第5話
「申しわけありませんでした」
「どういたしまして。……だけど、もう腹が立っても殴りかかってはだめよ? 問題の解決に暴力をふるってもお互い不幸になるだけですわ」
「……はい」
返事をする声は自分でもよくわかるほど沈んでいた。
……現在、お迎えの車中にて本日の反省会の真っ最中である。とはいっても行いを反省すべきは間違いなく私だけなのだけれども。
まったくもって凛子さまのおっしゃる通りだ。そもそも九条宮の側近として公共の場で声を荒げること自体ありえない暴挙である。殴りかかるなどもってのほか。どんな理由があろうと言い訳にもならない。
「でも珍しいですわね。ちとせがあそこまで誰かにつっかかるなんて」
「う……お恥ずかしい限り、です……」
思わず顔が熱くなる。
本当になぜあそこまで短絡な行動をとってしまったのか。お昼休みの自分を小一時間ほど膝づめで説教してやりたい。
「なんだか神楽崎様が羨ましいですわ」
「……はい?」
「だってちとせはおうちでも控えめなことしかいわないでしょう? わたくしだって、もっとちとせと心おきなくお話ししてみたいもの……それに、いつまで経っても名前しか呼んでくれないし」
ほんのわずか責めるような声音に、私は言葉を返せなくなる。
私は九条宮に引き取っていただいた身。生まれてすぐに捨てられて、九歳までずっと施設で育った。生みの親など顔すら知らない。
そんな私を傍に置きたいといってくださったのは凛子さまだ。養子になるまでに色々あったけれど、いまでは九条宮家の現当主であらせられる蘭香さまや旦那さま、お屋敷で働く使用人のみなさんも、私なんかを家族同然に扱ってくださる。
……でも、どうしても恐れ多いと感じてしまう。
せっかくのご厚意を受け取らないことがどれほど無礼であるかをわかっていながら、それでも心が一歩引いてしまうのだ。
やっぱりまだ実感がわかない。
それもそうだろう。天涯孤独の身からいきなり大財閥の養子だなんて、誰だってたやすく信じられる話じゃない。
施設で孤立して、成り上がりの時代小説に憧れを重ねていたような愚か者にはなおのこと。
ひょっとしたらこれは夢なんじゃないかと、きっと一生ぶんの幸せはあのときに使いきってしまったと……いまでも、そう思っているくらいなのだから。
「――まあいいですわ。見てなさい、いつか絶対にお姉ちゃんって呼ばせてみせるんだから」
ふん、と凛子さまがそっぽを向かれる。
拗ねたようなその仕草に、けれど、私の強張った身体からは力が抜けた。
凛子さまはとても優しいお方だ。お家の権力を考えれば力づくで従えることもできるのに、決して相手に無理強いをしない。
今回も私の困っている気配を察してくださったのだろう。その優しさと聡明さに、何度助けられたことか。
……この魅力が、もっと周りに伝わればいいのに。
そうすればお友達なんてきっとすぐにできる。
もし橋渡しが必要なのだとしたら、それこそが側近たる私の役割なのだろう。
五年生になった今年は、自分のことも含めて色々とがんばらねば。
「……だいたい、ちとせはちっともわたくしのことを年上だと思ってませんものね! プリンを食べすぎないように見張ったり! 朝だってそろそろ一人で起きられるっていってるのにいつも起こしにきて、色々と甘やかして! ――うれしいけどっ、うれしいけどっ!」
あ、れ?
凛子さま、本当に拗ねておられる……?
「えっ、と……凛子さま?」
「なにっ?」
……なんということ。
私の感動と決意がよくわからない角度で空振った。
この力強く握りしめた拳はどうすれば。
あと凛子さまは目を離すとすぐプリンを求めて冷蔵庫へと向かわれるし、二度寝のプロフェッショナルなので起こさなければ朝の登校時間が危うい。
誕生日が一ヶ月お早いという点において、年上であることはあながち間違っていないけれど。
脱力および倦怠感。私の胸にえもいわれぬ感情の去来をもたらしたやりとりは、
「――お二人は実に仲がよろしゅうございますなあ」
という、運転手の笠井さんのほがらかな声で締めくくられた。
☆彡
九条宮家は個人の実力を重んじる。
これは数ある旧家名家の中でも珍しい気風で、本家と分家の区分はあれど従わせるなら当主の力量をもって示さねばならない。
凛子さまは十一歳にしてすでにその片鱗を見せつけている。
九条宮家に連なる一族が集う大きな会合の際、ご親戚のお子さま方がその美貌と才気に恐れをなして近づけなかったほどだ。ごあいさつに伺ったときも皆さまなんだかちょっぴり震えておられた。これが王者の風格か、と感動した記憶がいまも胸に残っている。
そんな凛子さまのお母上こそ一族を束ねる現ご当主さま。
その溢れ出る才覚と見事な手腕で財閥の地位を不動のものとした、九条宮蘭香さまである。
身にまとう雰囲気はいつも凛々しく、どんな難題も微笑を浮かべてまたたく間に解決してしまうそのお姿はまさに天上の女神の化身。
蘭香さまは私の憧れだ。
いつかはあんな素敵な女性になれたら、といつも夢見ている。
しかし、ご当主さまはお忙しいのであまりお屋敷におられない。
代わって日本のグループを取り仕切っておられるのが、
「ただいま帰りまし、ぶっ!?」
「おかえりぃぃぃいいい!」
玄関をくぐった凛子さまが凄まじい速度で何者かに抱きしめられた。
これが外なら敵襲と見なして事前に迎撃するところなのだけれど、警備が厳重なお屋敷の中ではそうもいかない。
……ましてやそのお相手がわかっているとなればなおさら。
「いやー商談を早く終わらせた甲斐があったよ! なんたって可愛い娘たちと一秒でも長く過ごせるんだからね! さあ、ちーちゃんもこっちに」
「旦那さま」
「おい、で…………はい」
「旦那さまがあふれんばかりの愛情を注いでくださること、私はとても嬉しく思っております」
「はい」
「ですが、ここはまだ玄関。外の者の目に触れる可能性もございます。あまり不用心に飛び出してこられるのはいかがなものでしょう」
「……すいません」
「そして凛子さまが苦しんでおられます。さしでがましいお願いではございますが、多少なりとも力加減の方、ご考慮いただけませんでしょうか?」
「……はい」
ギュウギュウと締めつけていた腕から解放されて、凛子さまが「ぷはっ」と大きく息を吐かれた。
その目の前でなんだかしょんぼりしておられるのが蘭香さまのご夫君、九条宮孝利さまである。
ややふくよかな優しいフォルムをされているが、お仕事における手腕は比類なきもの。
部下たちの信望も厚く、蘭香さまから公私ともにパートナーとしてもっとも信頼を寄せられる素晴らしいお方なのだ。
もちろん私だって旦那さまを尊敬している。
……残念なのは、そんな仕事場での輝かしいお姿が、屋敷内ではカケラも見うけられないことか。
「うう、ちーちゃんが僕に冷たい……」
「当たり前ですわ! お父様はわたくしを窒息させるつもりですの!? お父様の! このお腹は! 圧迫感がすごいのです!」
勢いよくお腹をぷにぷにされた旦那さまがますますしょげてしまわれる。
……そろそろ食事制限を設けていただくべきだろうか?
すでにシェフの黒部さんには料理の塩分を控えめにとお願いしているのだけれども。
「そ、そうだ、今日はお土産を買ってきたんだよ!」
「……お土産?」
「リューヌ・ドゥ・シュクレのバニラプリンさ!」
「プリン!」
――旦那さまは物で一本釣りなさるおつもりか。
リューヌ・ドゥ・シュクレは凛子さまが近頃気に入っておられる洋菓子店だ。
その濃厚でありながらも甘みがくどすぎず、ほのかにバニラ香る上品なプリンは、店頭に並べば一時間で売り切れ必至という人気商品である。
さすがは甘党の旦那さま。お嬢さまの好みをちゃっかり把握しておられる。
『一人でダロワイヨのオペラ五つはいける』と豪語されるだけあって、甘いものへの愛情と情報収集能力はもはや執着すら感じられるレベルだ。
……が、側近として、そのような暴挙を見過ごすわけにはいかない。
「さあ、みんなで仲良くプリンを食べよう!」
「旦那さま、それはなりません。もう間もなく夕飯の時間です。お土産は食後のデザートにされた方がよろしいかと」
「ええ!? ち、ちちちちとせ? ひ、ひとつだけ、ひとつだけですわよ? それくらいなら……」
「凛子さま、甘いものばかり召しあがってはお身体によくありません。現に旦那さまはアルコールや糖分の摂取をひかえるよう、かかりつけのお医者さまから通告を受けておられるのです」
「なっ、なななななんでちーちゃんがそれを!?」
「秘書の藤堂さんから気をつけて欲しいと頼まれました」
「藤堂ぉぉぉおおおお!? アイツなんてことをっ!」
「健康診断の結果をこっそり抹消されたことに関しましては、いずれ蘭香さまからお話があると思います」
「ぎゃあああああああああ!?」
断末魔のごとき悲鳴をほとばしらせながら、旦那さまが撃沈なされた。
一日のお仕事を終え、疲れきったお身体で、それでもこの躍動感あふれるリアクション。
さすがは九条宮を支えられるお方だ、と感嘆せずにはいられない。
「――凛子さま、偏った食事はこれほどの苦痛を人にもたらすのです。どうかご自愛くださいませ」
「ねえ、きっとあの苦しみは偏食のせいではないと思うの……」
現実から目を逸らしてはなりませんお嬢さま。
動かなくなってしまわれた旦那さまを執事長さんに任せ、忠臣たるわたしは引き続き凛子さまに規則正しい食事習慣の重要性を説くのであった。