は十分だった。

 当事者の内、聴取に応じられる状態の人間は僕一人だけであり、その時間が長引くのは当然のことだろうとも思ったが、

 警察が、僕こそがこの事件を起こした張本人ではないかと疑っているのが、ありありと伝わってきて、その点は流石に堪えた。

 一人の女性を巡って痴話喧嘩となった僕と奥寺の二人が、人気のない山中で争い合い、僕が奥寺を刃物か何かで殺傷した。

 というのが、当初の警察の見方だったようだ。

 現場の状況から現実的に判断すれば、なるほど、そう思えなくもない。

 しかし、当然のように凶器は発見されなかったし、僕の衣服や体に付着していた血液は、奥寺のものとは全く一致しなかった。

 ――それ以前に血液は――“人間”の物ではない、と断定された。

 その取調べに対して僕は「得体の知れない巨大な生き物に襲われた」とだけ証言した。

 本当の事を言っても、信じてもらえる訳がない。

 その後、奥寺を捜索するために編成されたレスキュー隊が、丸ごと謎の失踪をするにあたって、僕の嘘の証言は真実味を帯び、事件は“峠に生息する極めて大きな獣の仕業”という方向に急速に傾き、僕への疑いは一気に薄れていった。

 なんでも近々、百人規模の山狩りが、警察と地元猟友会の主導で編成されるらしい。

 ヒグマ等の猛獣を想定しているにしても、相当な規模のものだ。

 陰陽人がいかに巨大で、怪力の持ち主だといっても、武装した百人のハンターを相手にしては、おそらくひとたまりもあるまい。

 もし仮に、それを撃退するような事があれば、今度は、もっと大事になることも、あるだろう。

 ――そうなれば、陰陽峠は、本当の意味での“最後”を迎えることになる。


 夜。

 歩を進める度、落ち葉の湿気を吸って、ジーンズはどんどん重くなっていく。

 だが、それによって、歩みが遅れることはない。

 周囲を照らすライトはない。

 冬の装いの山は、葉のない木々も多いが、そのあまりの密度に月明かりさえ遮られ、辺りは完全な暗闇に沈んでいる。

 しかし、視界を遮断するその闇も、少しも僕の進行を妨げはしない。

 ――僕の目には、うねり延びる山道が、まるで日の光の下にみるように、はっきりと映し出されていた。

 峠の入り口に張られた、太い金網と鉄柵でできた二重のバリケードは、市販のペンチと転がっていた鉄の棒で、簡単に通り抜けることができた。

 素手でも可能だったかも知れないが、道具がある方が、当然容易だ。

 ここは「陰陽峠」、古くからの言い伝えに残る、神隠しの山だ。

 僕は再び――ここにいる。

 しかしここには、以前のように僕を拒絶し、排除しようとする害意は、最早存在しない。

 峠は、僕を受け容れてくれていた。

 ――僕は、伝えなければいけない。

 この峠に今、大きな危機が迫っている。

 それはこの神域の崩壊を招く、許容されざる危機だ。

 そしてその事態を招くきっかけを作ったのは、誰あろう、僕自身に他ならない。

 ――僕は知らせなければならない。

 僅かではあるが、同じ血を分けることになった“同胞”に。

 あの事件以来、僕の体の中だけでなく心にある比重は、日に日に「陰陽人」へと重きを増しているように思える。

 それが“生まれ変わり”であるのか“汚染”であるのか、はたまた“共生”であるのか、今は分からない。

 ――僕は、会わなくてはならない。

 僕の新たな血族に、新しい“母”に。

 そしているのかも知れない、まだ見ぬ“彼ら”にも。

 “母”は里に帰ろう、と言った。

 ならば――あるのだろう。

 まずは、そこへ向かってみるつもりだ。

 どこにあるかは分からない。

 しかし、辿り着けるはずだ。

 其処へ到る道は、こうして今ここに、こんなにもはっきりと見えているのだから。

 導いてもくれている。

 “母”の鼓動は、僕の耳に微かにだが、確実に届いている。

 ――さあ、呼び声を上げよう。

 応えてくれさえすれば、その居場所は知ることができる。

 鼓動をはっきりと感じ取ることができるのだ。

 僕は伸び上がって、肺一杯に空気を吸い込んだ。

 峠の頂上から、暗黒の雲海の如き闇の奥へと届くように、ありったけの声で呼びかける。


「――――――!」


 ・・・・・・陰陽人は、人の声に篭もりたる心臓の音に、居所を知るといへば・・・・・・




 『=水無瀬市旧村落密集地帯C−6地区、通称“陰陽峠”における汚染調査の結果報告=


 調査の結果、“混沌描写法”を用いた浄化の必要ありと認められる事象を、多数確認。

 同地区の浄化は急務であると思われるが、現在“共通潜在意識界”と現界にて同時進行中の大規模共同作戦“49作戦”に大多数の実働部隊人員が参加中。“訪国中”の者も多く、作戦完了の目処も起たぬ状況であり、同地区の事態に即時対応する事は非常に困難であると判断する。

 通常危機管理機構である警察及び水無瀬市自治体が、同地区において“山狩り”を行うという情報があるが、現状の当機関の態勢では、それらをサポートする事は、前記“49作戦”展開中であることからも不可能であり、その場合“山狩り”実行時には相当数の人的被害を被るものと懸念される。

 よって“山狩り”は期間再考の必要ありと結論するものである。

 その旨、各団体への働きかけは、外交部に一任されたし。


 追加報告:本年8月に“深青学園高等部、同大学研究棟群含む第二新校舎”において発生した“学園生徒及び関係者大量変死事件”の生存者1名が、意識不明の状態より回復。

 現在療養中のため、事件詳細部解明のための事情聴取は後日、同生存者の回復を待って行われる予定。

 現状は混乱状態にあり、しきりに

 「死んだはずの人間が起き上がり、友人を食べた」

 「“彼女”はどこにいった。“箱”はどこにいった」

 などの発言を繰り返しており、事情聴取が可能になるまで時間が必要である。

 ――取り急ぎ伝えたい報告は一つ。

 生存者救出時の担当官の一人が、その“箱”に関連する情報をもっていると証言。大量変死事件に、何等かの関係がある可能性が非常に高い。

 “箱”は目下捜索中であるが、発見後の対応は、非常に慎重を要すると判断。発見後を想定し、隔絶度が高く、厳重保管できる場所を現時点より確保する事を提案する。

 尚、ごく私的な意見として付け加えると、その“箱”はおそらく・・・・・・』

 

 ――ある機関員の報告書より抜粋――



 終

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