第6話
ついに陰陽人は僕の周りをぐるりと一周し、また僕の目の前に現れた。
片手をゆっくりと僕の首根っこの辺りへと伸ばしてくる。
大声を上げて駆け出したくなる衝動を懸命に抑えて、満月を見上げながら、僕は“その時”を待った。
――ぴたり、と陰陽人の手が止まる。
そしてまた、つい今しがたと同じように、僕の周りを周り出す。
どうした、のだ?
その様子は明らかに一度目とは違うようだった。
よりゆっくりと、思案気に、注意深く。
そして、何かを警戒でもしているかのような唸り声を、時折漏らしている。
生暖かい陰陽人の吐息が首筋にかかる度、冷や汗が滝のように流れ、生きた心地がしない。
一体僕の何をいぶかしんでいるのかは分からないが、少しは考える時間ができた。
このままなんの案も無いままでは、僕の運命は決まったようなものだ。
しかし、なにか思いつかないかと頭をフル回転させても、焦りばかりが先に立って、一向に考えがまとまらない。
くそっ落ち着け! 落ち着いて考えるんだ!
またきっちり一周りした陰陽人は、正面からぐっと顔を近づける。
視線を微妙にずらして、正視しないようにしても、首をかたむけて僕の顔を覗きこんでくる。
疑惑に満ちた、納得がいかなそうな顔で、陰陽人の目がぎゅっと細められた。
「われの子は、かくもにほわず・・・・・・あやしや・・・・・・」
しわがれた呟き声。
――臭いとは・・・・・・なんのことだろう?
陰陽人は、ほとんど触れんばかりに更に顔を近づけ、今度はなんと鼻を鳴らし始めた。
足元から序々に、全身の臭いを嗅ごうとしているのだ。
せり上がる巨大な顔面がもたらす恐怖感に耐えるのが精一杯で、とても考えることなどできない。
気を静めろ・・・・・・冷静に・・・・・・冷静に・・・・・・
僕の手は、自然と左胸に伸びていた。
トントンと二回、指先で触れる。
――陰陽人が、びくりと体を震わせ、動きを止めた。
「にほうたぞ。いま、なんとした?」
お碗大の目で、ぎろりと上目遣いに、僕を見上げる。
僕は訳も分からず、何度も首を横に振った。
「にほうたぞ。あやしや・・・・・・あやしや・・・・・・」
陰陽人の動きが、妙にせかせかとしたものになり――
「どこや・・・・・・どこや・・・・・・」
と鼻を鳴らしながら、顔を上下左右に激しく動かし、何かを探し始める。
もしや――
僕は、胸ポケットからハンカチを取り出すと、陰陽人の鼻先に突き出した。
突然目の前に現れたハンカチを不思議そうに眺めながら、
何を思ったか陰陽人は、すうっ、と鼻で思い切り息を吸い込んだ。
途端、目が限界を知らないかのように見開かれていき、一瞬の沈黙が訪れた後――
「エォオオオオアアアアア!」
鼓膜が破れそうな大声で陰陽人は絶叫し、顔をのけぞらせた。
暗闇に青白くぬめ光る陰陽人の咽喉が、怪しげに蠕動し、濁った音を立てる。
僕は、呆気にとられ、その場に立ち尽くした。
水飲み鳥の仕掛け物のように、前に振られる陰陽人の頭を、僕は呆然と見ていた。
「オゴォオオオエエエエエエエ!」
異様に粘り気のある液体が、陰陽人の口から吐き出され、僕の頭に振り注ぐ。
咄嗟に両手で頭を庇いながら後ろに飛び退ったが、謎の汚汁がビシャリと嫌な音を立てて、腕にかかってしまった。
見ると、左腕が赤黒く染まっている。
鉄錆の臭いが強く鼻をついた。
これは――血だ。
陰陽人に視線を移すと、口と同じように、両目、両耳からも血液を噴出させながら、
両手で顔を覆い、ぶんぶんと上体を振り回している。
傍にあった何本かの木々が、巨体にぶち当たり、ミシリと嫌な音をたてて軋んだ。
まるで暴風のように荒れ狂う陰陽人から慌てて離れ、手頃な木の裏に隠れようとして、僕の左腕に突然激痛が走った。
燃えるような痛みに、堪らず両膝を突く。
月明かりにかざして見れば、先程悲鳴を抑えるために、自分で噛み付いた傷口から、薬品が化学反応を起こしている時のものに良く似た、白い煙のようなものが、細く尾を引いて立ち上っている。
「ああああああああ!」
反応しているのは、他でもない僕の血と、陰陽人の血だ。
なにか取り返しのつかないことになった感覚に、僕は声を抑えることができなかった。
手にきつく掴まれていたハンカチで傷口を縛るも、すぐに血を含んでグズグズになってゆく。
灼熱の感覚は腕から、全身に及び始めていた。
体の中に、煮え滾った溶岩が流れ込んでしまったかのようだ。
四肢が自分の脳の制御を受け入れずに、てんで勝手ばらばらに動き出す。
僕はのたうち、泣き喚き、辺りを転がった。
「オオオオオ! 外具や! 外具の子ぉや! 外具の子をわれの子と欺くとは、許すまじ!」
流血の止まらぬ両目をかっと見開き、歯を剥き出しに荒ぶる陰陽人の姿が、ちらりと視界の隅に映る。
「きっと! 殺すべし!」
それは正に、鬼と呼ぶにふさわしかった。
痛みに曇った頭でなければ、それだけでおかしくなっていたかも知れない。
・・・・・・ああ・・・・・・僕は殺されるのだ。
山の禁忌を破ったために、こんな人気の無い暗い山中で。
誰にも知られることもなく、殺されてしまうのだ。
後少しで、麓に降りられたというのに・・・・・・
悔しさと、死を目の前にした恐怖に、奥歯を噛み締める。
――しかし、陰陽人は、いつまでたっても近づいてくる気配がなかった。
なんとか頭を起こし、辺りを見渡す。
――それは僕に向けられた言葉ではなかったのだ。
陰陽人は怒りも顕わに、奥寺の放り投げられた辺りに歩み寄ると、奥寺の髪を鷲掴みにして、宙に吊り上げた。
「う・・・・・・あ? ひぃいいいい!?」
地面に叩きつけられたショックで、意識を失っていたらしい奥寺は、それでようやく目を覚ましたようだった。
「い゛い゛い゛! 離せよ! お前の子供はあっちだろうが!」
血まみれの顔の陰陽人に睨まれ、倒れ伏す僕の方を指差して、狼狽する奥寺。
気絶していた奥寺には、どうしてこんなことになっているのか、全くわからないだろう。
「・・・・・・まだ申すか・・・・・・貴様! こうなれば、殺せと自ら乞ひ願うまで、いたぶるべし!」
「なんだよそれ!? なんなんだよ!」
「来ぃや!」
「はあ!? わかんねぇ! イテェよ、おいやめろ! サカイギ!? サカイギィ! どうなってんだよこれは! お前返事したじゃねぇか! なんで・・・・・・オレが・・・・・・やめてくれ! オレを連れていかないでくれ! いやだぁああああ! サカイギ! 助けてくれぇえぇぇ・・・・・・」
僕にはその奥寺に応えてやれる力は、残っていなかった。
霞む視界の中、じたばたと暴れる奥寺をものともせずに、山奥へと、今来た山道を戻っていく陰陽人の姿が遠ざかって行く――
同じように小さくなっていく奥寺の声。
痛みに焼かれる僕の脳髄に限界が訪れ、意識が途切れると同時に、その声もまた――
――途切れた。
あれから、一月が経っていた。
今では、意外に深かった腕の傷も、跡形もなく治っている。
あの日、麓近くの山中で気を失った僕は、水無瀬市街中心部にある「水無瀬中央病院」のベッドの上で目を覚ました。
丸二日程、眠っていたらしい。
僕がだらしなくも気絶した後に、奥寺が祥子と呼んでいた女性が自力で下山し、救助を呼んでくれたのだそうだ。
・・・・・・彼女とは、あの峠での出来事以来、会っていない。
精神的に深い傷を負ってしまった彼女は、個室のある隔離病棟で、今も治療を受けており、僕からの面会の申し出は許されなかった。
事件の当事者である僕と会うのはまだ早い、という医者の説明だった。
最後に山中で見た彼女の様子では――確かに時間がかかっても仕方がないと思う。
・・・・・・もしかしたら、もう会うことは出来ないのかもしれない。
救助を呼んでくれたお礼を、ちゃんとしておきたかったが、そういう事情であれば、どうしようもなかった。
奥寺は――やはり戻ってきてはいなかった。
これでまた“陰陽峠の神隠し伝承”に、また一つ、新たな話が加わる事になってしまったわけだ。
目を覚ましてからの僕は、警察の事情聴取に明け暮れて過ごした。
多量の返り血を浴びて発見された僕と、失踪した奥寺、精神に異常をきたした奥寺の女友達、祥子。
そして山中の広場に残された夥しい血痕。
誰の目が見ても、事件性は十分だった。
当事者の内、聴取に応じられる状態の人間は僕一人だけであり、その時間が長引くのは当然のことだろうとも思ったが、
警察が、僕こそがこの事件を起こした張本人ではないかと疑っているのが、ありありと伝わってきて、その点は流石に堪えた。
一人の女性を巡って痴話喧嘩となった僕と奥寺の二人が、人気のない山中で争い合い、僕が奥寺を刃物か何かで殺傷した。
というのが、当初の警察の見方だったようだ。
現場の状況から現実的に判断すれば、なるほど、そう思えなくもない。
しかし、当然のように凶器は発見されなかったし、僕の衣服や体に付着していた血液は、奥寺のものとは全く一致しなかった。
――それ以前に血液は――“人間”の物ではない、と断定された。
その取調べに対して僕は「得体の知れない巨大な生き物に襲われた」とだけ証言した。
本当の事を言っても、信じてもらえる訳がない。
その後、奥寺を捜索するために編成されたレスキュー隊が、丸ごと謎の失踪をするにあたって、僕の嘘の証言は真実味を帯び、事件は“峠に生息する極めて大きな獣の仕業”という方向に急速に傾き、僕への疑いは一気に薄れていった。
なんでも近々、百人規模の山狩りが、警察と地元猟友会の主導で編成されるらしい。
ヒグマ等の猛獣を想定しているにしても、相当な規模のものだ。
陰陽人がいかに巨大で、怪力の持ち主だといっても、武装した百人のハンターを相手にしては、おそらくひとたまりもあるまい。
もし仮に、それを撃退するような事があれば、今度は、もっと大事になることも、あるだろう。
――そうなれば、陰陽峠は、本当の意味での“最後”を迎えることになる。
夜。
歩を進める度、落ち葉の湿気を吸って、ジーンズはどんどん重くなっていく。
だが、それによって、歩みが遅れることはない。
周囲を照らすライトはない。
冬の装いの山は、葉のない木々も多いが、そのあまりの密度に月明かりさえ遮られ、辺りは完全な暗闇に沈んでいる。
しかし、視界を遮断するその闇も、少しも僕の進行を妨げはしない。
――僕の目には、うねり延びる山道が、まるで日の光の下にみるように、はっきりと映し出されていた。
峠の入り口に張られた、太い金網と鉄柵でできた二重のバリケードは、市販のペンチと転がっていた鉄の棒で、簡単に通り抜けることができた。
素手でも可能だったかも知れないが、道具がある方が、当然容易だ。
ここは「陰陽峠」、古くからの言い伝えに残る、神隠しの山だ。
僕は再び――ここにいる。
しかしここには、以前のように僕を拒絶し、排除しようとする害意は、最早存在しない。
峠は、僕を受け容れてくれていた。
――僕は、伝えなければいけない。
この峠に今、大きな危機が迫っている。
それはこの神域の崩壊を招く、許容されざる危機だ。
そしてその事態を招くきっかけを作ったのは、誰あろう、僕自身に他ならない。
――僕は知らせなければならない。
僅かではあるが、同じ血を分けることになった“同胞”に。
あの事件以来、僕の体の中だけでなく心にある比重は、日に日に「陰陽人」へと重きを増しているように思える。
それが“生まれ変わり”であるのか“汚染”であるのか、はたまた“共生”であるのか、今は分からない。
――僕は、会わなくてはならない。
僕の新たな血族に、新しい“母”に。
そしているのかも知れない、まだ見ぬ“彼ら”にも。
“母”は里に帰ろう、と言った。
ならば――あるのだろう。
まずは、そこへ向かってみるつもりだ。
どこにあるかは分からない。
しかし、辿り着けるはずだ。
其処へ到る道は、こうして今ここに、こんなにもはっきりと見えているのだから。
導いてもくれている。
“母”の鼓動は、僕の耳に微かにだが、確実に届いている。
――さあ、呼び声を上げよう。
応えてくれさえすれば、その居場所は知ることができる。
鼓動をはっきりと感じ取ることができるのだ。
僕は伸び上がって、肺一杯に空気を吸い込んだ。
峠の頂上から、暗黒の雲海の如き闇の奥へと届くように、ありったけの声で呼びかける。
「――――――!」
・・・・・・陰陽人は、人の声に篭もりたる心臓の音に、居所を知るといへば・・・・・・
『=水無瀬市旧村落密集地帯C−6地区、通称“陰陽峠”における汚染調査の結果報告=
調査の結果、“混沌描写法”を用いた浄化の必要ありと認められる事象を、多数確認。
同地区の浄化は急務であると思われるが、現在“共通潜在意識界”と現界にて同時進行中の大規模共同作戦“49作戦”に大多数の実働部隊人員が参加中。“訪国中”の者も多く、作戦完了の目処も起たぬ状況であり、同地区の事態に即時対応する事は非常に困難であると判断する。
通常危機管理機構である警察及び水無瀬市自治体が、同地区において“山狩り”を行うという情報があるが、現状の当機関の態勢では、それらをサポートする事は、前記“49作戦”展開中であることからも不可能であり、その場合“山狩り”実行時には相当数の人的被害を被るものと懸念される。
よって“山狩り”は期間再考の必要ありと結論するものである。
その旨、各団体への働きかけは、外交部に一任されたし。
追加報告:本年8月に“深青学園高等部、同大学研究棟群含む第二新校舎”において発生した“学園生徒及び関係者大量変死事件”の生存者1名が、意識不明の状態より回復。
現在療養中のため、事件詳細部解明のための事情聴取は後日、同生存者の回復を待って行われる予定。
現状は混乱状態にあり、しきりに
「死んだはずの人間が起き上がり、友人を食べた」
「“彼女”はどこにいった。“箱”はどこにいった」
などの発言を繰り返しており、事情聴取が可能になるまで時間が必要である。
――取り急ぎ伝えたい報告は一つ。
生存者救出時の担当官の一人が、その“箱”に関連する情報をもっていると証言。大量変死事件に、何等かの関係がある可能性が非常に高い。
“箱”は目下捜索中であるが、発見後の対応は、非常に慎重を要すると判断。発見後を想定し、隔絶度が高く、厳重保管できる場所を現時点より確保する事を提案する。
尚、ごく私的な意見として付け加えると、その“箱”はおそらく・・・・・・』
――ある機関員の報告書より抜粋――
終