第4話
まっくらな海で溺れる私をすくいあげてくれたのは、彼女の優しい手。
ベッドに横たわる私の手を握って、その女の子はこういった。
『ねえ、今度はわたくしが守る番ね? ……わたくしは、きっとあなたを助けてみせるわ』
☆彡
優雅に波打つ飴色の髪に、幼くも将来の華やかさを予感させる麗しい顔立ち。ややつりぎみの瞳はまさに支配者の風格を醸し出し、九条宮家の次期当主として申し分ない気品を兼ね備えておられる。
そんな凛子お嬢さまの通う学校は、国内トップクラスの難関校と名高い獅王院付属小学校である。
成績は常に二十位以内をキープ。礼儀作法の授業など講師の先生が手放しでほめちぎるほど。
側近である私の仕事は、そんな凛子さまの学校生活のサポートである。
――そう。たとえば、遅刻しかけたお嬢さまの髪を車の中でブラッシングしたりだとか。
「うぅ……ごめんなさい、ちとせ」
「お気になさらず。それより凛子さま、動いてはなりません。引っぱると毛先が傷んでしまいます」
「今日こそわたくしもちとせの髪をお手入れしたかったのに……」
「私なら大丈夫です。むしろ櫛など通そうものならボリュームがしんでしまいますので」
腰まである凛子さまの長い髪とは違い、私はいつも肩上で短く切りそろえている。長いと仕事の邪魔だし、なにより高さがでない。
不本意ながら学年で最も背が低い私のせめてもの工夫である。『前にならえ』で腰に手をあてる屈辱、来年こそはなんとか挽回したい。
「ちとせは、小さいままのほうが可愛らしくて良いと思うわ」
「そういう不穏な未来を呼び寄せそうな発言はひかえていただけると嬉しいです」
小さいほうが可愛い。私はとくにお買い物用のコンパクトカーに憧れを抱いているわけではないので、そんなご提案は聞けない。
それよりいまは凛子さまの髪のお手入れだ。乾燥しやすいので扱いに注意しないと……。
ブラッシングを終えて飴色の髪に天使の輪ができたころ、私たちを乗せた九条宮の車は、とても学校のものとは思えない巨大な門の前に辿り着いた。
獅王院には幼稚舎から大学まですべての施設がそろっており、その敷地は国内最大規模の広さを誇る。さらに大学の農・水産学部などはまた別の場所に校舎がある。生まれたときから施設育ちで普通の公立小学校に通っていた私は、当初あまりの広大さに呆然としてしまったものだ。正直、いまでもまだ慣れたとはいいがたい。
けれども私は敬愛する凛子さまの側近。いつまでも戸惑っているわけにはいかない。
主君たるお嬢さまをあらゆる危機からお守りするため、気を引きしめなくては。
「ねえ、ちとせ」
「どうなさいました?」
「……いつになったら、みんな普通に挨拶できる距離まで近づいてくれるのかしらね?」
――マズい。凛子さまの声が震えてる。危機が外より先に内側から訪れた。
なにしろ凛子さまは日本でも五指に入る大財閥の子女。「九条宮」という高いにもほどがある壁が旧家良家の子供たちを遠ざける。ついでに、ほんのり攻撃的なその美貌も。
まれにかけられるのはすべて社交辞令という鎧をまとった言葉のみ。そんな他人以前のやりとりでは凛子さまの深い孤独を癒すことなどできまい。
おしくも失敗に終わった悪役令嬢計画から約一ヶ月。
……まだ、凛子さまにお友達はできていない。
いったいどうすればいいのだろう? 私は必死に考えた。
考えて、
「……無力な私を、お許しください」
「やめて! そんな真剣に謝られたらよけい傷つきますわ!?」
わーん! と凛子さまがお嘆きになる。
口惜しい。せめて、私にもう少し人付き合いの経験があれば……。
己のいたらなさに唇を噛みしめながら、私はとぼとぼと教室に向かう道を歩いた。
「やっぱり悪役令嬢になるしか道はないのかしら……?」
「おそれながら、逆にどうしてその選択肢が復活したのかお訊きしてもよろしいでしょうか?」
なにげなく投下されたつぶやきに驚愕する。
その試みはもう完全に終わったものと思っていた。
いまは普段通りの休み時間。いつもと変わらぬ二人ぼっち。
次の授業が音楽で、別教室に移動しているときの出来事だった。
「あのね、ちとせ。わたくしはネット小説を読んでいて気づいたの。『悪役令嬢』に必要なもの……それは、ギャップだということに」
「ギャップ、ですか」
「ええ。悪役というからには、なにか人の嫌がることをしそうなものでしょう? でも、お友達がたくさんいる悪役令嬢の方々は優しいの。いかにも悪そうな怖い見た目で、実は優しい。このギャップこそが周囲を惹きつけるポイントなのよ」
――なんという洞察力。
これが次期九条宮当主の実力か、と私は感嘆を禁じえない。
それはいってみればお塩をふりかけたスイカみたいなものなのだろう。微かな塩っけは、より一層スイカの甘みを引き立てる。
その例えが本当に正しいのか自分でもわからなくなってきたけれど、なんとなく凛子さまのおっしゃられていることはわかる。
「幸いにも、わたくしの見た目は……人に怖がられ……は、派手、ですし」
なぜ、自ら心を鞭打たれるのか。
涙目になられた凛子さまを慌ててギュッと抱きしめる。力いっぱい抱きしめ返された。いいにおい。可愛い。
「うぅ……お友達がほしい……」
「凛子さま、この私にすべてお任せください。必ずや魅力的なギャップあふれる悪役令嬢にしてさしあげます」
このやりとりは一ヶ月前に続き二度目である。しかし、側近たるもの主君を泣かせたままでいられるわけがない。
もうすべての元凶であるあの『小説家になるのじゃー』とかいうサイトに文句のひとつもいいたい気分ではあったけれど、こうなった以上、やるしかない。
あらためて決意を固め、とにかくいまは音楽室に向かわなければと凛子さまを促した矢先――ソレは、現れた。
……ああ。そういえばお嬢さまを恐れない同級生が、二人ほどいた。
「おい九条宮、廊下の真ん中に突っ立ってんじゃねえ。邪魔だ、どけ」
とげとげしい口調でそう言い放ったのは、金髪に碧眼という日本人離れした容姿の美少年。いや、実際にハーフだ。たしかアイルランドか……いや、ドイツだったか……たぶん、西洋のどこかだったはず。記憶に残る情報がうすい。
ほんの一ヶ月前にはじめて言葉を交わして以来、どういうわけかいつも凛子さまや私に突っかかってくる苑柳寺アキさまである。
そんな高圧的な彼に対し、凛子さまは微笑を浮かべ、
「あら、なぜこのような広い廊下でわざわざ道を譲らなければなりませんの? そちらこそ後ろにぞろぞろとお供を連れて、他の生徒の妨げになっているのではなくて?」
真っ向からブッた斬ってみせた。
正論を返された苑柳寺の顔がヒクッと歪む。
――いつもながらお見事な腕前です、凛子さま。
ちなみに、後ろのお供とは彼の学内ファンクラブ『紅葉会』のことだ。
この場に大名行列よろしく女子生徒ばかり三十名ほど侍らせている。たぶん全学年あわせるとクラブ会員は五倍近くいるだろう。
そういうチャラそうなところも凛子さまが嫌う要因ではなかろうか。アーモンド形の瞳をキリリとつりあげて、目の前の集団を睨みつけておられる。
大軍を相手どっても怯まないその姿、ご立派ですと褒め讃えたいところではあるが、周囲の無関係な生徒さんたちが完全に引いている。
なにしろ大財閥の跡取り同士の衝突。
うかつに刺激しようものなら自分まで火傷しかねない状況だ。
「毎回毎回ゴチャゴチャうるせーんだよこの女狐!」
「なんですって!?」
激化する睨みあい、急降下する周囲の温度。このままでは凛子さまからますます人が離れてしまうばかりか授業に遅刻する。
ここは側近たる私がお止めしなければ。
「凛子さま、この場は退きましょう。次の授業に遅れてしまいます」
「でも!」
「ハッ。分かってんじゃねぇかちっこいの。オラ、早くどけよ」
「くっ……」
悔しそうにしながらも、凛子さまは私の申し出を聞き入れてくださった。
その隣を苑柳寺が薄ら笑いながら通り過ぎていく。
「――この私が、凛子さまを侮辱されたまま黙って帰すとお思いですか?」
「あ?」
いぶかしむような表情を浮かべた苑柳寺を前に……私は、大きく息を吸いこんだ。
「さあ皆さまも道をあけて頭をおさげください! 参ります! ……うえさまのぉ!」
「なっ!?」
私のかけ声に反応した人たちが、ハッとした表情ですぐに頭をさげる。
廊下の両端にひかえた大勢の生徒さん、その数、ゆうに五十を超える。
目を見開く苑柳寺に向けて、ニィと唇をつりあげてみせた。
逃げようとしたってもう遅い。
――『道』はすでにできあがっている。
「お成ぁ〜りぃ〜」
「くっ、お、ぼえてろぉぉおおおおっ九条宮ぁぁあああぁぁぁっ!?」
首筋まで真っ赤にしながら花道を全力疾走する苑柳寺。その後ろを紅葉会のメンバーたちが慌てて追走する。
うえさま御一行、大爆走。殿中でござる。
……ふっ、あの状況で例のかけ声に反応しない日本人などいない。
自分に頭をさげる生徒がずらりと並ぶ廊下は、さぞかし走りがいがあったことだろう。
私は九条宮家や凛子さまを侮辱する者を決して許さない。
苑柳寺あたりには是非とも覚えておいてもらいたいものである。
「…………なんというか、絶対にちとせだけは敵に回したくないわね」
なぜだろうか後ろからそんなつぶやきが聞こえた。
私が凛子さまに敵意を向けるなど、地球がひっくり返ったってありえないというのに。
あ、いけない次の授業に遅れてしまう。
急ぎましょう凛子さま。音楽室は少し遠いのです。
☆彡
一般的な小学校の給食と呼ぶにはやけに本格フレンチな昼食を終え、お嬢さまと私は教員室前の掲示板を見にきていた。
一週間前に受けたテストの結果が貼りだされているのだ。
前に通っていた小学校なら考えられないことだけれども、獅王院はこれが普通である。
教科は国語、算数、英語だけ。それでも内容はかなり難しい。元の学校で常に満点をとっていた私が、ここでは五十位前後の成績だった。
その厳しさはまさに国内トップクラス。転校したての一年は授業についていくだけでも必死だった。朝も夜も必死になって勉強して、ようやくそれなりの結果が出せるようになったのだ。
「今回もちとせに勝てませんでしたわね……」
順位表を見あげた凛子さまが、少し悔しそうな声でおっしゃった。
その言葉にうっすら胸が重くなる。
学年別テストの結果は、凛子さまが九位、私は二位となっている。
側近が主君の前に立つなどあってはならないことだ。
しかし、そう考えてテストで手を抜いたとき、凛子さまからすごく怒られた。
『そんな風に勝たされたって、ちっとも嬉しくありませんわ!』と。
その後はしばらく口もきいてもらえなかったのだ。
以来、私は常に全力でテストを受けている。
今日だって、
「――でも、また点数があがったわ。次は負けませんわよ?」
そういって、凛子さまが遠慮のない勝気な笑みを向けてくださるから。
そのお顔があまりにも綺麗で……とても、誇らしい気持ちになる。
「……はい!」
力いっぱい頷くと、凛子さまは花の綻ぶような笑顔を返してくださった。
嬉しい。
凛子さまにお仕えできることが。
お傍にいられることが、なによりも嬉しい。
そんな風に私が自らの幸運を噛みしめていると、ふいに、誰かが隣に立つ気配を感じた。
彼も順位を確かめにきたのだろう。邪魔にならないよう身体をズラそうとしたところで、私は気づいた。
その男子生徒が――私の、『天敵』であることに。
「神楽崎……!」
「なんだ。低学年がいると思ったら、アホ姉妹の小さい方か」
「なっ!?」
この男、いちいち人の神経を逆なでするようなことを……!
「あまり人の集まる場所でうろちょろするなよ。迷子になるぞ」
「……いい度胸ですこのネクラ男。私を子供扱いしたあげく凛子さまをも侮辱した罪、その身でキッチリ償わせてあげましょう」
「だめよちとせ!? 少なくともグーはだめ! 女の子が拳で殴りかかるとか限りなくアウトですわ!?」
「はなしてください凛子さま! 女にはやらねばならないときがあるのです!」
「ここ教員室の前! そしてお昼休み! その条件で殴り合いをはじめるべきときなんてあってたまるもんですか!」
おケガなどさせぬようやんわりジタバタしてみるも拘束はまるで外れない。どうやら凛子さまは本気で止めておられるようだ。私の足が少しだけ床から浮いている。……ちょっと泣いていいだろうか?
そんな私を見おろして「ふん」と鼻を鳴らしたネクラ男は、もはや興味を失くしたように掲示板へと視線を移した。
おのれ、どこまでも人を小馬鹿に……っ!
本当に腹が立つ。しかし、私は不本意ながらヤツに助けられたことがある。それには感謝しているし、きちんとお礼もいった。けれども気にくわないという感情はどうにもならない。
ヤツは私の二大禁忌『九条宮家の方々を侮辱する者』『私を子供扱いする同世代』に余裕であてはまるどころか嘲笑いながらボーダーラインを軽々踏み越えてくるのだ。そんな人間とどうして仲良くできようか。できるはずがない。絶対泣かす。
さらに腹立たしいのはヤツの顔である。
クセのない黒髪に人形のごとく整った顔立ち。その雪原の冷気を閉じこめたかのような瞳が無感情に眺めるもの。
一位 神楽崎 透
二位 九条宮 千歳
……ヤツの名前が、私の真上に。
人が必死に勉強して、お嬢さまに怒られた悲しみすら乗り越えて辿り着いた順位より上にいながら、その無表情。
本当にどうでもよさそうなその態度に、ふつふつと煮え立つような怒りがこみあげる。
「……お前、やかましく喚くわりにはまるで俺に届く気配すらないな」
「そしてここでさらに追いうち……キサマ絶対に許さん。覚悟しろ」
「かかかか帰りますわよちとせ!? し、失礼しました〜」
湧きあがる激情にまかせて拳をにぎった私は、しかし、素早く凛子さまに拘束された。
馬鹿な。運動の苦手な凛子さまが、いつの間にこれほどのスピードを……?
ずるずると廊下を引きずられながら天敵を睨みつける。
おのれ神楽崎、こんなときだけニヤニヤと嫌みったらしい笑顔を……いつもの無表情はどうした! あの能面は演技か!
「――面白いオモチャだ」
絶対泣かすからな神楽崎ぃぃいい――っ!