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陰陽峠  作者: 六十一
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第2話

 余計な事を考えないように、ただただ、前後に足を動かすことだけに集中する。

 一人黙々と歩く山道は、驚く程静かだった。

 水無瀬市の中心部からは離れているが、峠を超えた麓から少し歩けば、学園環状線の「女子寮前駅」がある。

 ここからは見えないが、すぐ下には、山を迂回するように太い公道が走っているはずだ。

 なのに山道の両脇に生い茂る密度の高い木々が、それらの気配を遮断し、この峠を一つの別世界のように感じさせている。

 誰かの囁き声が聞こえたような気がしてそちらを振り向いた、が何も無い。

 きっと枯れ葉の擦れあう音を聞き違えたのだろう。

 単調な足音意外に物音が少ない分、神経が過敏になっているのだ。

 先程は、地面に這い蹲って、こちらを睨みつけている人間がいる、とぎょっととなったが、それもなんのことはない、薄暗い光が、ちょうどそう見える陰影をその倒木に落としていただけだった。

 昼前に老人に聞いたばかりの話のあれこれが、頭の中にこびりついていて、それが目に映るありふれた峠の光景を、神隠しの峠の得体の知れない雰囲気に作り変えているのに違いない。

 ――奥寺は、どうしただろう。

 奥寺の軽口が、なぜだか無性に聞きたくなった。

 こんなに暗くなってきて、ちゃんと追いかけてこられるのだろうか。

 いつの間にか早足になっていた足を止め、その姿が見えないかと後ろを振り向く。

 その暗さに、まず、驚いた。

 ――薄暗いなどと言うものでは、最早なくなっていた。

 山道は、数m先から完全に暗闇に沈んでしまっている。

 僕は余りの急激な変化に、しばし呆気にとられてしまった。

 通ってきた足跡が、闇から生まれた触手のように、足元に伸びている。

 そこに奥寺の姿がないことに落胆するのもそこそこに、前に向き直り、一歩を踏み出そうとして、僕は立ち尽くした。

 ――こちらの道も、見えくなっている。

 つい今しがた振り向くまでは、確かにここに、ちゃんと道があったのだ、見えていたのだ。

 それが今は、まるで進入を拒むかのような闇の壁が、眼前に立ちはだかっている。

 ――そんなハズは、ない。

 いくら冬の夕方が短いからといって、これはない。

 もう一度後ろを振り向くが、同じように道はない。

 慌てて前に向き直る、道は見えなくなっている。

 ・・・・・・おかしい、不自然過ぎる。

 こんなことは、容易に信じられる話ではない。

 突然、道が見えなくなってしまうなんて。

 なんども前後を確認してみる、が、いくら見ても、先程までのように道の先を伺うことは、出来なくなっていた。

 気がつくと僕は、暗闇に浮かぶ光の小島の上に立っていた。

 時間が経てば、潮が満ち、確実に沈んでしまう小島だ。

 何故だ、何故こんなにも日の落ちるのが早いのだ。

 時計を見ると午後5時、確かに冬なら十分に日の落ちる時間だが、先程時間を確認した時は3時過ぎだったはずだ。

 いつのまにそんなに時間が経っていたのだろう。

 同じ景色ばかりが続く山道に、時間の感覚までが狂い始めているのか。

 兎に角、先に進まなければならない。

 唐突な状況の変化に急き立てられるように数歩足を進めて、はたと立ち止まる。

 ――待てよ、今自分が向いているのは“前”なのか“後ろ”なのか。

 自分でも何度振り返ったのか覚えていなかった。

 完全に浮き足だっている自分に愕然とする。

 いままでと同じ山の中なのに、日の光が弱まることで、全く別の場所に自分が放り込まれた気になった。

 落ち着け、落ち着けと、心の中で繰り返し、トントンと左胸を叩く。

 念のため、地図とコンパスで、再び方角を確認しつつ歩き出す。

 大丈夫、間違いない。

 時間だってまだ5時だ、夕方じゃないか、十分に時間はある。

 そう自分に言い聞かせたが、完全に日が暮れてしまうまで、左程時間が残されていないことは明白だった。

 ここで道を間違えようものなら、今日の夜は、神隠しの伝承の残る山の中で野宿するはめになる。

 いくらなんでも、それは御免だ。

 白く煙る吐息で曇ったコンパスを、汗の滲んだ掌で擦る。

 只でさえ暗くて見づらいのに・・・・・・コンパスの表面を何度も擦るうち、かじかんだ手の平から、それはポトリと零れ落ちた。

 あっと思う間もなく、コンパスは厚く積もった枯れ葉の間に隠れ、見えなくなってしまった。

 冗談じゃないと、急いでしゃがみ込んで、落ちた辺りの枯れ葉を掻き分け、必死にコンパスを探した。

 こんな山の中で方角まで判らなくなってしまうなんて、本当に冗談じゃない。

 枯れ葉の山に鼻先を突っ込むようにして探し続けると、ようやくそれは見つかった。

 安堵のため息を漏らし、二度と決して落とすまいときつく握り締めた手に、鋭い痛みが走る。

 どうやら探している最中に、木の枝か何かで切ってしまったらしい。

 ぽとりぽとりと落ちる血の雫が、暗がりにやけに赤い。

 コンパスについた血糊を丁寧に上着の袖で拭って方角を確認しようとして、僕は、ああ、と目を閉じた。

 ――あろうことかコンパスの針は、エンジンのかかり始めた飛行機のプロペラのように、ゆっくりゆっくりと回転を始めていた。

 手に怪我までして探し出したというのに・・・・・・

 よく山中では地磁気でコンパスが狂うなどというが、実際に経験するのは始めてのことだった。

 なにもこんなタイミングで・・・・・・

 衝動に任せて、役立たずのガラクタと化したコンパスを投げ捨てようと手を振り上げたが、寸でのところで思いとどまる。

 僕は、それを捨てられなかった。

 自分の女々しさに胸が突き上げられて、少し泣きたくなった。

 ――山は異界だと、誰かが言った。

 今、それを実感として感じる。

 人間に幸をもたらす山は、ある一点を境に突然その様相を変化させる。

 人ならざる者の潜む、異界へと。

 例えば――夜の訪れとともに。

 すがるように天を仰いだ。

 葉の落ちた木々が重なり合う自然の格子戸が、陽光の残り火に青黒く染められた空を、水面のように揺らめかせていた。

 本当に水底に沈められたような閉塞感に圧倒され、焦燥がじりじりと内側から全身を焼く。

 ――もう方角を確認することはできない。

 今は自分が向いている方向が麓へ続く道だと信じて、前に進むことしかできなくなった。

 コンパスを探すのに梃子摺っているうちに、道は殆んど見えなくなってしまっていた。

 細心の注意を払って前進するしかない。

 今まで歩いた分で、距離は大分稼いでいるはずだ。

 方角さえ間違えなければ全く周りが見えなくなる前に、ここを出ることができるかもしれない。

 ふと思った。

 ――奥寺はどうする?

 軽く手を上げて枝道に入っていく奥寺の姿が、脳裏に浮かぶ。

 あいつはこの山の中、地図もコンパスも持たずに、どうしようもなくなっているに違いない。

 不安でしかたがないはずだ。

 そいつを置いていくのか?

 ――しかし、と思い直す。

 そもそも今こんな状況になってしまっているのは、その奥寺のせいではないのか。

 一緒に峠を進んでいれば、今頃はもうとっくに抜けているはずだ。

 自分は奥寺が別行動をとることに反対したのだ。

 取り残されることになっても、それは奥寺の自業自得ではないか。

 それに迎えにいこうとするのは現実的ではないように思える。

 仮にあの分かれ道まで戻ることができたとしても、この暗さだ、確実に見つけられる保証はどこにもない。

 更に運良く見つけられたとして、その先はどうするのだ?

 コンパスは役に立たない、灯りがなくて地図も見えないではどうしようもない。

 結局二人で野宿することになるのがオチだ。

 最も無難な選択は、このまま動かず夜を明かすことだが、それはあくまで最後の手段にしたい。

 とすれば、何とか一人で麓まで降り、救助を求めることぐらいしか無いではないか。

 だが、奥寺はもうすぐそこまで来ているのかもしれない。

 ほんの少し後戻りするだけで、案外簡単に出会うことができるのかも・・・・・・

 仮定の連続に、僕は身動きが取れなくなってしまっていた。

 どの選択も自分には選べそうも無い。

 自分の決断力の無さに打ちのめされ、力なく立ち尽くした。その時だった。

 ――ぷるるるるる!

 静まり返った山中に場違いともいえる電子音を聞いた時、安堵するよりも先に、

 僕は自分の馬鹿さ加減に心底あきれ果て、全身から力が抜けていくのを感じて、その場に崩れるように座り込んだ。

 そうだ! 電話!

 なぜそんな事に気づかなかったのか!

 気恥ずかしさに思わず自分自身への言い訳を考えながらも、背負った鞄から携帯電話を取り出す。

 日頃は煩わしくて鬱陶しいだけだったそれが、こんなにも頼もしく思えたことはなかった。

 鞄の中にはレポートのための筆記用具だけで、使えるものなど何も入っていないと、調べてみてもいなかった自分の愚かさを呪った。

 雰囲気に飲まれて、最初に思い浮かべるべきものの存在を、僕はすっかり忘れ去ってしまっていたのだ。

 携帯電話は暗闇に馴れた目を焼くほどの力強さで、液晶画面を明滅させていた。

 辺りが緑の蛍光色で満たされる。

 これがあれば、地図を見るときの灯りにも使えそうだ。

 逸る気持ちを抑えながら、着信番号を確認した。

 着信は“奥寺”となっている。

 ――あいつめ!

 胸の内に喜びとも怒りともつかない感情がこみ上げた。

 何を言ってやろうか、心配させるなと怒鳴りつけてやろうか。

 それよりも自分が困り果てていたこと、電話の存在に気づかないような間抜けだったことに気づかれないように、冷静に振舞ったほうが良いだろうか。

 奥寺のことだ、そんなことを知ったら一生のネタにされかねない。

 僕は一度深く深呼吸をしてから通話ボタンを押し、電話を耳にあてた。

 ――「どこやー?」

 唐突に聞こえてきた声に、いいたい事もなにもかも忘れて、頭の中が真っ白になり、反射的に携帯電話を投げ捨てていた。

 あまりに趣味が悪すぎる。

 電話から聞こえてきたのは、奥寺のいつもの声などではなく、しわがれた、苦しげなうめき声だった。

 足元に光る携帯電話の光を、僕はじっと見つめた。

 なんだか、すぐにそれを手に取るのが躊躇われる。

 それでもここに携帯電話を置いたままにしていくことも出来ない。

 これから絶対に必要になるものだ。

 しかし、またあの声が聞こえてきたら、と思うと、拾い上げる手の動きは緩慢になった。

 恐る恐る耳にあてて聞いてみる。

 ――電話はもう切れていた。

 ツーツーと不通音が繰り返されているだけだ。

 そこからはあの恐ろしげな声も、奥寺の笑い声も聞こえてはこない。

 今のは一体なんだったのだろうか。

 普通に考えるならば、奥寺の悪ふざけに違いない。

 かかってきたのは、確かに奥寺の携帯電話からだった。

 日が落ちてビクついているだろう僕に、奥寺がイタズラ電話をかけてきたということなのだろう。

 しかし・・・・・・奥寺にそんな余裕があるだろうか?。

 奥寺には地図もコンパスもないのだ。

 暗闇に沈む山の中でひとりぼっち、手元に光る携帯の液晶だけが、いつ消えるとも分からない灯台のような頼りなさで、しかし唯一の頼みの綱なのに。

 それなのに、こんなイタズラを考えこそすれ、実行に移すだろうか?

 自分に置き換えて考えてみたら、とても出来ないと言い切れる。

 辺りに満ちる暗闇の圧力は、僕にそんな悪ふざけをする気など、起こさせてはくれない。

 そして、耳朶にこびりついた、あのぞっとする声を思い出す。

 ――「どこやー?」

 あの声はなんだったのだろうか?

 明らかに奥寺とは違う声だった。作り声で出せるとも思えない程、その声は違っていた。

 なぜなら僕にはあの声が、確かに女性のもののように聞こえたからだ。

 しわがれた、苦しげな、甲高く、細く、震えるような声。

 胸の奥がむかつく。

 吐き気が込み上げて来る。

 ――酷い悪戯だ。

 伸ばされた語尾の中にほんの僅かだけ聞こえた気がする、微かな愉悦を含んだ喉の震え。

 僕があの電話をイタズラだと感じた理由が、そこにあることに気付いた。

 電話を掛けてきた人物は、心底、あの言葉を発する時、喜びに満ちていたように感じたのだ。

 期待感と言い換えてもいい。

 待ちに待ったご馳走を目の前に出された時。

 永らく音信普通だった親友からの手紙を、ポストの中に見つけ出したとき。

 人はあんな声を出したのではなかったろうか?

 ・・・・・・いいや、あの声はもっと「嫌な」ものだった。

 復讐すべき人間の背中が、すぐ目の前に無防備にさらされている時。

 激情に犯され、忍び込んだ押入れの隙間から、家主が何も知らず眠りにつくのを覗き見る時。

 人はあんな風に喉を震わすのではないだろうか?

 ――本当に奥寺とは別人ではないのか?

 僕には、あいつにあんな声が出せるとは思えなかった。

 別人だとしたら、何故、その人物は「奥寺の携帯電話」からそんな電話を掛けてきたのだろう?

 僕を見知らぬ山の中で、死ぬ程狼狽させるため?

 そんなことをしてその人物になんの得があるのだ。


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