第3話
その可能性を必死に考えた。理論的に説明さえつけば、落ち着くことができる。
僕はとにかく、自分の納得の行く答えが欲しかった。こじつけだろうがなんだろうが構わない、とにかく今の僕の心の動揺を、少しでも軽くしてくれるのならば。
その時僕の中で、なにかが閃いた。
なるほど、そういう事だったのか。
きっとこれは全て仕組まれたことだったのだ。
簡単な事だった。
奥寺は最初から、僕を引っ掛けようとしていたのだから。
――筋書きはこうだ。
奥寺は比較的小心者な僕を引っ掛けるために、ちょっとしたイタズラを思いつく。
それは今、僕と共同で論文を書いている「陰陽人」に関係することだ。
「水無瀬万見聞」は水無瀬村の伝承を集めた本として、一部では有名なものである。
僕と同じく民族学を専攻する奥寺にとっても、馴染みの書物だったに違いない。
――その中の「陰陽人」に関する一説を、奥寺は思い出し、それをイタズラに役立てようとしたのだ。
その話とは、二人の村人が山中で「陰陽人」の呼びかけを聞き、それに応えた村人が、失踪してしまうという内容のものだが、
奥寺はこれをなぞろうとしたのだろう。
まず、僕達の取材に一人、僕には内緒で、別の人間を同行させる。
そして、僕ら二人が前を歩くのを、距離を空け、僕に気付かれないように、ずっとついてきてもらう。
その人物は、きっと暇を持余した、奥寺の友人の女子学生かなにかだろう。
僕と余り親しくはないか、知らない人間。
陰陽峠までの道中、僕が不意に後ろを振り返ったとして、その人物が視界に入っても、意識に残らない程度の、赤の他人がいい。
奥寺の大学での交友関係は、その明るくノリの良い性格も手伝って、結構な広さだ。
僕は、とてもその全てを把握しているとは言えない。
『僕の見知らぬ』という条件に該当する人物は、きっ山ほどいたことだろう。
その中から、ひどく悪乗りする性格の一人を見つけ出し、地図、コンパス、ライト等、峠越えに必要な道具を持たせれば、準備は終わり。
僕らが取材を終え、暇を持余すのを見越して、出発の時間を早朝に設定する。
――今思えば出発の時間を決めたのは奥寺だった。なんでも「念入りに現地調査をしたい。」という理由で早朝に出ることになったのだが、普段はそれほど学業自体には熱心に見えなかった奥寺の話としては、思いかえせばあやしいものだ。
それからなんとか僕を説得して実際に「陰陽峠」に引き入れる。
最初は気を張って緊張している僕が油断するのを待って、文字通り「峠を越えて」から、奥寺は脇道へ退場。
秘密の同行者も、それを確認して、脇道にそれる。
二人は脇道を少し行って、僕がついてこないことを確認すると合流。
辺りに暗闇が満ち、僕が不安感に苛まれるのをまって、いよいよイタズラ電話を掛けた。
――きっと、そういうことなのだ。
それ以外に合理的な解釈は考えつかない。
そういえば、麓に住む老人がただ一人という「陰陽峠」へ向かうため、村を通り過ぎる途中、僕達に注がれる、奇異の視線を感じたように思ったが、それは変わり者を見る村人のものではなく、奥寺にそそのかされた「仕掛け人」のそれだったようにも思えてくる。
そうだ、そうに違いない。
きっと性悪の奥寺と「仕掛け人」は、電話の向こうの、遠い闇の中で、堪えきれずに笑いを漏らしていることだろう。
いや、案外僕が見える程の近くにいて、笑いを堪えるのに必死になっているのかも。
そう考えると、急激に腹が立ってきた。
僕の性格を知っている奥寺なら可能なことだろう。
だが、相手を心配する気持ちで、僕の足取りが鈍ることまで計算に入れていたのだとしたら、これは非常に悪質だ。
もしやどこかにライトの光が見えないかと、窮屈な携帯の灯り以外は完全に暗闇に没してしまった辺りを、透かし見るように目を細めて見渡す。
――周りにそれらしき光はなく、音も聞こえない。
あるのはただ、落ち葉のこすれるガサガサという音と、山道を吹きぬける風の、口笛のような風きり音だけだ。
それでもなにか聞こえないかと更に神経を研ぎ澄まし・・・・・・
ほんの僅かな音も聞き逃すまいと・・・・・・両耳に全神経を集中させる。
――ぷるるるるる!
なんてタイミングだ!?
僕の携帯電話が、再び着信を告げた。
やはりどこか、僕の姿が見える所から掛けているのか?
僕は再び周囲をぐるりと見渡す。
どこに居る!?
ぷるるるるる――耳障りなベル。
僕は着信音を消音し、この闇のどこかから、僕を嘲り笑っているだろう奥寺と、おそらくはもう一人を探し続けた。
樹齢何年経っているのか、見当もつかないほど古い巨木の裏。
こんもりと小山のように高く生い茂る草むらの影。
およそ人が隠れられそうな所は、片っ端から携帯の灯りを向けて確認していく・・・・・・
十分な光量はないが、近づけばわかるはずだ。
自分の周囲10メートル程を、くまなく探し回った。
その間も携帯の液晶ランプは、着信を告げる点滅をつづけている。
それはまるで、連続で焚かれるカメラのフラッシュの中で見るように、小刻みに周囲を闇から浮かび上がらせる。
暗闇に慣れた目を、容赦なく焼きながら続くストップモーションの連続に、脳が混乱し、平衡感覚を失いそうだ。
――その中に一瞬、女の顔が見えた気がした。
!?・・・・・・今のは・・・・・・何だ?
一瞬視界を掠めるように見えた、あの顔は?
危険を感じ、反射的に、そのおかしなモノが見えた場所にライトを当てた。
・・・・・・なにもない。そのことに逆にほっとする。しかし、確かになにか見えたと思ったのだが・・・・・・
草むらか何かを、人の顔と錯覚したのだろうか?
心音が聞こえそうなほどに速まっていく心臓の鼓動。
気がつけば電話はすでに切れていた。
全身の筋肉が緊張して強張っている。
胃がぎゅっと音を立てるように収縮し、鋭い痛みが走った。
じきに痛みは溶けるように滲んで、じんわりと腹全体に染み渡っていく。
今あった電話の着信を確認する。やはり――奥寺だ。
僕の胸に複雑な思いが湧き上がってくる。
ちゃんと電話に出て、奥寺に、そして底意地悪くもこのイタズラに加担した“仕掛け人”に、「趣味の悪いイタズラはやめろ!」と怒鳴り散らしたほうが良かっただろうか?
それともイタズラなどお見通しだと「ここやー」と、こちらも作り声で言い返してやれば良かったか?
でも電話に出て、もしあの声がまた聞こえたとしたら、僕は冷静に対処できるだろうか・・・・・・
僕には・・・・・・出来ない気がする。
――きっと僕には、耐えられない。
あの、人間の厭らしくも醜い悪意を総ざらいして煮詰めた、穢れた蜜のようにねっとりと絡みつく声を聞いてしまったら。
僕は、暗闇の中なにも言い返せずに、その場で震えるだけだろう。
・・・・・・ではどうする?
今のように、着信を見なかったことにしてやり過ごすのか?
御伽噺のような過去の伝承に怯えて――奥寺のイタズラに屈するのか?
その選択の機会は、きっとすぐにやってくる。
今にも、稲光のように液晶が瞬き、僕にそれを迫るだろう。
そうなれば僕は、通話ボタンを押し、馬鹿正直にも音声を出力するスピーカーの穴と、自分の耳の穴をつなぐしかない。
そこから聞こえてくる“音”がなんであれ、僕は、それに対して何等かのリアクションを取る事になる。
なぜなら僕は、おそらく携帯から聞こえてくるだろう“呼び声”を、奥寺と誰かの共謀したイタズラだと、想定したからだ。
だから僕は――「陰陽峠」で「呼び声」に「応える」ことになるのだ。
・・・・・・もういい、認めよう、僕は今、怖くて仕方が無い。
――僕は、あの伝承を、事実ではないのかと思い始めている。
無論あの伝承の全てが、事実に基づくものだと思っているわけではない。
しかし、この「陰陽峠」の異様な雰囲気、実際に質量があるのではないかと疑いたくなる程濃密な暗闇に触れて尚、わざわざ“神隠し”に遭うとされている行動をとれる程、僕は豪胆ではなかった。
僕をこんなにも怯えさせている自分自身の感覚は、およそ理論的とはいい難いものだ。
言葉にすると、馬鹿馬鹿しい程に非現実的になる。
――僕は、奥寺の携帯を通じて上げられた呼び声は、本物の「陰陽人」のものなのではないのかと、疑っている。
自分で自分を笑い飛ばしたくなるほど滑稽だ。
でも、それでもいい。
山の雰囲気に飲み込まれ、ありもしない妄想に取り付かれた臆病者と罵られようとも、今はこの、全身を痺れさせている“嫌な予感”を優先させようと思う。
これほど臆病になってしまうほどに、この峠の様相は、非現実的であるのだから。
出し抜けに携帯が、三度小刻みに明滅を始めた。
急激に鼓動を早める心臓。念のため、着信を確認する。
――間違いない。奥寺だ。
僕は、ゆっくりと電源ボタンに親指を置き、ぐっと指先に力を込めて押し込んだ。
チカチカと光を放っていた液晶は、辺りの闇に同化するように、消えた。
――辺りは完全な暗闇。
鼻をつままれても分からない、というのは、こういう闇のことをいうのだろう。
携帯の光が無くなるのを待ち受けていたかのように、一斉に暗闇は僕の全身に圧力をかけて来た。
身動きをとることが出来ない。
もう、こんな状態では、一歩も歩けそうもない。
これで、無事に山を降りることが出来たとしても、翌日からは奥寺に、僕の臆病ぶりをネタにされる日々が始まることになる。
僕は言い訳しようも無いほど完璧に、奥寺のイタズラに引っかかった臆病者として、みんなの失笑を買う。
または友の呼びかけを無視した者として、嘲られることになるのかもしれない。
悔しさが胸にこみ上げて、わけも無く大声で叫びたくなった。
もう、どうすればいいか、分からない・・・・・・
このまま、何が出てきてもおかしくない暗闇の中に立ち尽くしたまま、ただ時が過ぎ去るのを待つしかないのか?
――叫びたい。
誰もいないことは分かっている。
しかし、大声で助けを呼びたい。
こんな暗闇は耐えられない。
どうして自分は、こんな馬鹿な行動に出てしまったのだろう。
なんの準備もなく、“神隠し”の伝承が残る山中に分け入ってしまうなんて・・・・・・
後悔ばかりが湧き上がってくる。
誰か・・・・・・誰か助けてくれ・・・・・・
――その時、ふと脳裏に、この夏に訪れた、村の神社での出来事が蘇った。