第1話
陰陽峠には、恐ろしき呼ぶ声、あり。
『峠を越ゆる二人の駄賃、暗き山中にて「どこやー」といふ声を聞きたり。
呼ばはる者は見へざれど、世の常に在らざる怖き声音に、色を失ひて、一人、疾く逃げ去りたるが、いま一人の駄賃、何処とも知れぬ声の主に、戯れに「ここやー」と応へたりといへり。
陰陽峠には、陰陽人が住まうとて、峠にありて呼び声に応へるは禁忌なり。
応へたる者、皆全て、何れかへ、さらはれてしまふなりといふ。
其の駄賃もまた、峠に入りたるまま、帰り来らず。
――陰陽人は、人の声に篭もりたる心の臓の音に、居所を知るといへば・・・・・・』
逢沢祐輔 著 『水無瀬万見聞』より抜粋。
振り返って見ても、今しがた通ってきた、枯れ葉の敷きつめられた山道に、大蛇がのたくったような、自らの踏み跡が続いているだけだった。
連れの友人、奥寺陽司の姿は、どこにもない。
「ちょっと覗いていく」と、山道の枝道に奥寺が消えてから、随分時間が経っている。
冬の枯れた木々の間から覗く空は、もう、薄暗くなり始めていた。
夕闇が近づいているのだ。
天を仰ぎ見たまま、僕、境木秀明は深く溜息を吐いた。
吐息の白い薄靄が、尾を引いて吸い込まれるように山中に消えていく。
「すぐに追いつくから、お前は先に行ってろよ」という奥寺の言葉通りにしてしまったことを、僕は後悔し始めていた。
――ここは「陰陽峠」、古くからの言い伝えに残る、神隠しの山だ。
地元の村の人間は、未だにこの山道を利用することはないという。
――「昔っから村に住むモンは、絶対に通りゃあせんよ。インヤンにさらわれる、言うでな」とは、先刻話を聞いた、麓に住む古老の言だ。
僕と奥寺は、同じ地方私立大学「深青学園大学」に通う民族学専攻の学生である。
目前に最終学年を控え、卒業論文に“地元の民族伝承”を題材として選んだ僕達は、冬休みを利用して、共同の実地調査に訪れていた。
僕達の住む町「水無瀬市」は、東の境を太平洋に面し、三方を、「来明山」「今須山」「星降岳」という、水無瀬三山と呼ばれる山々に囲まれた盆地にある、人口3万人程の地方都市だ。
そしてその街の北西に聳える、水無瀬三山の内一つで最高峰の今須山を、丸ごと占拠する形で、中高大院4学部を持ち、学生、教師、学園関係者を含め、総数約1万名を数える巨大な私学校「深青学園」の校舎及び関係施設が山中に軒を並べている。
市内総人口の約30%を占める学生達に埋め尽くされた、学園都市こそが、「水無瀬市」の今ある、本当の姿だといっていい。
年々開発の進む市内中心部とは対照的に、北東の海岸に面した一部地域は、未だに旧態然とした暮らしをしている人々が生活しており、そこは学生たちの間では、単純に「村」と呼ばれていた。
その「水無瀬村」には、古えの時代より伝わる伝承が、今尚、息衝いている。
村の旧家に祭られる「オクスリサマ」と呼ばれる神像や、人の姿をとって現れるという土地神「ノウデンサン」の話。
注連縄そのものを「オンヘビサマ」として古木に祭ることや、猫を神の使いとして神格化し「オツキサマ」と呼ぶ風習。
どれも、とても興味深い。
17世紀終わりの頃から、18世紀初頭にかけての時期、測量のために訪れた幕府天文方――旧朝廷の陰陽寮の、ともいわれている――の人間がこの地に留まり、拓いたのが「水無瀬村」の始まりと言われているが、その頃からの伝承が、失われずに語り継がれている
「村」は、僕のような民族学に興味を持つものからすれば、垂涎の場所なのだ。
そんな多くの研究対象から、僕達が選んだのは、18世紀中期から関連する話の多くなる「陰陽人」の伝承だった。
その頃の水無瀬村の主要人物として、長崎の朱印船貿易で、商人「末次平蔵」のもとで、船乗りとして活躍していた「小楫の蔵男、上彦」という兄弟がいた。
彼らが帰郷した1760年頃から、水無瀬村は日本の南北を結ぶ、太平洋岸の中継港として、また、取れた魚を輸出する貿易港として発展していくことになる。
鎖国中「田沼意次」との密約により結託した兄弟は、水無瀬の港を、禁制品取引と、横領金の金庫として運用し、相当の利益を得たようだ。
人間としては余り褒められたものではないが、この二人、特に小楫改め「深見 上彦」とは、切っても切れない関係が「深青学園」にはあった。
深見の死後、遺産は故人の意思により、兄である「小楫の蔵男」と「遠野 蔵人 国定(とおの くらうど くにさだ)」という人物を管理人として、後の「深青学園」の母体である「深青塾」の設立に使われたのだ。
その、言わば学園の“創始者”とも言える人間が活躍した同時期から目撃譚の増える「陰陽人」の伝承は、なにかこの学園自体との、因縁めいたものを感じさせ、僕を強烈に引き付けた。
今までの研究発表から「陰陽人」は、おそらく船に乗って水無瀬村を訪れ、なんらかの理由で「陰陽峠」に居ついた“西洋人”ではないか、という説が有力である。
「陰陽峠」に現れる陰陽人には、概して伝えられる特徴がある。
まずは大きな体躯。
これが一番の特徴で、伝承に出てくる陰陽人の多くは、通常の人間――この場合、当時の村人のことだ――よりも、身長が随分と大きい。
中には例外的に、村人と同じ位の身長の者も登場するが、大抵は頭一つ以上は違うようだ。
今でこそ、体格的に西洋人に比べ、見劣りすることも少なくなってきたが、当時の日本においては、西洋人の体躯は、まるで別の生き物であるかのように、大きく見えたことだろう。
次に髪や目の色、顔の作りなど。
これは、話によってまちまちではあるが、幾つかの話には金髪、碧眼と思われる陰陽人が出てくる。
彫りの深い、西洋人的な風貌を思わせる者が「陰陽人」には多い。
もちろん東洋人的風貌を持つ「陰陽人」も存在するが、それらは「陰陽峠」に入り、一度神隠しに遭った後、彼ら「陰陽人」の側に与した形――例えば陰陽人のしもべ、や、妻、という立場である――で現れる、“元水無瀬村村民”の場合が殆どである。
その場合面白いのは、“元村人”であったところの「陰陽人」も、大きな体を持つ人間として変化させられ、描写されていることが多いことだ。
“神隠し”にあって再び現れると、急に背が伸びているというのは、なんだか変な話だが、おそらくこれは、一度“神隠し”に遭い、戻ってきたということを、視覚的に文章で表現しようとしたものなのではないかと思われる。
つまり“神隠し”に遭った人間は、もう村人側の人間ではなく、あちら側である「陰陽人」の世界を体験した人間として、明確に区別されていた、ということではないだろうか。
このあたりは『黄泉辺喰い』をしてしまった、日本の創造神「イザナミ」を連想させる。
イザナミは一度死に、黄泉の食べ物を食べたことで、夫である「イザナギ」が冥府に迎えに来た時には、現世に戻ることが容易では無くなっていた。
これと同じように、一度神隠しにあったものは、正常な状態で村に復帰することができないということを、伝承は伝えたかったのだろう。
どれだけ「陰陽峠」や、そこに住む「陰陽人」が、当時の村人達から恐れられ、忌避されていたかが窺える。
このように言い伝えられる幾つかの伝承を総合して見て見ると、山に立ち入るものをさらうという「陰陽人」には、西洋人のそれと思わせる特徴が、多数見受けられるのだ。
実のところ僕も“「陰陽人」=「西洋人」説”で決まりではないかと思っているのだが、それはそれとして、もし「陰陽人」の正体が渡海してきた西洋人であるならば、その頃の村人と、彼らの関わり方はどんなものだったのだろう?
なぜ彼ら「陰陽人」は、山の中で暮らさなければならなかったのか?
僕の興味の大半は、そこにあった。
村人は、かれら「陰陽人」を恐怖していた。それは、残された数々の文献、口伝から窺い知ることができる。
では、間違っても平和的とは言えない、両者の関係の背後にあったものは、一体なんなのだろう?
そうして僕の卒業論文は“18世紀「水無瀬村」における「陰陽人」伝承”というテーマに定まった。
同じ民族学専攻で気の合う友人である奥寺が、その研究テーマに共感し、共同調査となったわけなのだが・・・・・・
今須山の麓にある「深青学園前駅」から「学園環状線」という私鉄鈍行電車で、最寄の「主ノ浜駅」で下車すると、その先はもう「村」である。
――広がる長閑な田園風景。
道標のように間隔を空けて立つ木造平屋建ての家屋は、どれも古いながらも確りとしていて、長年の風雨に耐え続けたその姿は、古臭さよりも、なにか一種の力強さのようなものを感じさせる。
水無瀬を南北に分断する河川「水無瀬川」の支流である「揺篭女川」の畔に建つ水車小屋、遠く北に聳える「来明山」の中腹にポツンと小さく、篝火のように赤く浮かぶ「外具神社」の大鳥居。
東の「主ノ浜」の浜辺を北上すれば、「竹縷々(たけるる)」という小さな砂丘に出る。
村には、悠久の昔から変わらぬ今が、続いている。
僕らが生まれる遥か昔からなにも変わらなぬ風景の中を、ただ、進んだ。
僕達の目的地は、駅から北西に、左手に「若月峠」を望みながら進み、徒歩で一、二時間程のところにあった。
晩秋の風は冷たく、峠から吹き降ろす風が体を舐る度に、ぶるりと小さく体が震える。
それでも空は晴れ渡り、天気は良好だ。澄んだ空気、穏やかな雰囲気。
日の当たる場所は暖かく、絶好の取材日和だった。
ぼんやりと辺りの景色を眺めながら歩く。
山の緑はすでに紅葉へと移り変わっており、自然の原色の、あまりの鮮やかさにはっとなる。
目を焼くような作られた色彩の中で暮らす僕にとって、それらは新鮮な驚きに満ちていた。
無論この村を訪れたのは、初めての経験ではない。
最近では今年の夏にも、散策と研究を兼ねて来てはいたのだ。
しかし村は、季節ごとに全く違った姿を見せた。
熱心な歴史考古学や、民族、宗教学の学生、教師の中には、村の魅力にどっぷりと心酔し、最早村人のような生活を送っているものもいるそうだ。
それも分かる気がした。
村の時間は、常にゆっくりと流れている。悠久の昔から続く、生命のテンポで。
こうして歩いていると、あまりの長閑さに、あくせくとした都市部の暮らしが、なにか遠い夢のような錯覚を覚える。
――いや、この「村」こそが、薄れ、消えてゆく、夢の姿なのではないかとも思われた。
「陰陽峠」の麓に住む、最も「陰陽人」の伝承に詳しいという老人から、神隠しの伝承やら、いつ誰某が実際に神隠しにあったやらと、いくつかの話を聞き終えたのは昼前の事だった。
現地の人間から、実際に伝わる生の話を聞く。
本来この場所を訪れた目的はそれだけで、その目的をあっさりと果たしてしまった僕らは、時間を持て余してしまっていた。
老人の話はどれも聞いたことのあるような話ばかりで、「陰陽人」の真実に近づく新たな発見は無く、僕は内心がっかりとしていた。
そこへ奥寺が、実際に峠を通ってみよう、と言い出したのである。
もともとの予定にはなかったが、地図での距離は15kmそこそこと短い。
日暮れ前には十分に抜けられる、と僕らは踏んだ。
つい今しがた神隠しの話を聞いたばかりで、あまり良い気持ちはしなかったが、「実際に目で確かめなければ論文にリアリティはない、せっかく村に実地調査に来たというのに手ぶらで帰るのか」と主張する奥寺に説き伏せられる形で、僕はしぶしぶそれを承諾した。
その時は、確かにそれも一理ある、と思えたのだ。
しかし――足首の上まで埋まる程つもった落ち葉を辺りに蹴り散らし、苦々しい思いをぶつけながら、峠を進む。
一枚一枚では無いにも等しいと思える重さの葉が、こんなにも執拗に足元に絡んで、歩みを鈍らせるものだとは知らなかった。
それでも、峠の中頃を過ぎる頃までは、順調といってよかったのだ。
奥寺が、あんな気まぐれさえ起こさなければ・・・・・・
峠に入ったばかりの頃は、足場が悪いのに加え、土地勘が無い場所での行軍に、いささか緊張気味だった。
しかし、それにも徐々に慣れ、時折開けた場所から、向こう側の麓が窺えるようになると、僕達の気分は一気に軽くなった。
そんな時、奥寺がふと見つけた枝道に入っていきたいと言い出したのだ。
何故かと問うと奥寺は「人影が見えたような気がして」とおどけるように言った。
また奥寺の悪ふざけが始まったと、さっさと先に進むよう促したのだが、奥寺は枝道に入っていくのだと、頑として聞かない。
只でさえ初めての場所、しかもそれ程の標高はないとはいえ、立派な山中だ。
いかに麓が近いからといって、下手な行動は控えた方がいいのではないかと諭したのだが、今度は「お前はあの言い伝えが怖いのだろう?」などと、にやけ顔で言われたものだから、少しかちんときた。
奥寺は、いつもは気さくでいい奴なのだが、すぐに人をからかうところがある。
じゃあ好きにしろとばかりに、呆れ、少し腹を立ててもいた僕は、奥寺とそこで別れたのだ。
すぐに追いつくと言っていた奥寺だったが、それから一向に姿を現さなかった。
時間を確認すると、別れてからもう、ゆうに二時間は経っている。
奥寺は興味を覚えた物にいちいち「引っかかる」という、研究者としては良いが、時に厄介な性癖をもっているから、大方道端に埋もれた道祖神でも見つけて、時間を忘れてそれをこねくり回しているとか、そんなところだろうとは思う。
しかし、奥寺は地図もコンパスも持っていないはずだ。
それらは僕が念のためと用意した1セットのみで、今、僕の手元にある。
暗くなれば見通しも悪くなり、更に迷い易くなるだろう。
いくらほとんど一本道の峠とはいえ、地図無しでは、つらいのではないだろうか?
足元にはっきりとした通り道が残っているから、僕に追いつくことは容易だろうが、それも視界が通っているからこそだ。
慣れない山道に足をとられ、怪我をしないとも限らない。
自分でも、大の男に対して、気のまわし過ぎかとは思う。
だが、いわゆる心配性のきらいのある僕は、奥寺のことを案じると、どうしても歩みが鈍った。
自然、道行きは、どんどん遅れていくことになってしまったのだ。
麓に近づき開けかけていた山道は、再び高い木々の生い茂る中に、うねうねと曲がりくねりながら伸び入り、辺りは一層暗さを増した。
もうすでに、夜の空気の匂いがしてきている。
それにつれ、木々のざわめきや、野鳥の鳴き声が、どこか空恐ろしいものに思えてくる。
つい先程まであった、先に進んでいるという感覚が、見通しの利かない視界に、実感を伴わなくなっていた。
天蓋のように頭上に覆いかぶさる、背の高い木々が創り出す闇の密度は、どんどんと濃くなり、僕の不安をかきたてていく。
――不気味な雰囲気。
一度そう考えてしまうと、頭の中に、ありもしない疑念が、次々に浮かび上がってくる。
自分は峠を越えるどころか、どんどん山の奥へと分け入ってしまっているのではないか。
実は、奥寺が入っていった枝道こそが本道で、間違った脇道に逸れてしまったのは、自分の方なのではないか。
そう考えると少しぞっとした。
立ち止まり、左胸の辺りをトントンと軽く指先で叩く。
最近癖になってきた“オマジナイ”だ。
こうすると、不思議と気持ちが楽になってくる。
不安な気持ちを落ち着かせるため、地図とコンパスで、麓の方角を確認することにした。
地図を検分する間、山頂から吹き降ろす風が枯れ葉を巻き上げる度、それらが擦れあってガサガサと音を立てるのが、やけに気になった。
現在地を確認するのは、慎重を期す作業だ。
雑音雑念を、極力、頭から締め出す。
大丈夫、この道で間違いないはずだ。
不安をかき消すように一度頭を振って、僕は前に向き直った。