第1話
私の名前は、九才のときに小山千歳から九条宮千歳になった。
親の都合によるものではない。生まれたときから施設で育った私は、両親の顔を知らない。
そのことに関しては小学校に上がる前にふん切りをつけた。自分を捨てた人間のことなど、いくら考えても仕方がない。
そんなことより、私には目指すべき夢があったのだ。
――大人になったら大企業で働いて大金持ちになる。という、ビッグな夢が。
きっと可愛げのない子供だっただろう。いつも温厚な施設の園長先生が、私と接するときだけオロオロしていたのを、いまでもはっきりと思い出せる。年々増えていく胃薬を見るたび、幼児ながらに小さな胸を痛めたものだ。かといって幼い私にはどうしようもなかった。
いまは見違えるほど健康になられたそうで、ちょっぴり安心している。
そんな私に転機が訪れたのは、間もなく九歳の誕生日が訪れようかという頃だった。
ひょんなことから知り合った大財閥のお嬢さまが、私のことを指差しながらいったのだ。
『お父様。わたくし、あの子が欲しいわ。……ほら、あの強そうな』――と。
犬猫じゃあるまいし、と思わないでもなかった。仮にも女に向かって「強そう」ってなんだ、とも。
しかし、それまでに色々あってお嬢さまの人となりを理解していた私は、特にそれを不快と感じることはなかった。むしろ「チャンスだ」と思った。これは将来設計のための重要な布石である、と。
――イヤな子供だ。あの頃は施設にある成り上がりものの時代小説にハマっていて、そんな痛々しい考えに至ったのだと思う。
かくして、その後の様々な紆余曲折を経て、九歳で九条宮家に引き取られることとなった私ではあるが、いまはお家の方々を心からお慕いしている。
九条宮千歳、十一才。
現在の私の立ち位置は、同い年の凛子お嬢さまの側近で――血の繋がらない「妹」という、なんだか複雑なものになっていた。
☆彡
九条宮家の子女であらせられる凛子さまは、少々変わっていらっしゃる。
決して頭は悪くない。日本屈指の難関校と名高い獅王院付属小学校において成績は上の中。良家の令嬢として、たくさんの習い事もされている。運動はやや苦手なようだが、それがなんだというのだろう。
小学生にしてすでに気品と華やかさに満ちあふれた美貌を持つお嬢さまの魅力をもってすれば、運動音痴などむしろお茶目なオプションのひとつにすぎない。
では、どういったところが変わっているのかといえば、
「ちとせ! ちとせ! わたくし、決めましたわ!」
バンッと勉強部屋のドアが開く。ノックもなしに転がりこんできたのは、お屋敷の廊下を走ってきたらしいお嬢さまだ。
いまはもう夜の八時半。ずいぶんと急いで来られたのだろう。麗しい頬っぺたが林檎のように赤くなっている。
いつもなら、凛子お嬢さまはこの時間にはおやすみの準備をしているはずだ。
「凛子さま、どうされました?」
「これを見て!」
ずい、と差し出されたのは、白く輝くディスプレイ。
スマホの最新機種である。その画面には、なにやら細かな文字がびっしりと書き込まれていた。どうやらどこかのサイトを開いているようだ。これは……ネット小説の類だろうか? タイトルらしき大きな文字で「令嬢」がどうとか書いてある。
「――ちとせ! わたくし、『悪役令嬢』になりますわ! ……って、ちとせ? わたくしのスマホを持ってどこへいくの? なんで走……ま、待ってぇ!?」
平べったい通信機器をしばし拝借し、私は屋敷の廊下を駆けた。
どこへむかうのか。……当然、この騒ぎの元凶のもとに、である。
☆彡
「旦那さま」
「……はい」
「私は、旦那さまをお慕いしております」
「はい」
「経営手腕にも優れ、家族への思いやりも忘れない、すばらしいお方であると」
「うれし……はい」
「……ですが、なんでもかんでもお嬢さまの望みをホイホイ叶えてしまう点においては、いかがなものかと思わずにはいられません」
私は、持ってきたお嬢さまのスマホを旦那さまの前に突きだした。
「――なぜ、『あんぜんチャイルドロック』を解除したのです」
「い、いや、だって、凛ちゃんが」
「旦那さま、お静かに。まだお話しの途中です」
「…………はい」
なにかいいかけた旦那さまが力なく項垂れる。
私が九条宮家の養子にしていただいて、二年とちょっと。――もはやなじみの光景となった、少々お嬢さまへの溺愛が過ぎる旦那さまへのご忠言の最中である。
姿勢は正座。もちろん、九条家現当主のご夫君である旦那さまを床になど座らせるわけにはいかないので、大きなふかふかのソファーにクッションを敷いて腰かけていただいている。
たぶん足は痛くないはず。
「小学校の先生方がおっしゃっていました。『インターネットの世界とは、落とし穴がそこら中にある危険な場所だ』と。……私も、おおむねその意見には賛同しています」
「ねぇ。前から思ってたんだけど、ちーちゃんは本当に十一歳なのかな……?」
「拾われたときに生後一ヶ月以内だったという情報がたしかなら、間違いではありません」
「そ、そう」
旦那さまが微妙な表情で目をそらされた。
……なんだろう。なにかおっしゃりたいことがあるのだろうか?
まぁ年齢に関して間違いはないはずだ。私はクラスで一番背が低い。それは私の悩みの一つでもある。まことに残念ながら、容姿だけなら同級生の誰よりも子供っぽいのだ。……ただ、リアクションがほんのちょっと周囲よりも落ち着いているだけの話で。
いずれにせよ、いまは私のことなんてどうでもいい。問題は凛子さまのネット環境だ。
完全実力主義の九条宮家現当主にして海外を飛び回っておられる蘭香さまとは違い、旦那さまは少々お嬢さまに甘すぎる。
近頃は子供を狙ったネット犯罪が深刻になる一方だと新聞に書いてあった。見た目よりずっと純粋で影響を受けやすい凛子お嬢さまが、おぞましい事件に巻き込まれたらどうするというのか。おかげで『悪役令嬢』とかいうよくわからない役職に就くとかいいだされてしまった。あの純真無垢な凛子さまに「悪」への憧れを抱かせるなど、許しがたい所業だ。
「……旦那様、千歳お嬢様、お取り込み中に失礼いたします。――ベルギーの御当主様よりお電話でございます」
ノックと共にドアの向こうから聴こえた渋い執事長さんの声に、旦那さまがピキッと固まる。もちろん、私も。
それからの行動は早かった。旦那さまは急いで卓上の子機に飛びつき、私は別に見えるわけでもないのに姿勢を正す。
その場にいなくても、周囲に大きな影響を与える。それほどの力を持ったお方なのだ。――九条宮蘭香という、才気に満ちあふれたご当主さまは。
「もしもし、蘭香さん? そっちはまだお昼だった……え? スピーカー? あ、いや、分った。すぐに切り換えるよ」
慌てて旦那さまがボタンを押す。蘭香さまの意図を察した私は、すぐに黒檀の大きな机に近づいた。ピッという音のあと、受話器越しとは思えない澄みきった声が流れ出す。
『やぁ、千歳。久しぶりだね。元気にしてたかい?』
「は、はい! 蘭香さま!」
思わず上ずってしまった声で返事をすると、電話の向こうから微かに笑う気配がする。
ああ、ほんとうに蘭香さまだ。特徴的な凛々しい口調に、なんだか胸がいっぱいになった。
『いつも孝利と凛子が世話になっているようだね。君には本当に苦労をかける』
「そ、そんな! めっそうもありません!」
「そうだよ蘭香さん。さすがに僕も娘のお世話になるようなことは……」
『今日も、凛子が奇妙なことを言い出したんだろう? ……主に孝利のせいで』
旦那さまが硬直した。孝利、とは旦那さまのお名前である。
さて、なんと答えたものか。事実は事実なのだけれど、そのまま伝えて蘭香さまを不安にさせることはしたくない。かといってお嬢さまを貶めるのも論外だ。ならば、
「それは……旦那さまに関しては、慣れておりますので、大丈夫です」
「ちょっ!? その言い方はマズ……!」
『慣れる、ね……』
涼やかな声に鋭さが増した。
旦那さまの身体は硬さを増した。
申し訳ないとは思う。
けれど、人生にはなにかをギセイにしなければならないときもある。
――そう、蘭香さまがおっしゃっていた。
『……まぁいい。それより凛子のことだけど、もし大丈夫そうなら今回はあの子の好きにさせてやっておくれ』
「ですが……」
『千歳。人間というのはね、失敗して立ち上がった分だけ強くなれるんだ。大事なのは失敗しないことじゃない。転んだ場所で、どれだけのことを学べるかなんだよ』
――――全身を雷につらぬかれたかと思った。
なんて深いお言葉だろう……! そして私はなんとあさはかだったのか。部屋に戻ったら、蘭香さまのお言葉ノートに一言一句もらさず書き留めておかなければ!
「いや、別にそんな大袈裟な話じゃないよね?」
『そちらは夜だろう? 後のことは任せて、千歳はもう寝なさい。孝利は私がぶち抜いておくからね』
「ブチ抜くってなに!?」
「はい、蘭香さま」
「ねぇ! ブチ抜くってなんなの!? あとさっきから父親を無視するのやめようよ!!」
『ああ、それと』
叫ぶ旦那さまをまたしても華麗にスルーされた蘭香さまは、少しだけ間をおいて、おっしゃった。
『……千歳は、まだ私のことを「母」とは呼んでくれないのかな?』
「あ……そ、それは……」
どうしたものだろう。養子とはいえ、私のようなものが蘭香さまを気安くお呼びするなど、恐れ多くて腰がひける。
しかし、電話の向こうで待つご当主さまは、お呼びするまで決して許してくださらないようだ。
――覚悟を決めて、息を吸いこんだ。
「いやいや、おかしいよね? もっと普通でいいんだよ? あと、僕もパパって」
「おっ、お母、さま……っ!」
『ふふ。可愛い子だね、千歳。またすぐに帰るよ。今日はもうお休み』
「は、はい……!」
カァッと頬が熱くなった。心臓がバクバクと音を鳴らしている。
蘭香さまは私の憧れだった。いつかはあんな素敵な女性になりたいと、毎日のように夢見ている。もちろん当主の座は敬愛する凛子さまのものなので、側近として生涯お仕えするつもりだ。そのためにも、私はもっともっとがんばらなくては。
「いやいやいやいや、なんなの? 君たちの関係……こんなの絶対おかしいよ……」
なにやら呆けてしまわれた旦那さまに「御前を失礼いたします。おやすみなさいませ」と声をかけ、さん然とシャンデリアの輝く大きな部屋をあとにした。
さて、私にはするべき仕事ができた。
まずは、『悪役令嬢』とやらがどういった役職なのか、詳細を調べなくては。
☆彡
「お嬢さま、なりません」
翌朝、凛子さまのお部屋をおとずれた私は、開口一番にそうつげた。
「なぁに……? どうしたの? こんな朝はやくから……」
のそのそと起きだされた凛子さまは、まだ眠そうに目をこすっていらっしゃる。
ちなみに、現在は凛子さまが二度寝されたのでそろそろ支度をはじめないと完全に遅刻するギリギリの時間であり、決して朝早くはないのだが、いまはそれどころではない。
「凛子さま。私は側近として、凛子さまをトラックなどにひかせるわけにはまいりません」
「――ごめんなさい。わたくし、ちとせが何をいってるのかさっぱりわからない」
ああ、まだ寝ぼけていらっしゃる。
私は洗顔用の温水が入った桶とタオルを準備しながら、くわしく説明することにした。
「きのう調べたところ、『悪役令嬢』とはその八割ほどがなんらかの原因で死に、その後に少女マンガかオトゲーとやらのゲームの世界で生まれ変わることによって就任できる役職であることが判明しました。……凛子さま、これは難易度が高すぎます。せめて、『天然主人公』とか『ドジッ娘主人公』あたりで手を打たれては……」
私の提言に対し、まだ眠気の残る麗しいお顔をタオルでぬぐわれた凛子さまは、とろけるような微笑を浮かべられた。
「ちとせ、フィクションと現実を混同してはいけませんわ」
……どうしよう。それはそっくりそのままブン投げ返したいお言葉ではあったのだけど、なんとか喉の奥で押し留めた。
「わたくしは、この世界で『悪役令嬢』になるのよ」
「はぁ……しかし、なぜ急にそのようなことを……?」
「これをごらんなさい」
手渡されたのは昨日のスマホである。
そこには、アドレス帳の画面が表示されていた。
登録件数は――四件。蘭香さまと旦那さま、あとは私と運転手の笠井さんの分だ。
「……少なすぎるわよね…………?」
――マズい。凛子さまが泣きそうなお顔をしている。
たしかに凛子さまのお友達の数は少ない。というより、いない。
しかし、それには理由がある。
誰も近づいてこないのだ。九条宮家という巨大かつ堅牢すぎる城壁は、他者に気安く近寄ろうかという気をまったく起こさせない。もし話しかけてきたとしても、それはお家のためであり、そのすべてが「社交辞令」という鋼の鎧をまとう言葉だ。獅王院付属小学校という名家旧家の子息たちが多く通う学校であるのもよくないのかもしれない。……あと、凛子さまの少々威圧的な美貌も。
そうしてうろたえる私を尻目に、凛子さまはグイッと目元をぬぐわれた。
「……この『悪役令嬢』たちは、悪役とはいいながらもなんやかんやで友達をたくさん作ったり、周囲の方から慕われたりしていますわ。だから、わたくしも……」
「凛子さま、私にすべてお任せください。必ずや凛子さまを立派な悪役令嬢にしてさしあげます」
いまにも消えてしまいそうな凛子さまを強く抱きしめる。ギュッと強く抱きしめかえされた。かわいい。
……こうなったら、お嬢さまをどこに出しても恥ずかしくない『悪役令嬢』にしてみせよう。
正直、友達をつくるなら他にもっと手段があるんじゃないかとも思うのだけれど、お嬢さまのやる気に水をさす必要もない。
――それより、さらにマズいのは私のケータイに二十件のアドレス登録があることだ。
お嬢さまを狙う男子の情報を集めるため連絡先を交換した恋愛事情に詳しいよっちゃんさんやエリリンさん、ほかにはお嬢さまのお気に入りの店などを登録したら、こうなった。
側近でありながら主の前に立つなどあってはならないことだ。自分のいたらなさに奥歯をかみしめる。
凛子さまに絶対ケータイを見せてはならない。
私は、そう心に固く誓った。
☆彡
さて、華麗なる悪の道を突き進むと決意した凛子さまと私ではあったけれど、問題はその方法である。いかんせん二人とも役づくりなんてドのつく初心者だ。
凛子さまにいたっては、嫌われる以前に他人との接触そのものが皆無に等しい。
いつもと変わらない賑やかな教室を隅の方から眺めながら、二人で出方を窺っていた。
「『悪役令嬢』って、具体的になにをすればいいのかしら……?」
「いきなり計画が迷子になりましたね」
いまは一限目の休み時間。早くしないと予鈴が鳴ってしまう。
ぽっかりと空いたスペースに立ち尽くしつつ、私は昨日の間にまとめたレポートをぺらりとめくった。
「そもそも、大元の『悪役令嬢』なるものは、庶民をいじめるのが日課のようですね」
「あ、それわたくしも読んだわ。身分の低い主人公にいやがらせをするのよね。『庶民のくせにー』って」
「はい。……しかし、生まれ変わって『悪役令嬢』になった者は一切そのようなことはいたしません。むしろ前世が庶民だったぶん、上流階級の選民意識に反発をおぼえることが多いようです」
「……どうやって悪役になるのかしら?」
「…………さぁ」
スタートラインを引かれた場所がすでに行き止まりで、二人して溜め息を吐く。
悪役の名を冠しながら、一切の悪事を行わない。けれども悪役令嬢の立ち位置にあることは生まれたときから宿命づけられており――もはや、それは哲学的な命題のような気さえしてきた。
人に愛され慕われる悪役令嬢。
この自己矛盾がたっぷり含まれた役職を、これから凛子さまは目指さなければならない。その地へいたる道のなんと遠く険しいことよ。はたして一介の小学生にすぎない私たちに辿り着くことはできるのか。
「……悪事のことはいったんおいて、その他の要素を探ってみましょうか」
「そうね。そうしましょう」
「では……」
ぺらっと、もう一枚ページをめくる。
「『悪役令嬢』は、好きな男性につきまとうのも日課のようです」
「それも読んだわ」
「凛子さま、お好きな男子はおりますか?」
「いませんわよ。ちとせも知ってるでしょう?」
「はい。凛子さまは男子よりもプリンの方がお好きです」
「……プリンにつきまとえばいいの?」
「……さすがに大きな病院行きは免れませんね」
それはきっと子供の無邪気さをもってしてもごまかすことは難しいだろう。
またしても暗礁にのりあげてしまった。
しかし、こうしていてはいつまでも計画が進まない。なんとかして一歩くらい踏み出さなくては。
「いっそ、つきまとう男子を家柄で決められてはいかがでしょう?」
「お家で?」
「はい。そのリストがこちらに」
あらかじめ準備していたプリントを凛子さまに渡す。
私が選んだのは、九条宮家とくらべて見劣りしない家柄で、かつ女子からの人気も高いイケメンである。これなら凛子さまを恐れて近寄らないということもない。
生まれ変わりの『悪役令嬢』たちは、こういった顔のいい男を避けていた気もするけれど、そうなると他に悪役らしさを出す手段がなくなるのだ。些細な誤差からは率先して目をそらすスタイルでいこうと思う。
「苑柳寺に神楽崎……ね。たしかに、九条宮と大差ない家格だわ」
どうやら納得していただけたようだ。苑柳寺は最大手の芸能事務所、神楽崎は医療関連の企業を抱える国内屈指の財閥である。
その子息、苑柳寺アキさまはいわゆるオレサマタイプの性格であり、ハーフゆえの金髪と彫りの深い顔立ちが特徴のイケメンだ。私はニュースか歴史ものの番組しか見ないので知らないが、自身も雑誌やドラマに引っ張りだこの売れっ子らしい。そうエリリンさんが教えてくれた。
対する神楽崎透さまは無口な男子で、クセのない黒髪と切れ長の目が特徴の美人顔。常に威圧感を漂わせているので周囲に人は少ないが、そういうクールなところに惹かれる隠れファンが多いのだとか。これは、よっちゃんさんが教えてくれた。
ちなみに、エリリンさんやよっちゃんさんにはそれぞれ彼氏がいて、他人の恋愛観察は心の保養として嗜まれているらしい。最近の小学生はすすんでいるんだな、と思った。
「けど困ったわね。この二人、どっちかっていうと苦手なんだけど」
「凛子さま、食わずぎらいはいけません。この間のフグ白子は意外と美味しかったでしょう?」
「人間を魚の内臓といっしょにするのもどうかと思うけどね……」
はぁ、と溜め息をついた凛子さまは、意を決したように唇をひきしめた。
「……でも、せっかくちとせが頑張ってくれたんですもの。いつまでも迷ってばかりはいられないわ」
「その意気です、凛子さま」
かくして、凛子さまと私の『悪役令嬢計画』は幕を開けたのだった。
☆彡
二限目の休み時間、相談のすえ、まずはまだまともな対応が期待できそうな苑柳寺さまに声をかけてみることになった。
「それにしても、すごい人ね……」
凛子さまが呆然と呟いた。
その視線の先には、もはや壁のような人だかりがある。
苑柳寺さまが登校してこられる日はいつもこんな感じだ。純粋にファンの子もいれば、身の周りのお世話をする「紅葉会」と呼ばれる親衛隊の子までいる。
「アキ」で「紅葉」。――その率直なセンス、私は決して嫌いではない。
ちなみに、紅葉会に登録できるのは家柄のしっかりした生徒だけで、当然のように力関係は彼女たちの方が上だ。おそらくこの輪の中心には紅葉会の会長をはじめとするメンバーたちが控えているのだろう。
「なんとかここを抜けないと、近づくこともできませんわ……」
「凛子さま、それは大丈夫です」
「え?」
不思議そうな顔をした凛子さまの隣で、私は人垣の外壁の部分にあたる生徒さんたちに声をかけた。
「――失礼いたします。少々道を譲っていただいてもよろしいでしょうか?」
いっせいに十数人の女子生徒が振り向く。……その顔が、ほとんど同時に強張った。
「ひっ!?」
「申し訳ありません。急な用事がございまして……」
「あ、だっ、大丈夫です! ど、どどどどうぞ!?」
慌てた様子で群衆がザァッと割れた。ほんのちょっぴりモーゼみたいだなと思った。
「……ねぇ、ちとせ」
「なんでしょう?」
「ほんとうに、わたくしに友達なんてできると思う……?」
それは非常に答えにくい質問だった。
少しでも気休めになればと親指を立てて頷いておいた。
「うう……ちとせのわたくしへの対応が雑……」
なにか聞こえたけれど、いまは構ってさしあげられない。そろそろ苑柳寺さまが近づいてきたのだ。
いくら紅葉会の面々とはいえ、さすがに九条宮の重圧には勝てないのだろう。声をかける間もなく次々に道が開いていく。
やがて、目的の御曹司の姿が見えた。
「なん……お前、ひょっとして九条宮家の人間か?」
「はい。お騒がせして申し訳ありません」
「珍しいこともあったもんだな。まさか九条宮から近づいてくるとは……で? なんか用か?」
苑柳寺アキさまはなかなか社交的な性格のようだ。これなら大丈夫なんじゃないかと思い、隣の凛子さまに視線を向けた。
「えっと、その……本日は、お日柄もよく……?」
――ダメだ。日常会話の経験が少なすぎて、現状に混乱していらっしゃる。まずはその練習からするべきだった。
「はぁ……? なにいってんだ、お前?」
困惑はごもっとも。御曹司の整った顔がいぶかしむような色に染まった。
さて、どうしたものか……。
「あの……苑柳寺くん……」
私がフルスピードで頭を働かせていると、背後から小さな声が聴こえた。
振り返ると、凛子さまが築かれた道の真ん中に、眼鏡をかけた小柄な男の子が立っていた。
「あ? 誰だ、お前?」
「よ、吉沢だよ……同じクラスの、学級委員の……」
失礼かもしれないが、なんとなくそんな感じがした。すごく真面目そうな人だな、と。
それより、苑柳寺さまは同じクラスの委員長の顔を憶えてらっしゃらないようだ。そんなにお仕事が忙しいのだろうか?
「んだよ、モジモジしてねぇでさっさと用件をいえ。気持ち悪ぃ」
「あ、えと。これ、先生から宿題を……」
「あ? だから、忙しくてできねぇっていってんだろ。んなもん担任に返してこい」
「で、でも……」
「ウゼェなぁ。……そうだ、お前が代わりにやっといてくれよ」
……おおう。これはなかなかの問題児だ。
そんな彼に同調して、周囲の女の子たちも口々に吉沢さまを罵りはじめた。
いったいコレのどこがいいのだろう? さっきのやりとりで、私の中の印象は最悪になったのだけれど。
「……ちょっと、その言い方はなんですの?」
――そして、きっと私よりも苛立っているだろう人が、ひとり。
「ああ?」
「ああ? ……じゃ、ありませんわよ! どこの世界に自分の宿題を他人にやらせるバカがいるんですの! 仮に忙しくてできないのだとしても、そんなことは自分で先生とご相談なさい!」
烈火のごとき叱責に、教室がしんと静まり返る。
それもそうだろう。様子を見るに、いままで苑柳寺に意見できた人などこの教室にはいないはずだ。
くわえて凛子さまの声はよく通る。その迫力は、たしかに蘭香さまの血統を感じさせた。
「なにいってんだ、お前? 上に立つ人間が下の者を使うのは当たり前だろうが。よそのクラスの人間がごちゃごちゃ口出してんじゃねぇよ!」
「いつ彼があなたより下の人間になったというんです? 思いあがりもほどほどになさいませ! いまのわたくしたちの環境は親が築きあげたもの! その上にあぐらをかく子供など、醜悪の極みですわ!」
「ん、だとっ!?」
まさかの紛争勃発。
爆心地の温度が急上昇していくにつれ、戦々恐々とする周りはどんどん静かになっていく。
日本を代表する財閥の令嬢と御曹司の争いだ。巻き込まれたくない気持ちは痛いほどよくわかる。しかし、これ以上騒ぐとそろそろ大きな問題になってしまうだろう。
「――凛子さま、もう間もなく次の授業がはじまります」
「でもっ」
「苑柳寺さま、お騒がせして申し訳ありません。……しかし、凛子さまのおっしゃられたことはまぎれもない事実。ご自身が大人になられたとき、暗黒ノートに刻まれる歴史を少しでも減らしたいとお考えであれば、日々の態度をあらためられることをご進言いたします」
「なっ!? おまっ……!?」
「それでは……今日はこの辺にしておいてさしあげます。おぼえていらっしゃいませ」
一応、最後に悪役っぽい捨てゼリフを残して、いまだに猛り狂う凛子さまの腕を掴んで騒然とする教室を後にした。
「絶対にアイツぶっこ抜いてやりますわ!」という叫びを聴いたとき、私はたしかに、凛子さまと蘭香さまの血のつながりを感じたのであった。