第5話
ねんねこ、ころり、ころころり
まんまる おつきさま ころころり
いしどうふたつ、じょうひとつ
なしひと、かまたのたつさきの
しろがね、じょうまえ、かちゃ、ことり
さきはまほろば、ゆめのくに
ゆっくりとした、まどろむような女の声音。
これは多分・・・・・・子守歌だ。
僕はごくりと唾を飲み込んだ。
こんな山のなかで、子守唄など歌っているものが、正常な人間であるはずがない。
後を引くか細い声の合間に、時折漏れるくすくすという笑い声。
僕の頭の中の本能の部分が、割れんばかりの警鐘を打ち鳴らしている。
――絶対に、その存在に見つかってはならない。
僕は息を殺し、ただじっと、大木の陰から、様子を伺いつづけた。
山の上方から広場に続く山道に、最初に見えたのは小さな光だった。
その上に、アップライトで不気味に陰影のついた、女の顔が浮かぶ。
年の頃は30代といったところだろうか。
どうやら女の胸元に、灯りがあるらしい。
その姿が近づくにつれ、強くなる月明かりで、その女の姿のかなり仔細なところまでわかるようになった。
――女は紬をきていた。
取り立てて特徴のない、よくこのあたりの村人が着ている、平凡な柄だ。
しかし、平凡なのはそれだけだった。
四方八方に伸びるばかりにまかせてある、ぼさぼさの長髪。
つやを失った黒い蜘蛛の糸のような髪の間から覗く、一目見ただけで狂っていると分かる眼差し。
両目は大きく見開かれ、夜行性の獣を思わせる壮絶さを秘めて、ヌラヌラとぬめ光っている。
黒瞳は絶えずあちこち動いては、時折ぴたりと止まり、対象を目で射殺さんばかりの鋭い眼光で、一点を凝視する。
足元には枯葉の山がまとわり着いて、膝丈から下の着物は、すっかり隠れてしまっている。
なのに着物の女は、そんなことはまるで障害になっていないとでもいうかのように、滑るように地面を歩くのだ。
驚くほどすいすいと、あの歩きづらい山道を降りてくる。
――僕は息を呑んで、その女を注視した。
女の胸には、赤子のおくるみが、大事そうにしっかりと両手でかかえられている。
そのおくるみが、どんな仕掛けか小さな燐光を発して、女の顔を浮かび上がらせていた。
子守唄はまだ続いていた。
女に抱かれた赤子が、もぞりと動く。
女はそれをあやす様に、ゆっくりと上下におくるみを揺すった。
赤子の頭の部分の布がはらりとずれて、その顔が月光の下にされけ出され・・・・・・
それを見た瞬間、僕はすぐにでも目を逸らしたくなった。
・・・・・・ああ・・・・・・ああ・・・・・・なんてことだ。
古ぼけた錦布の間から覗く顔に、見覚えがあった。
あれは・・・・・・赤子などではない――奥寺だ。
奥寺は何事か口を動かして、女に話しかけているが、その声はこちらには聞こえてこない。
必死の形相でせわしなく手に持った何か――あれは携帯か――を操作している。
女の顔を彩る不気味な陰影は、その携帯の光が作り出したものだったのだ。
――しかし、それにしては妙だ。
どう見たって妙なのだ。
着物の狂女の胸に抱かれる格好の奥寺の体は、ここから見て“本物の赤子”程の大きさしかない。
では、一体、女の体は――
ガサガサ、ザワザワという枯葉のこすれ合う音と、不気味な狂女の子守歌は確実に大きくなっていき――
ついに女は、広場に全身をさらけ出した。
その全容は否応なしに、僕の視界に飛び込んでくることになった。
驚きのあまりに、思わず声が漏れそうになる。
咄嗟に自らの左の腕に噛み付いて、寸でのところで押し殺す。
運の悪いことにそこは、先程コンパスを探す時についた傷と同じ箇所だった。口の中にどろりと血の味が広がり、遅れてじんじんと鈍く疼く痛みが、それを追いかけてくる。
しかしそんなことも露ほども気になることはない。
広場に立つ女の異常さが、僕の肉体の感覚をほとんど麻痺させていたのだ。
腰を更に深く屈め、身を隠し、様子を伺う。
女は――大き過ぎた。
おそらく身長は5、6mはあるのではないだろうか。
こんなに大きな人間は――存在しない。
――「陰陽人」
この狂女こそが、村に伝わる数多の伝承に名を残す、峠の住人に他あるまい。
昔の村人達が、見慣れぬ西洋人を見てどうとか、継ぎ足をしているのではないかとか、そういう段階のものでは、すでにない。
巨大な、あまりにも巨大に過ぎる体躯。
多足生物のように奇妙な、すべるような足取り。
ディティールそのものは、忠実に人間の形を再現している上、言語も操る、人ならぬヒトカタ。
皮膚の下には、峠を侵す者への害意が流れ、悪意が脈打つ。
――これが・・・・・・陰陽人なのだ――
陰陽人とは、何か特別な状況におかれた人間の別名などではなく――完全に人間とは種を別にする生き物だったのだ。
――それは、まさに怪物。
人が未だに認知したことのない、生命。
木々がドーム状に周囲を囲む広場の、ほぼ中央まで女は歩み出た。
ぐぐっと顔を地面近くまで近づけると、ぐるりと辺りをねめつける。
「おらんかー!」
狂女の叫びが広場に木霊した。長髪が鞭のように波打ち、枯葉を宙に巻き上げる。
その風は僕の隠れている木の枝葉をも揺らした。
僕は全身を震わせて、見つからないように祈った。
間違いない。
――この声は、最初の電話の時のものと同じだ。
暗い愉悦を湛えた、おぞましい呼び声。
もし最初の電話に応えていたなら――
「くそおおおおお!」
次に聞こえてきたのは、奥寺の絶叫。
「なんで出ねぇんだ! なんで!? 出ろよ!サカイギィイィイイイ!」
聞いたことのない奥寺の怒号。僕が電話に出ないことへの単純で、激しい怒り。
「はやくしろっ! でろっ!」
電源を切った僕の携帯に、電話がつながるはずもない。
それは恐らく、奥寺も十分に承知している事だろうが。
――それでも尚、電話をかける事が止められない程、奥寺は追い詰められているのだ。
陰陽人は、胸元の奥寺をギロリと見下ろした。
「嘘か?われのやや子を見たりしと、お主・・・・・・嘘を申したか?」
「う、うう、うそじゃなひぃ、うそじゃない! いるんだ、ほんとに。今、声を聞かせるから! な、ちょっとまってくれ・・・・・・なんなんだよ! 電源切るとかマジかよ!? 友達の電話なら、でるだろうがよ! フツー!」
「嘘か・・・・・・われを騙し、ぬかよろこびさせるとは憎し・・・・・・」
喉の奥から搾り出すような声。
悔しさに歯噛みする陰陽人の眼光は更に鋭さを増し、険しく寄せられた眉の下から、そうすれば人を殺せるとでも言わんばかりに、奥寺を睨む。
ひっ、と奥寺が息を呑むのがわかった。
「ちぃぃ違う、違うんだ・・・・・・もう少し」
「もう――峠も終わりや」
「まだぁはぁ! まだなんだぁ!」
「・・・・・・おぉやぁ・・・・・・くるみに粗相とは、まことの赤子のようなり・・・・・・ホホホホホホホ!」
陰陽人の哄笑が広場を埋め尽くし、わんわんと頭の中に鳴り響く。
耐えられずに両耳を手で覆っても、それは指の隙間から潜り込んで、頭蓋骨の中で、ぐるぐると渦を巻いた。
「サカイギィィ! このクソ野郎! 電話に出ろ! クソックソッ! でぇろぉおおお!」
なんなんだ――奥寺、お前は?
お前は僕に電話に出させて、どうしようとしてるんだよ?
「はて、我のやや子はサカイギといったかの・・・・・・そうじゃ、そうじゃ、サカイギや。可愛やの、可愛やの」
「頼む! サカイギ! 聞こえてるんだろ!? オレを助けてくれよぅ・・・・・・」
奥寺の啜り無く声。
――身も世もなく、ただ自分の保身を願うばかりの、身勝手な嗚咽。
「しかし――見つからぬなら、貴様を連れ去るより仕方なし」
陰陽人は、自分の言葉がどんな効果を奥寺にもたらすのかを十分に考慮した、厭らしい声を出した。
――そういう事なんだろ?
どうしてかは知らないが、お前は禁を破り、陰陽人に捕まった。
それ自体は責められることじゃない。誰もとうの昔に廃れてしまった伝承の怪物が、街から然程離れてもいない山の中に、実際に存在するなんて思いもしないだろう。
けれど、今お前がしようとしていることは、なんだ?
僕に、自分の「呼び声」に「応え」させて、どうしようというんだ?
いくら混乱しているとはいえ、今の会話から、ある程度の予想はつく。
奥寺、お前は――自分の身代わりに、僕を差し出して、助かろうというのだろう?
電話の声を聞いた瞬間に抱いた嫌な感じは、見事に的中していたというわけだ。
憐れな――奥寺。
奥寺は絶え間なく、電話に出ない僕を罵っている。
何処とも知らぬ場所へと連れ去られることに、間接的に加担していることを非難し、蔑んでいる。
しかし、不思議と怒りは沸いてこなかった。
感情自体が麻痺しかけていたというのもある。
が、大木の陰から奥寺の狂乱する様を見て、体を震わせていることしか出来ない僕には、そのことで怒る資格があるようには思えなかったからだ。
もし仮に、僕が奥寺と逆の立場であったなら、怯濡し、追い詰められて、同じことをしていたかも知れない。
恐慌に陥って、必死に助かろうとしている奥寺を責めることは、僕にはできなかった。
「いやだぁぁぁ・・・・・・待ってくれ! 頼むよぅ・・・・・・あああ・・・・・・どうしよう・・・・・・どうし・・・・・・!」
――喚き続けていた奥寺の声がピタリと止んだ。
唐突に訪れた静寂に、僕は疑問を感じた。
ぎりぎり見つからない程度に顔を覗かせると、奥寺は無言で、憑かれたように携帯を弄っている。
つい今しがたまでの狂態が、まるで嘘のように。迷路に囚われたものが、出口を見つけた時のように。
――嫌な、予感がした。
ピルルルルル!
一瞬の間をおいて、携帯の着信音が、辺りに鳴り響いた。
――嘘だ、ありえない。
僕の携帯は確かに電源を切ったはずだ。
着信があることなど考えられない。
ジーンズの後ろポケットから、震える手で携帯を取り出す。
――僕の携帯は全く反応していない。
なのに着信音は、僕のすぐそばで、鳴り続けていた。
火花が散ったように閃いて、僕は、隠れている大木の程近く、すぐそこにある茂みに隠れた、もう一人の“峠への侵入者”の事を思い出した。
確か――彼女も携帯を持っていたはず。
予感は的中した。
月影にも鮮やかに、彼女の携帯は連続で発光を繰り返している。
奥寺のやつ・・・・・・まさか!?
奥寺がニヤリと不気味に笑うのを、僕は確かに見た。
何故奥寺が、彼女の携帯の番号を知っていたのか。
彼女と奥寺の関係は、どんなものなのか。
分からないことは幾つもあったが、奥寺の目論見だけははっきりと分かった。
――奥寺は、電話に出ない僕に見切りをつけ、自らの身代わり候補の矛先を、彼女に向けようとしているのだ。
携帯番号を知っているぐらいだ、奥寺は、彼女とそれなりに親しい間柄にあるのだろう。
それなのにそんな人を、しかも女性であるのに、自分の身代わりとして、あの化け物に差し出そうというのか。
――自分に危険が及べば、ここまで人間は、身勝手になれるのか。
僕は全身を振るわせた。
恐怖にではない、怒りにだ。
この時になってようやく、腹の底から、奥寺に対する怒りが吹き上がってくるのを感じた。
鳴り響く着信音の源を見つけ出そうと、陰陽人はギョロギョロと四方に視線を巡らせている。
携帯の光で、彼女の居所は一目瞭然のはずなのに、それが見えていないらしい。
これならば、もしかしてこのままやり過ごせるかもしれないと、微かに希望を感じたところに・・・・・・
「あっちだよ! あっち! ほら、見えるだろ? あの茂みのところだ」
喜々とした声を上げながら、奥寺が僕達の隠れている方向を指差した。
奥寺・・・・・・お前は・・・・・・
「ここかえ? ここかえ?」
陰陽人は奥寺の誘導で、ゆっくりとではあるが、確実に彼女に近づいて行く。
彼女は一体何をしているんだ?
――早く電話を切らなければ見つかってしまうんだぞ!?
再び、視線を茂みに向けると、四つんばいの格好の彼女が見えた。
肘を立て、携帯を顔の前に掲げた彼女は、それが何を意味するのか分からないといった風に、不思議そうに点滅する光を眺めていた。
口元にはうっすらと張り付いたような笑みが浮かび、口角にはドロリと泡が、顎の方までこびりついている。
絶望に濡れる焦点の合わぬ両眦から、止め処なく涙が流れ、携帯の光を反射しては、地に落ちていく。
彼女もまた、陰陽人と奥寺のやりとりを聞いていたはずだ。
そうであれば、今自分の身に起きていることがどういう類のことなのか、容易に想像がつくはずなのに・・・・・・
そうしている間にも、彼女と陰陽人の距離はどんどん詰まっていく。
――まずい、本当に見つかるぞ!
着信音が不意に途切れた。
そうだ、いいぞ! 電源を切ったんだな?
しかし、僕の目に映ったのは、携帯を耳元に持っていく彼女の姿だった。
――信じられない。
なにを・・・・・・しようとしているんだ?
奥寺は君を、自分の身代わりにしようとしているんだぞ?
「ひゃほっ!?」
間の抜けた奥寺の声。
電話がつながったことが、そんなに嬉しいか?
奥寺の喜びようは、まるで小躍りでもしそうな程だった。
「ほらっ! ほらっ!」
と陰陽人の口元へ、電話を突き出す。
「呼んでみろ! ほらぁ!」
酷い・・・・・・こんなやつだったなんて・・・・・・
最早自分の知っている人物ではなくなってしまった奥寺を眺めながら、僕は思った。
自分が助かることだけを考えるなら、僕はこのまま、傍観を決め込めばいい。
この馬鹿らしい、ふってわいたような唾棄すべき“ババ抜き”の当事者は、奥寺と、僕の見知らぬ女性の二人の番へと移り変わっている。
あとは耳を塞ぎ、この場をやり過ごし、見たものを忘れてしまえばいい。
僕がした行動は“気味の悪い電話をとらなかった”ということだけだ。
――なにを責められる謂れがあろうか。
「どこやー!」
その声に木々が震えた。
――聞くだけで、心が濁っていく声。
――決して応えてはいけない呼び声。
ひゅっと彼女が息を呑む音が聞こえた。
ひくつく唇が、除々に開いていく。
後は、ほんの少し喉を振るわせるだけで――
――彼女は禁忌を、犯すことになる。
僕はその時、彼女の目を、見てしまった。
彼女も、僕を見ていた。
それを何と言って、それを表現すればいいだろう。
なにも映していない、認識をする器官としての役割を、完全に放棄した目。
その奥に、黒瞳の水面に揺らめきを残して沈んでいく、彼女の心が見えた。
それは僕には救いを――求めているように見えた。
「ここだ! ここにいる・・・・・・」
気がついた時には、僕は大木の陰から飛び出し、叫んでいた。
ありったけの力を込めて叫んだつもりが、語尾は擦れた裏声になった。
ぽかんと口を開けたまま、突然現れた僕を、見開いた目で見上げる彼女。
僕はそれに目を合わせないように茂みの脇をすり抜け、広場の中央へと、歩を進めた。
「境木ぃ!? お前ぇ・・・・・・そんなとこにいたのかよ」
近づいてくる人物が予想と違い、奥寺が驚きの声を上げる。
僕はそれを黙殺し、奥寺を睨みつけた。
「なんでお前が祥子の携帯もってたのか知らないけどよ、やぁーっと繋がったってわけだ! ヒャハハ」
にやけ顔で言う奥寺から目を逸らさずに、前進する。
そうしなければ、がくがくと笑う膝から、力が抜けてしまいそうだった。
近づくにつれ、陰陽人の異様さが、さらに際立つ。
――なんて大きさだ。
こんな化け物が、現存しているなんて・・・・・・
「おお! おお! 可愛やの、可愛やの」
限界が無いのではないかと疑われるほど、どこまでも吊り上っていく陰陽人の口端。
「奥寺・・・・・・これはどういうことだよ? なんでこんな事になった!?」
「しらねぇよ! ちょっとフザケようとしただけだよ! それよりお前、携帯切ったろ!? おかげで苦労したぜ!」
「フザケるって、なんのことだ?」
「お前をからかってやろうと思ったんだよ! 今鳴った携帯の持ち主と一緒にな! 二人でお前を驚かそうと思ってたんだよ! お前と別れた後合流する予定だったんだ。
そこへ向かう途中だった、聞こえてきたんだよ「どこやー」って、オレはてっきり祥子が悪フザケしてるんだと思って応えたさ! 「ここやー」ってな。そしたらどうだよ!? 現れたのはホンモノだったんだ! 見ろよコイツ、笑っちまうだろ? まさかホントにいるなんてな! ヒィヤハハハ」
なるほど奥寺のイタズラに関する、あてずっぽうの僕の妄想は、ほぼ当たっていたのだ。
一番当たって欲しくなかった“仕掛け人”が、本当の「陰陽人」だということについてさえも、ものの見事に、だ。
「ぐぇ」という、ひき潰されたカエルに似た声とともに、奥寺の哄笑は突然に打ち切られた。
地面に無造作に奥寺を投げ捨てた陰陽人が、いつのまにか僕の目の前に立っていた。
饐えたような黴臭い陰陽人の臭いが、強烈に僕の鼻腔を貫く。
その着物の綻びすら見つけられる程の距離。
「可愛やの、わがやや子はの。さぁ来たれ。共に里に帰るべし・・・・・・ホホ・・・・・・ホホホホ!」
ぐっと近付けられた顔の恐ろしさに、気を失ってしまいそうになった。
ピクピクと細かく痙攣する瞼。
血走った目玉の中心にある、奈落のような瞳。
ふっと遠くなりかけた意識を、慌てて捕まえると同時に後悔した。
そのまま気絶していたほうが、どんなにか楽だったろうと。
陰陽人は、今にも掴みかからんばかりに手を広げ、ゆっくりと隅々まで値踏みするように、僕の周りを回り始めた。
このままでは、自らが“神隠し”を経験する羽目になる・・・・・・
何処かに連れさらわれた後、どんな目に遭わされるのか分からない。
すぐに殺されてしまうことはないのかもしれないが、その前に、とても正気を保っていられる自信はなかった。
かといって、この絶望的とも思える状況を打開できそうな名案も浮かんではこない。
僕は、ただただ祈るように、中空に浮かぶ満月を仰いだ。
―――薄い雲の帷子の向こう、濁天にぼうと浮かぶ、真円の月。
おそらくこれが、僕が境木秀明として見る、最後の光景。
どうしてこんなことになった?