意地悪な料理番
※『意地悪な姉』の続編です。
御機嫌よう。私の名前はアレクサンドラ。高貴で意地悪で美人そうな名前でしょう。その通り。私は悪女。しかもとびっきりの美女・・・・そう思っていたのは三日前まで。
今の私は、ぼろ雑巾みたいな灰色のドレスを着て、洗濯板でごしごし汚れた衣類を洗っている。三日も体を洗っていないから、体中薄汚れていて、汗臭い。
特に顔なんて、見られたもんじゃないわ。貴族の社交界にいた時は化粧とドレスと髪型で誤魔化していたけれど、私ってば、実はかなり地味な顔立ちをしているのよ。瞳は小さいし、顎はとがりすぎている。その上、今は泥だらけ。全部、私を攫ったあの男のせい。
苛々しながら大たらいをひっくり返して水を流すと、私は大股で天幕へ向かった。
私を誘拐した男―――キリルは、天幕の中で何やら手紙のようなものを書いていた。鋭い眼光と鷲鼻が野性的で男らしい。顔が好みなのは認める。でも、性格は最悪。
私がわざわざ来てあげたというのにキリルは視線を落としたまま手を動かしている。
「もう終わったのか」
「慣れているもの。お金がなくて使用人を雇えなかったから、身の回りのことは全部自分でやっていたわ。ほら、汚い手でしょう」
あかぎれでぼろぼろになった手をキリルの前に差し出してみせる。男爵家の娘として振る舞っていた時の私はいつもレースの手袋をつけていた。使用人を雇えないほど貧乏だと知られたくなかったから。
キリルはやっと手を止めて、私のみすぼらしい手をしげしげと眺めた。こんな手を見て何が楽しいのかしら。居心地の悪さを感じて引っ込めようとした手を掴まれる。私の手は男の口元に持っていかれてぺろりと舌で舐められた。思わず悲鳴が漏れた。
「何するのよ!頭おかしくなったんじゃない?」
キリルはしれっとして私の赤く擦り切れた指先を吸う。動揺した私は、空いている方の手を振り上げて、男の頬を思いっきり引っ叩いてしまった。予想以上に景気のいい音がして男の頬に真っ赤な手形が残った。
「私に口づけようなんて百年早いわ」
情けない捨て台詞を吐いて、危険な男から逃げ出した。背後で笑い声が聞こえた気がする。この私をからかうなんて、今に見ていなさい。
天幕を出たところで、フィーチェに出くわした。フィーチェはキリルが座長を務める旅一座の踊り子だ。私の弟イアンとキリルの妹ナターシャが駆け落ちした後、ナターシャの後釜として花形の踊り子になった。
フィーチェは色白で、ナターシャに及ばないまでもなかなかの美人だ。母親とナターシャは例外として、私は基本的に美人が好きだから、フィーチェのことも気に入っているのだけれど、相手の方は私が心底気に食わないようだ。キリルが好きだから、突然現れた私を憎んでいるみたい。フィーチェは私の足を思いっきり踏みつけた。
「邪魔よ、ブス女!」
「何すんのよ、性格ブス女!」
昨日まで大人しく足を踏まれていた私の突然の反撃にフィーチェは驚いた表情を浮かべた。私は人の驚いた顔を見るのが好きだ。特に美しい顔立ちの人間の驚いた顔は格別。
うふふふと笑う私を見るフィーチェの目が怯えている。フィーチェはじりじりと後ずさると、私の本性を暴露すべくキリルの天幕に駆け込んだ。
そういえば、フィーチェはまだ十五歳だった。大人げなかったかしら。私は鼻歌まじりで焚き火用の枝拾いに出かけた。
***
夕飯は野兎のシチューを作った。一座の人々は美味しい美味しいと言いながら食べてくれるので、作りがいがある。イアンはせっかく手の込んだ料理を作ってもがつがつ食べるだけでまずいとも旨いとも言ってくれなかった。ナターシャにも同じことをしていないといいのだけれど。
鍋の底に少しだけ残ったシチューを口に運んでいると、一座の古株らしき男に話しかけられた。亡くなった父親と同じ位の年に見える気の良さそうな男で、初対面の時からなんとなく好感を持っていた。男はヴァイオリン弾きだ。
「あんた、歌は歌えるかい?」
「下手よ。音楽の才能はないの」
「踊りはどうだね?」
「舞踏会では踊らないよう心がけていたわ。けが人を増やすから」
「じゃあ、一体何ができるんだい?」
男は少し呆れたように息を吐いた。
「洗濯と掃除と料理と裁縫は得意よ」
「あんたはどこぞの令嬢だと聞いたが、ちっともそれらしくないね」
「貧乏だったし、私に貴族の血は流れていないの」
男はそれきり黙って、私の頭を優しく撫でるので、父親のことを思い出した。焚き火の煙が目に染みて泣きそうになった。
***
フィーチェが駄々をこね始めた。私を一座から追放するまで、踊らないと宣言した。花形の踊り子であるフィーチェが踊らないとなると、一座には大きな痛手だ。一座の人々が私を睨むけれど、キリルは私を追放しようとしない。結局、居心地が悪くなった私は自ら出て行くことに決めた。
一座が海辺の街を通りがかった時、その街にある食堂の店主に頼んでしばらく働かせてもらう約束を取りつけた。
一座が街を離れる日、私は急に体調を崩した。キリルには、二、三日の間食堂で休ませてもらってから、一座を追いかけると言った。無理矢理私を連れていこうとするキリルを一座の仲間や食堂の店主が説得した。私はこっそり一座を見送ったけれど、キリルは一度も振り向かなかった。
その晩は、食堂の屋根裏部屋で眠った。キリルやフィーチェやヴァイオリン弾きに二度と会えないと思うと枕が水浸しになった。感傷的になるのは性に合わない。
世の中に旨い話はないってことをうっかり忘れていた。一座がいなくなると、店主は私を娼館に売り飛ばした。
娼館で久しぶりに着飾った私は、我ながら美しかった。なんというか、化粧映えする顔なのよね。安酒を飲む男達は、だらしなく口を開けて私を見つめる。男達のうちの誰かが私を抱くのだろう。誰でもいい気がした。そこに私の求める男はいない。鋭い目や鷲鼻を見ることはもう二度とない。
薄暗い部屋で一人の男が私に覆い被さった。古いベッドは二人分の体重に耐えきれず悲鳴を上げる。ドレスが脱がされて、男のざらついた舌が首筋を這った。唇に口づけられそうになって咄嗟に顔を逸らした時、窓の外に人影が見えた。
あっという間の出来事だった。窓ガラスが砕け散り、大柄の男が床に着地する。私に覆い被さっていた男は、鼠みたいにあっさりと壁に叩きつけられて気を失った。
大男―――キリルは、裸の私を毛布に包んで肩に担いだ。怒鳴らないことが逆に不気味だった。
***
フィーチェが泣いた。小さな子供みたいにわんわん泣いた。ナターシャの泣き方は綺麗すぎて嫌いだったけれど、フィーチェの泣き方は好きだ。全身を使って悲しみや苛立ちを表現する泣き方を可愛いと思う。
「可愛いフィーチェ」
思わず本音が漏れてしまい、フィーチェは驚いて泣き止んだ。私はフィーチェの白い額に口づけた。ずっと昔、泣き虫だったイアンにそうしてあげたように。あの時、顔を逸らしてよかった。得体の知れない男に口づけられた唇でフィーチェに触れることはできないもの。
可愛い子供は甘やかされるために存在する。私は、ちっともフィーチェを責める気はなかった。
泣き止んだフィーチェは私の体を濡らした布で丁寧に拭いた。フィーチェは、赤い跡を目に留める度、悔しげに唇を噛んだ。
私はフィーチェの細い体を抱き締めて眠った。フィーチェは温かくて柔らかくてミルクの匂いがした。
***
色々あって、私は旅一座に出戻った。ヴァイオリン弾きを初めとする一座の人々は、私の料理に舌鼓を打っている。キリルは、相変わらず仏頂面をしているが、時々人気のないところで私を抱き締める。そしたら、フィーチェが飛んできて、キリルを殴ったり蹴ったりする。フィーチェは最近、何度も同じ質問をしてくる。
「アレクサンドラは、私とキリルどちらが好き?」
キリルの顔も嫌いではないが、フィーチェの方が好きだ。そう答えると、フィーチェは満足げに微笑んで、キリルの足を踏みつける。