プロローグ 風になって去りぬ
クチナシが香り、紫陽花が慎ましやかに咲き誇る水無月――。
五日ぶりに晴れ間が覗いた空の青は深く、どこまでも澄んでいて、ボクの目には眩しかった。
窓を開けて欲しい。窓硝子越しにではなく、直接に空の青を目に映したい。そしてできれば、空調機の風ではない、自然界の風を肌に感じたい。
心の底から湧き起こった、ボクの、たぶん今生の最後になるであろう、ささやかな願い。
口に出しさえすれば、すぐにでも叶えられるだろう。
ベッドの傍にいる、母なり、担当医師なり、看護師さんなりが動いてくれるはず。
努力はした。
自分の意思を伝えようと試みた。
けれど、うまくはいかなかった。
ボクの身体にはもう、唇を動かして言葉を創る、その程度の所作を行う力すら残っていなかった。
ただ、呻き声にもならない吐息が小さく漏れただけだった。
残念だった。
本当に残念だった。
なんてポンコツな身体なのかと、自らを嗤いたくもなった。
清潔なだけの無機質な個室には母の、涙混じりの声が途切れとぎれに響いている。
「例のアート・コンテストで、蒼の作品が大賞を獲ったって、昨晩、主催者側から連絡が入ったのよ」「あなたの絵が、あの巨匠に認められたのよ」「さすがは蒼だわ」「これで、将来は画家としても、現代美術家としてもやっていけるわね」「大学の先生方も諸手を上げて褒めてらしたわ」……。
ひと塊の言葉を吐き出す度に、嗚咽と洟を啜る音が個室に漏れ広がり、ただでさえ湿度が高い空気がいっそう湿っぽさを増していく。
病室に姿を見せた当初こそ気丈に振る舞っていた母だったが、途中から悲しみを飽和させ、精神状態を立て直せないまま現在に至っている。
滂沱と流れる涙でビショビショに濡れそぼっている頬が、やりきれない悲しみを如実に表現していて、どうしよもなく哀れみを誘う。
申し訳なかった。
本当に、心から申し訳なく思う。
命の蝋燭に灯っていた炎はとっくに消えていて、あとは燃えカスに余熱が残っているだけにしか過ぎず、延命の手立てはどこにもありはしない。どう足掻いたところで、もうすぐ母を独りぼっちにさせてしまう。
なのに、声のひとつも掛けてあげられない。
感覚のほとんどを喪失していたはずの身体の胸に、針で刺されたかのような痛みが奔った。
幻痛なのか、実際の痛みなのか、それとも心の痛みなのか。
胸を押さえたい衝動に駆られたが、もちろん手など自由に動かせるわけがなく、あまりにもの身体のポンコツ具合に、また自らを嗤いたくなった。
そんな我が身に、『痛みの発生』以上に不可思議な現象が起こった。
昔日の記憶だ。
過ぎ去った日々の思い出が脳裏に、止めどなく流れてきた。
初めて歩いた日の記憶。まだ若かった母に抱かれて見上げた、現実では有り得ないほど大きな月の映像。父が交通事故で死んだ日に目にした、母の呆然とした顔。幼稚園の入園式場で咲き誇っていた染井吉野。市の絵画コンクールで金賞を獲ったときの母の笑顔……。
ああっ、これが噂に聞く走馬灯なのかとしみじみ思う。思いながら、いつの日も一人ではなかったと、今更ながら気付く。
チクリ……と、また胸が痛んだ。
ごめんなさい。病弱な身体に生まれて、ごめんなさい。苦労ばかり掛けて、ごめんなさい。
心の中で母に頭を下げる。
次いで、母と、散々世話になった美術の先生に感謝を捧げたくなり、もう最後だからと、今の想いを思うがままに綴っていった。
母さんの作ってくれたご飯、いつも美味しかったです。豆腐のお味噌汁は特に好きでした。甘くない卵焼きも好きでした。
大学に行かせてくれて、ありがとうございました。美術と出会わせてくれて、ありがとうございました。高名な先生を紹介してくれて、ありがとうございました。
先生、今まで指導して頂き、ありがとうございました。様々なアドバイスをいただき、ありがとうございました。あの時、叱ってくれて、誠にありがとうございました……。
再び視線を空にやり、またボクは願う。
――もしもできるのなら、生まれ変わって大気になりたい。千の風となって、大切な人達をいつまでも見守っていきたい。
直後、予想もしていなかった変異が空に生じた。
ボクの想いに応えるかのように、空の青が自らの深みをどっと増した。
青よりも青い、フェルメール・ブルーの青。青の中の青。かつては『天空の破片』とまで評されていた、ラピスラズリの輝くような青――。
ボクが恋焦がれ続け、主題を表現するための『キメめの色』として使い続けてきた色だ。
『海の向こう』とでも言えばいいのだろうか、空の色と評するよりはむしろ、底の深い澄み切った海の色に近い。
幻想的過ぎる光景にボクは何も考えられなくなり、空のフェルメール・ブルーを、ただただ呆然と目に映し続けた。
まだ幼かった頃に、母と北欧の教会で見た青玉色のステンド・グラスの映像と、そのステンド・グラスから降り注ぐ、青い夜としか表現のしようがない光に包まれたときの記憶が蘇ってくる。
そう言えば、あの頃はまだ健康体だったな……。
それからどれくらいの時間が流れたのか。
瞼が徐々に落ちてきて、ボクは『終わりの時』の訪れを知った。視界が少しずつ狭まっていき、ついには視界の全てが限りなく黒に近い灰色に覆われた。
終わった。
……。
……。
……。
終わりだった。
終わったはずだった。
『聖プラクセディスの空』や『デルフトの空』だけでなく、現実の空さえ、もう永遠に見られなくなったはずだった。
一旦は藍墨色に染まったモノクロ的な視界の中央に、一滴分だけだったが、鮮やかなフェルメール・ブルーの雫が落ちて、じわっと広がった。
いったい何が始まるのか。
見詰めているうちに、フェルメール・ブルーの色は自らの面積を急激に拡張させていき、あれよあれよという間に、視界の全てを覆い尽くした。
わからない。
何がどうなっているのだろう。
この現象に、どんな意味があるのか。
気が付くと、いつの間にかボクは遥か上空にいて、フェルメール・ブルーの空に優しく包まれていた。
肉体はなく、意識だけしかない状態だった。
先程までいた病院のある街が、航空地図となって眼下に広がっている。
もしかして、人生の最後の願いが叶えられたのだろうか。ボクは千の風になったのだろうか。大気になれたのだろうか。
広かった。
空はどこまでも続いていて果てがなかった。
世界中の空に繋がっているだけでなく、遥か先の宇宙や、次元の違う、別の世界の空にさえ延びている。
しかし、おかしかった。
感覚が明らかに普通じゃない。意識が人智を超えたレベルで拡大している。
新世界の神にでもなったのだろうか、と妙な錯覚を起こしてしまいそうなほどの万能感に包まれていて、大気に接する全ての存在の情報が、ウィキペディアを閲覧しているかのようにわかる。
空を飛ぶ鳥一匹ずつの様子。地上に蠢く者達一人ひとりの、容姿や年齢を初めとする個人情報の全て。野原に潜んでいる虫々の動き。風に舞う花弁の行く先に、大気の流れ……。
気温や湿度のみならず、場所による気圧の差や、空気の成分や、汚染具合等に関する情報までもが脳裏に流れ込んでくる。
もちろん、あまたある情報の中には、先程までいた病室内のものも混じっている。
意識を向けると、建物の壁を透かして、母の姿が鮮明に見えた。
母は床に両膝を付き、ボクの亡骸に向かって嗚咽を漏らしている。これで独りぼっちになってしまったと、親とはぐれた幼子のように泣きじゃくっている。
現状の姿だけではない。
母の『これから』の情報も流れてきた。
今後どういう風な人生を送っていき、どんな結末を迎えるのか。
それもひとつだけでなく、ふた通りも。
我ながら不思議だった。
どうしてボクはなんの疑問も抱かず、他者の未来が見えるなどといった異常な現象を、至極、当たり前のものとして受け入れているのだろう。
猫だった。
『シュレーディンガーの猫の思考実験』を現実世界で観測しているみたいだった。
哀れな猫は箱の中に閉じ込められた時点で、量子力学で言うところの『可能性の世界』をふたつばかり作る。
『猫が生きている世界』と、『死んでいる世界』だ。
大袈裟に表現すれば、平行世界の創造とも言える。
『波束の収縮』で考えられる『コペンハーゲン解釈』も、量子コンピュータの元ともなっている『多世界解釈』も、知ってはいたが、まさか現実のものとして目の当たりにするとは思ってもいなかった。
ただ、母のふた通りの『これから』は、『○○○味のカレー』と『カレー味の○○○』くらいの差しかなく、どちらもあまり良いものではなかった。
どうしよう。何か打つ手はないのだろうか。このままだと母は不幸にしかならない。
焦った。
ボクは存在を失っていない。意識体としてのみだが、ここにこうして漂っている――。そう何とかして伝えられないものかと、必死になって考えた。
しかし同時に、なぜか理解していてもいた。
円環の理そのものとなったあの娘のように、ボクという存在はより高度な領域に移行した。移行したがために、現世に干渉できなくなっている。どれほど足掻こうとも、ただ見る以外に術がない。
しかも、さほど長くは現世に留まっていられないとも感じている。もう五分もすれば、より高次な輪廻の輪に入るだろう。
何故そうとわかるのかは全然わからないが、確信だけはしっかりとある。
ひょっとすると、高次の存在となったがゆえに得てしまった、残念としか言いようのない認識なのかも知れない。
くそっ!――と、ボクは無いはずの唇をギュッと噛み締めた。
しかし、それでもまだ救いは残されていた。
意識の片隅に、ほんの少しだけこびり付いている、
『悲しみや苦しみは人を成長させるためにやって来るのであって、けっして嫌がらせのために訪れるわけでない。一回分の人生だけで判断すれば、不幸はたんなる災いでしかないが、永遠に続く魂の視点から見れば、不幸もまた祝福の一種である』
との認識だ。
だからといって、納得できるものでは到底ないのだけれど。
ほどなくして、現世を去らなくてはならない刻限が訪れた。
新たなる輪廻の輪に引っ張られているせいなのか、意識が急激に薄れてきた。ボクを包んでいる空のフェルメール・ブルーが、いっそう深く眩しくなっていく。
何もかもがフェルメール・ブルーに染まり、ついに意識を失う瞬間、ボクは母の今後を憂い、本日、三度目になる『今生最後の願い』を口にした。
《どうか……。どうか最後のときには幸せでありますように》――と。
そしてボクはフェルメール・ブルーの風そのものとなり、地球世界の次元境界線を越えて、どんなところなのか全くわからない異世界へと旅立ったのだった。