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陰陽峠  作者: 六十一
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第4話

 幾重にも続く小さな鳥居。

 命を誇示するように叫ぶ蝉達の声。青々と生い茂った草木。どこまでも突き抜けるような青空。

 そして、あまりにも長い「外具神社」の上社への階段。

 へたばって鳥居の一つにもたれかかり、座り込んだ僕の汗まみれの顔の前に、唐突に差し出された、四つ折の、小さな白いハンカチ。

 驚いて見上げると、よく日焼けした女の子が、深青学園高等部の制服を着て立っていた。

 ――早朝の、他に人影の見えぬ上社への階段の途中で、僕は、その少女と出会った。

 容赦なく照りつける真夏の太陽の逆光で、顔は良くわからなかったが、口元にこぼれる白い歯に光が反射して、気付く。

 ――少女は笑っているのだ。

 全て伺い知れずともそれとわかる、あまりに警戒心のない明け透けな笑顔。

 「どうぞ」と、一言だけ彼女が言った。

 弾んだ声。夏にぴったりだと、漠然と思ったのを覚えている。

 僕は声も出せず、吸い寄せられるようにハンカチを受け取った。

 少女の口元に、無邪気に浮かぶ三日月。

 それ以上少女は何も言わず、自分の額に浮かんだ汗は、手の甲でぐいと拭い去り、

 体重を感じさせない軽快な足取りで、跳ねるように階段を駆け下りていった。

 ぼどなく、その姿は石段の向こうに見えなくなった。

 僕はハンカチを受け取った姿勢のまま、呆けたように、彼女の見えなくなったあたりを、しばらく見つめていた。

 村の伝承の中にある「オツキサマ」という神格化された猫は、同じく伝承に残る「ノウデンサン」のように、時に人の姿を借りて、村人の前に姿を現したという。

 ――きっとそれは、今、僕の見た少女のようだったに違いない。

 そう考えると、なんだか嬉しかった。

 ありがたく借りたハンカチは、いつか返そうと思いつつ、未だその機会を得られずにいる。

 何度も洗濯を繰り返すうち、アイロンをかけても端がよれて皺になるようになってしまったそれは、とても返せた代物ではないけれど・・・・・・それでも僕は、それを今も、持ち歩いている。

 ――ポンポン、と軽く左胸を指先で叩く。

 その指先に感じる、胸ポケットの内側の、薄い布の感触。

 そして小さく叩く度に、ポケットの中から微かに立ち上る、甘く、馥郁たる香のような香り。

 不思議なことにその香りは、何度洗濯をしても、落ちることはなかった。

 つい癖になってしまった、気を落ち着けるオマジナイ。

 まったく・・・・・・子供じみていると自分でも思う。


 突発的に湧き上がった大声を出したいという衝動は、不思議ともう無くなっていた。

 先程から僕を浮き足立たせていた得体の知れない恐怖も、いつの間にか大分やわらいでいる。

 残ったのは、一筋の光もない暗闇の中に立ち尽くす僕と、同じくらい頼りない決意。

 ――とにかく、歩き続ける。

 そして、この山を下りる。

 一瞬、携帯の電源を入れなおして、警察にでも連絡してみようかとも考えた。

 だが事情を説明した僕に、警察はこう言うだろう。

 「了解しました。これから救助に向かいますので、その場を動かず、待機していてください」

 ――そんなことが出来るものか。

 しかし山の中を進むというのなら、光は絶対に必要だ。

 奥寺からの着信は拒否にして、携帯の灯りをライト代わりに使うしかないだろうか?

 しかし、悔しいながらも、僕は自分の決意の脆さを知っている。

 携帯に電源を入れれば、必ずどこかに電話を掛けたくなるだろう。

 そして口を開いて言葉を話す。

 ――陰陽人は、本当に呼びかけに反応した者だけを攫うのだろうか?

 “声”さえ聞き取れれば、そうでなくても居場所を知ることが出来るのでは?

 僕は・・・・・・臆病なのだ。

 ならばその臆病を徹底してやる。

 携帯を灯りには使わない。

 下山するまでは、口を開くことも、もうしない。

 他に役立つ物が何かないか、荷物の中を確かめることにした。

 手探りだけで、バックパックの中をかき回す。

 ・・・・・・悲しくなるほど何もない。

 本当に筆記用具とノートだけだ。

 携帯電話を忘れていた程なのだから、他になにかあるのではないかと思ったのだが・・・・・・

 その時指先に、チャラリと鉄の感触があった。

 家やロッカーの鍵等をまとめた鍵束だ。

 ――これだ!

 僕はその鍵束を取り落としたりしないよう、慎重にパックから外へ出す。

 確か・・・・・・この束の中に・・・・・・あった!

 カチリというスイッチの音と共に、手元に小さな光の玉が浮かぶ。

 ――キーライト。

 携帯の灯りよりは随分頼りないが、真っ暗闇より全然良い。

 良かった・・・・・・手探りでも山道を進む覚悟はしていたが、ほとんどそれは自殺行為だ。

 キーライトの明かりは、立って足元まで照らすには不十分だが、中腰になって進めばなんとかなりそうだった。

 山を降りる、という決意が鈍らないうちに、僕は歩き始めた。

 少しも先の見えない、暗闇の洞穴に向かって。

 

 ・・・・・・この峠は、おかしい。

 不安からくるパニック。昼に聞いた話からくる自己暗示。

 僕がおかしいと感じることの理由は、いくらでも見つけられる。

 ――だが、そんな物を超越した“何か”が、確かにこの峠にはある気がする。

 実際にこの峠に入ったものにしか、分からない“何か”。

 それは今、微かに吹く風の中にも、足元に積み重なる落ち葉の隙間にも、ひっそりと、しかしその内に獰猛な凶暴さを隠して、存在している。

 地元の村人達が、この山を特別視する理由が、今なら分かる気がした。

 あえて言葉にするならば。

 それは――害意だ。

 ここには、この「陰陽峠」には、侵入者に対する害意を感じる。

 明確な“山”という境界の内側に入ったものに対して向けられる、害意。

 山に侵入するな、という警告を無視したものに、実際にどんな事が起きたのか、僕は伝承によって知っている。

 “それ”が、実際にどのようにして成されるのかは、分からない。

 しかし“それ”を執行するものの名前を、僕は知っている。

 ――「陰陽人」

 それが害意の別名だ。

 伝承は幾度も、幾世代にも渡って、連綿と口伝いに語り継がれ、警告を続けてきた。

 ――曰く『「陰陽峠」には何人も、立ち入るべからず』と。

 僕達の時代、その言い伝えは黴臭い文献の中にのみ見られる、過去の幻想となった。

 警告は、その地に根付いて生きる者達にしか届かなくなり、その者達の間ですら、悪童を戒める以上の力を失ってしまったかにも見える。

 では果たして「陰陽峠」そのものはどうなったのだろう?

 その伝承と同じように、山はかつての“神隠しの山”としての役割を終え、人間に侵犯され、蹂躙されるだけの、ただの土の盛り上がった地形と成り果ててしまったのだろうか?

 その答えを、僕はわが身を持って思い知らされている。

 厳然とそこにある事象として、たかが“山”だと慢心した、僕のような人間に鉄槌を下すのに十分な拳をもって。

 ――“山”は、未だ死せず。

 立ち入る者は神隠しに遭うという、閉ざされた山「陰陽峠」。

 僕は今――確かにそこにいた。

 僕は一刻も早く、ここを立ち去らねばならない。

 ここは、人間の居て良い場所ではないのだから。


 足元にライトを近づける。

 赤茶けた枯葉の小山が、行く手にうねる波のように続いている。

 一歩足を踏み出せば、ズブリと膝の下あたりまで沈んだ。

 しめった落ち葉をミチミチと踏み抜く感覚は、ぬかるんだ沼地を行くのに近い。

 今自分が立っているのが、もし崖の淵だったらと想像し、足を踏み下ろすことだけにも、相当の勇気がいる。

 僕は只、左右の足を交互に繰り出すことだけに集中した。

 右足を上げたら、その着地点に次の地面があることを信じて、突きこむ。

 右足が運良く大地を探り当てたなら、今度は左足の番だ。

 怖気づき、中々地面を離れたがらない左足を無理矢理に引き剥がして、上げ、突きこむ。

 数歩足を進めるのにも、疲労感を伴う程の、緊張感に満ちた行進。

 ――僕はそれを黙々と続けた。

 山を降りる前に、僕の精神の方が持つかどうか。

 こんなことならフィールドワークをもっとこなしておくんだった。

 頭に浮かんでくる様々な後悔に萎えかける心を叱咤しながら、僕は進んだ。

 右・・・・・・左・・・・・・右・・・・・・左・・・・・・

 ・・・・・・もうどれぐらい進んだだろうか?

 ライトの明かりの中に、息も白く霞むほど冷え込んできているというのに、額からは汗が、絶え間なく滴り落ちてくる。

 ぜぇぜぇと肩を上下させる僕の体力は、もう限界に近づいていた。

 終わりの見えない行進。

 行く道も定かでない不安。

 吹くたびに体温を奪っていく木枯らし。

 それらが渾然一体となって、僕の全身を蝕んでいた。

 右・・・・・・左・・・・・・右・・・・・・左・・・・・・

 脳がジーンと痺れたようになってくる。

 足元を照らすキーライトの光が、弱く、小さくなってきているのは、僕の視力が疲労で鈍ってきているからなのか。

 もう、そんなことすらきちんと判断できないところまで、僕は追い詰められていた。

 ――変化は突然に現れた。

 目の前にかけられたベールを、一瞬で剥ぎ取られたような錯覚。

 いつのまにか僕は、木々の疎らになった、直径30メートルほどの円形の広場に出ていた。

 左手の密度の薄くなった木々の間から、ぼんやりと瞬くいくつかの灯りが見えた。

 僕はそれがもっと良く見えるところまで近寄り、木々の間から、眼下に広がる幾つもの光点を、眺める。

 実感が沸いてくるまでに、しばらく時間がかかった。

 ・・・・・・麓だ!

 目を凝らせば環状線の駅が、そのすぐ脇には女子寮の高層ビル群が、天空に突き抜けた塔のように聳え立っているのが見える。

 教師に居眠りをたたき起こされた学生のように、心臓がドクンと大きく跳ねる。

 ぼやけていた視界のフォーカスが、段々と正常に近づくにつれ、胸の内から、安堵と喜びが湧き上がってきた。

 やはり自分のとった行動は間違いではなかった。

 歩き続けたことは無駄ではなかったのだ。

 尽きかけていた筈の力が、再び体に蘇ってくる。

 ――いける! もう麓はすぐそこだ。

 見上げれば中空には満月が、煌々と光を放って辺りを照らし出している。

 それは僕の立つこの広場にも降り注ぎ、行く手に、確かにそれと分かる麓への山道を照らし出していた。

 薄暗いキーライトの光に頼ることも、もう必要ない。

 足元を確認するにも十分な光量が、すぐ先に続く山道には満ち満ちている。

 そこを下りて行けば、30分もせずに麓に辿り着くだろう。

 そこからまた駅までは少しあるが、この山さえ降りてしまえば、あとはもうどうとでもなる。

 もどかしくも山道に駆け寄ろうとした僕は、慌てて足を止めた。

 ――今なにか聞こえなかったか?

 耳を澄ます。

 ・・・・・・ィィィィィィィィ

 確かに聞こえる。風の音とは違う、もっと甲高いものだ。

 イイイイイイィィィィィィ・・・・・・

 その音は、どんどん僕のいる広場の方へと向かってくる。

 山の上方から、僕の通ってきた道から、大きく、はっきりと聞こえてきている。

 ヒィィイイイィィイイヤァァァ・・・・・・

 ――これは・・・・・・悲鳴だ! 人間の、女の悲鳴だ!

 僕は咄嗟に広場の端の方にある大木の陰に身を潜め、しゃがみ込んで様子を伺った。

 程なくその悲鳴の主は、月明かりに照らし出された広場に、殆ど四つん這いの格好でまろびでてきた。

 恐怖に歪んだ顔を、見開いた両目から溢れ出る涙でぐしゃぐしゃにしながら現れたのは、僕の知らない女性だった。

 彼女は、口の角に泡を立てたまま意味不明の甲高い叫び声を上げ、広場の中央を転がるように横切っていく。

 山道であちこちぶつけたらしいその体は、所々今も血が流れ、服は上下とも襤褸屑のようになってしまっている。

 どうやら僕と同年輩のようだが、常軌を逸した崩れきったその表情からは、判然としなかった。

 ――僕と奥寺の他に、この峠に人間がいたのだ。

 影に隠れて様子を伺う僕に気付く気配もなく、その女性は何度も何度も、自分の今来た方向を振り返りながら、僕のすぐ目の前、数メートルのところにある茂みの中に飛び込んだ。

 此処から、うずくまって頭を抱えている女性の姿が、はっきりと見える。

 その首から伸びた紐の先にぶら下がっているのは・・・・・・携帯電話だ。

 僕が前に考えた妄想に等しいこじつけは、あながちはずれでもなかったのかもしれない。

 だが――僕の考えが正しいとするなら、この女性は“仕掛け人”ということになる。

 しかし、僕を驚かせる役割のはずの仕掛け人が、なぜこうも恐怖し、怯えきっているのか?

 全く状況が掴めない。

 僕は、この異常な状況を見極めるため、しばらくは様子を伺うことにした。

 先程の女の行動を落ち着いて考えてみれば、彼女の他にも何者かが存在し、その存在こそが、彼女を此処までの恐慌に陥れていると考えることが自然だ。

 それは一体なんなのだろう?

 順当に考えれば奥寺、ということになるのだろうが。

 となるとこの女性は、僕の妄想の中の“仕掛け人”などではなく、僕と同じように、奥寺に騙されている“犠牲者”なのだろうか?

 麓へ続く山道はすぐそこなのに・・・もどかしさに胸を掻き毟りたくなる。

 でも――今は我慢する時だ。

 彼女の怯え方が演技で無い限り、彼女をここまで憔悴させているなにものかがいるのだ。

 もう大丈夫だ、と一言声をかけた方がいいのだろうが、その正体を見極めない内に、軽はずみな行動をとることは躊躇われた。

 完全に安全を確認してからゆっくりと下山するのが、最も確実な方法だと思う。

 そうしなければ、今までこの山道を進んできた苦労が水の泡になってしまうかもしれない。

 程なくして――僕の、そして彼女の出てきた山道から、また別の音が聞こえてくるのがわかった。

 うずくまったままの女性もそれに気付いたのか、両肩をびくりと振るわせたのが見える。

 彼女は全身をさらに小さく丸めて、まるで胎児のような格好になってしまった。

 両親指を除く指を全て口の中に入れ、がくがくと震える上下の歯の間に突っ込んでいる。

 彼女は、目を閉じることもせず、怯えた焦点の合わぬ視線をでたらめに彷徨わせていた。

 しかし・・・・・・きっと彼女には何も見えていないだろう。

 今自分がどんな状態にあるのかということも、分からないに違いない。

 音はやはりこちらに向かって大きくなってきている。

 これは・・・・・・人の声か・・・・・・

 節のついた、なにかの歌のようだ。


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