第15話
夏休みも終わりが近づいたある日。
九条宮のお屋敷は、普段にはない緊張感に包まれていた。
広い廊下を使用人のお姉さんたちが慌ただしく行き交い、庭師のおじさんはそろそろ最終チェックが三周目に入ろうかというところ。
いつもお屋敷ではのんびりしておられる旦那さまも、朝から身の回りのチェックに余念がない。
驚くべきことに、あの黒部さんでさえちょっぴり真剣な面持ちで調理台に向かっているのだ。
ご本人いわく、「某国の大統領が会食に来た時より緊張してる」とのこと。
……それはそれでいかがなものかと思わないでもない。
もちろん、お嬢さまや私も自室を完璧に片づけて今日に備えていた。
これはいったいなんの騒ぎか。
――今日は、蘭香さまがお帰りになる日なのであった。
☆彡
最後にお会いしたのは私の誕生日だったので、およそ四ヶ月ぶりのご帰宅となる。
報せがあったのは一週間前。それからのお屋敷は戦場だった。
その物々しさ――まさに、王の帰還。
とはいっても、蘭香さまはそこまで厳しいわけではない。むしろ優しいお方だと思う。
これは私たちの心構えの問題だ。
なんというか、蘭香さまの前では『きちんとしなくては』と自然に思えてしまう。
……なぜ伴侶である旦那さままで緊張しておられるのかは、ちょっとよく分らないけれど。
「このピリピリとした空気、久しぶりですわね……」
「はい。まるで決闘の前のようです」
現在、九条宮の屋敷は巌流島かといわんばかりの雰囲気を醸し出している。
みんな仲良く天下無双の剣豪を待つような面持ちだ。
玄関から続く廊下にお屋敷の人間が勢ぞろいしたこの光景は、なかなかの迫力だと思う。
「うわー緊張してきた。この時間はホント心臓に悪いわ……」
さっきから私の隣でそわそわと落ち着かないのはコックコート姿の黒部さんである。
いや、落ち着いていないのはいつものことだけれども、今日は種類が違う。
「……なあ、なんで千歳お嬢はそんな落ち着いてられるんだ?」
「いえ、私も緊張していますよ?」
「マジか! 顔に出なさすぎだろ!?」
「ちとせったら、ババ抜きのときでも視線すら動かないのよ? おかげでいっつも負けちゃうんだから」
「どこの賭博師だよ……まあ、逆に凛子お嬢は顔に出すぎだと思うけどな」
「え――――う、嘘よね……?」
愕然としておられるが、それは本当である。
凛子さまはいつも手元のジョーカーをチラチラ見られるし、ペアにならない札を引くと目に見えてがっかりされる。
他にも大富豪で革命を起こせるときなど口元がゆるんでおいでだ。
そして、わざと負ければやっぱり怒られる。だからといって主君を相手に勝率九割はさすがに心苦しい。
こんな過酷な袋小路を、私は他に知らない。
……いっそ運が全てのゲームを選んで欲しいと思う。スゴロクとか。
「お嬢たちはいいよなあ。俺なんかご当主さまの滞在中はいつ叱られるかビクビクしてるってのによ」
「あの、それは怒られるようなことしなければいいだけなのでは……?」
黒部さんの採用が決まったときはどうだったのだろう。
『優れた人格』の項目で揉めたりしなかったのかな。
「三人とも、落ち着きなさい。これくらいで動揺するなんて、みっともないよ」
わずかに震えた声で旦那さまがいう。
きっと触れない方がいいのだろう。
私は大人的な判断をくだした。
「お屋敷のメンバーでいつもと変わらないのは……まあ、笠井さんだけね」
凛子さまの視線を辿ると、そこには穏やかな笑みを浮かべる笠井さんが立っていた。
年齢を感じさせないシャンとした立ち姿はまさに紳士。
失礼な話だけれど、もしおじいちゃんがいたら笠井さんみたいな感じなのかな、と勝手に想像している。
いつも優しく微笑みながらお話を聞いてくれる、きっと理想のおじいちゃんだ。
「ホントに笠井のじい様は安定してるなあ」
「笠井さんが慌てる姿なんて僕も見たことないよ。年の功ってやつかな」
「俺も年喰ったらあんな風になれますかね?」
「男としては目指したいところだよね」
おそらく笠井さんの真逆に位置するだろうお二人がなにかいっておられる。
あと孝利さまが目指すべきは総本家の大旦那さまではなかろうか?
……あの広大な霊峰のごとき威厳を醸しだすまでにどれほどの鍛錬が必要なのか、ちょっと私にはわからないけれど。
いずれにせよ、目標を高く持つのはよいことだ。
私も陰ながら応援させていただこう。
そんなやりとりを交わしていると、
「……御当主様がお着きになられました」
空気をピリリと引き締める報せが、開いた扉の向こうからもたらされた。
☆彡
「――やあ、皆。久しぶりだね」
お迎えの車から降り立った蘭香さまが、開口一番にそうおっしゃった。
凛と響く芯の通った声。
ただその一言で、条件反射のように全員が頭をさげる。
『お帰りなさいませ、蘭香様』
一糸乱れぬ礼とごあいさつ。
命じられたわけでも決まりがあるわけでもない。
この場にいる誰もが忠誠を見せようとした結果、自然とこうなるのだ。
それだけでも、蘭香さまの優れた統治力がよく分かる。
「皆、頭を上げなさい。せっかく帰ったんだ、背中よりも皆の元気な顔を見せておくれ」
そんなお言葉に胸が震える。
ゆっくり顔をあげれば、悠然と微笑む蘭香さまのお姿が見えた。
豊かに波打つ黄金色の髪。日本人離れした美貌。細身のスーツを上品に着こなすお身体は、服の上からでもわかるほどメリハリがついている。
その姿を目にした周囲から感嘆の吐息が漏れる。
屋敷で働くのは女性がほとんどなので、当然の反応かもしれない。
多くの視線を集めながら、蘭香さまが優雅に歩きはじめる。
――その足が、列の途中で止まった。
「君は……森川、だったね?」
「は、はいっ」
「こちらにおいで」
お声をかけられたのは警備部門の若い男性である。身長は蘭香さまより頭一つ高い。
しかし、急に呼ばれて驚愕したのか、彼の大きな身体はガチガチに固まっていた。
いかにも猛者といった森川さんが、緊張しつつも蘭香さまの元に辿り着いた瞬間――――ふわっ、と宙を舞った。
それとほぼ同時に、柔らかな着地音が響く。
「ぐあっ!?」
地面にお尻をついた森川さんが悲鳴をあげる。
綺麗に落とされたので痛みは少ないと思う。
――しん、とお庭が静かになった。
あまりに早業すぎて、なにが起きたのか本人すら理解できていないのだろう。
投げたのだ。
…………蘭香さまが。
「重心が傾いている。……腰かな? 痛めているのは」
「え!? あ、は、はいっ。申し訳ありません! 訓練の最中に捻りました!」
「ふむ。……瓦谷」
周囲を見渡した蘭香さまが名前を呼ぶ。
呼ばれたのは、警備部門主任の傭兵みたいなおじさんだった。
「はっ!」
「私が投げたせいで怪我を悪化させたようだ。後の対処を任せても大丈夫かな」
「直ちに人員と配置を組み直します!」
「すまないね。いつも無理をさせる」
「滅相もありません! それでは!」
ビシッと姿勢を正した瓦谷さんは、そのままどこかへと駆けていく。
熊のように大きな身体なのにすごいスピードだ。あっという間に見えなくなった。
「ご、ご当主様! 申し訳ありませんっ!」
「いいさ。それより、自分の身体を大切にしなさい。仕事熱心なのは嬉しいが、身体を壊しては元も子もないからね」
蘭香さまがそう労うと、森川さんは大きな身体を震わせて泣き崩れた。
「漢」と書いて「おとこ」と読む、見事なオトコ泣きだ。
――蘭香さまのご到着から五分足らずの出来事である。
毎回のことではあるけれど、華麗すぎる手際に思わず見惚れてしまう。
採用されて間もない新人さんの通過儀礼。
あるいは忠臣の収穫祭。
無理をさせないようにという蘭香さま流のお心遣いは――多くの人の心を撃墜する。
「小早川、顔色が悪いね。何か悩み事かな?」
「い、いいえ! 私は、なにも……」
「そこまでしっかりメイクで隠すくらいだ、ずっと眠れてないんだろう? 秘密にしたいのなら、私だけに教えてくれないか」
「あの、えっと…………じ、実はっ、故郷の父が交通事故に遭って入院したと、連絡があって……っ!」
「それは大変だ。危ないのかい?」
「い、いえ……でも、うちはずっと父子家庭で……お世話出来る人が、私しかいないんです……」
「あ、貴女! どうしてそんな大事なことを!?」
「吉野、責めてはいけないよ。彼女は勤めてまだ日が浅い。遠慮していい出しにくかったんだろう」
「は、はい……申し訳ありません」
侍女長さんがしょぼんと俯いてしまう。
――しかし、そのフォローを忘れるような蘭香さまではない。
「今回の事は気にしなくていい、不幸な偶然が重なっただけだ。……君は少ない手数でよくやってくれているさ。私は、吉野が屋敷を守ってくれているから、安心して外を飛び回れるんだよ」
「ご、御当主様……っ!」
「チーフ……黙っていて申し訳ありません!」
「いいの、いいのよ……貴女も辛かったわね。すぐお父様の元に行ってあげなさい……」
そのまま侍女長さんと小早川さんは互いを抱きしめてすすり泣き始めた。
使用人のお姉さんたちも口々に小早川さんを励ましている。
――これが、九条宮家現当主の実力。
夏の陽射しが降り注ぐ庭にて、ただでさえ高い九条宮家の団結力がより強固になっていく。
「ねえ、ちとせ?」
「なんでしょう」
「……わたくしも、いつかあんな風になれるのかしら?」
凛子さまのお声はなんだか不安そうに震えていた。
それに対して、私が返せる言葉はとても少ない。
「――凛子さまには、凛子さまの良さがあります」
「わああああん! 遠回しに無理だっていわれたぁぁああ!?」
そんなことはない。
……ないのだけれど、ちょっと系統が違うかな? とも思ってしまう。
凛子さまはお母上と同じ器用な振る舞いを目指すより、本心でぶつかった方がいい気がするのだ。
それに、やっぱり凛子さまにはご自分だけの道を目指してもらいたい。
――たとえどんな当主になるとしても、私はどこまでだってお供するつもりなのだから。
そんな気持ちをこめて、「がんばりましょう」と拳を握って励ましてみる。
涙目の凛子さまに頭を撫で回された。……なぜ?
そうこうしている間にあいさつを終えた蘭香さまが、いよいよ私たちの目前まで歩み寄られた。
「待たせたね。二人とも、少し背が伸びたかな?」
恐ろしいほど整ったお顔に浮かぶのは天女を思わせる優しい微笑。
そのお言葉に、再び胸が締めつけられた。
『背が伸びた』。
ああ……どうしよう、泣きそうだ。こんなに嬉しいお褒めの言葉もない。
早速、あとで測ってみなくては。
「お帰りなさい、お母様」
「ただいま。元気にしてたかい?」
「はい! わたくし、学校でお友達ができましたのよ!」
「それは良かった。……ほら、おいで」
蘭香さまが両手を広げる。
その腕の中に、さっきからそわそわしていた凛子さまが勢いよく飛びこんだ。
久しぶりの再会である。
……ごあいさつをしそびれてしまったけれど、ここは水を差すべきではないだろう。
そう考えて待機していた私に、しなやかな手が差し伸べられた。
「さあ、千歳も。早くこちらにおいで」
…………あう。
ほんとうにいいのだろうか?
せっかく親子水入らずの時間だというのに。
しかし、あまりお待たせするのは申し訳ない。
戸惑いつつも、おそるおそる腕の中へとお邪魔する。
――間もなく柔らかな温もりに包まれた。
「……お、お帰りなさいませ……蘭香さま」
「うん、ただいま。千歳も元気そうで何よりだ」
より強い力で抱きしめられて、なんだか胸がいっぱいになった。
蘭香さまの腕の中はとてもいいにおいがする。
椿、だろうか。華やかで艶やかで。……なのに、どこか懐かしいような。
そんな、優しいにおいがする。
しばらくすると、柔らかな温もりは離れていった。
少し寂しくなったけれど、これ以上は分不相応というもの。
それに、蘭香さまはまだ大切な人にあいさつをしていないのだ。
「……蘭香さん」
待ちわびておられたのだろう。
目を細めた旦那さまが、両手を広げて待っていた。
それに笑顔を返した蘭香さまは、ゆっくりと愛する伴侶に歩み寄って――
――――鋭い正拳突きを、腹部に叩きこんだ。
「ぐはぁ!?」
「……孝利、随分とお腹のクッションが厚くなっているじゃないか。理由は聞かせてもらえるのかな?」
旦那さまが震えておられる。
――おそらく、二種類の要因で。
「こっ、これは、あれだよ? ここのところ、会食で飲まなきゃならないことが多くて……」
「ほう? 相手はどこの誰だい。私から少し『お話し』させてもらおう」
「すいませんごめんなさい嘘つきました! 昨日こっそりザッハトルテをホールで食べたらこのザマです!」
どうして旦那さまはそんな胃もたれしそうな暴挙をこっそり行えるのか。
甘味へのあくなき執着心に戦慄すら覚える。
プリンの女王たる凛子さまもドン引きだ。
「節食が必ずしも長寿の絶対条件とはいわないさ。それでも、健康であるに越したことはない。……孝利は、この私に独り寂しく老後を過ごさせるつもりかな?」
「ご、ごめんなさい……これから、気をつけます」
「――これから?」
「今日から!! たった今から気をつけますっ!?」
生きがい(糖分)を奪われた旦那さまの悲痛な叫びが響く。
けれど、こればかりは私も蘭香さまのご意見に賛成だ。
お二人にはいつまでも仲睦まじく長生きしていただきたい。
それに、蘭香さまだって旦那さまを心配しているがゆえの愛のムチ(精神&物理)なのだ。
「……ならいい」
追撃の構えを解いた蘭香さまが笑みを浮かべる。
思わず見惚れてしまいそうな、華やかな笑顔だ。
旦那さまは愛されているんだなあ、と実感する。
やがて、すべての用事を済ませた蘭香さまは、みんなの方に振り向いた。
「さあ、遅くなったが昼食にしよう。ちゃんとお土産もあるよ。日頃の労いだと思って、皆たくさん食べてくれ」
そんな掛け声に使用人のみなさんから歓声があがる。
こうして、九条宮のお屋敷は、久しぶりにご当主さまをお迎えしての賑やかな昼食となった。