一冊の本すら読み通せない
読書自慢という人種が世の中にはいて、彼らは一ヶ月に10冊読むとか、一日に一冊読むとか言っている。
私は正直に言うと、最近ほとんど本を読んでいない。AIと議論したり、ゲームをしたり、動画を見たりしている。あまり本を読んでいない。
それでは本を読んでいないから駄目なのかというと、(駄目になってもいいや)と思っている。ただ、継続的に考えている事があり、それは読書という支えもさほど必要なくなったと認識しているので、その考えをどこまで推し進められるかを試している。
私の部屋は本だらけなのだが、実際には大して読んでいない。というより、全く読んでいないと言ってもいいかもしれない。
というのは、最近の私には「本を一冊読む」という事の意味がわからなくなっているからだ。その事について、少し語る。
私の枕元にはキルケゴールの「死に至る病」と、その実質的続編の「キリスト者の修練」がある。すぐ手に取れるところに置いてある。
「死に至る病」と「キリスト者の修練」は前後編の形になっていて、理屈としてはかなり整備されている。キルケゴールという哲学者は文章的はかなりわかりにくいタイプなのだが、この二冊を前後編として読むとキルケゴールの思想の全体像が見えてくる。
私は自分の思考の中心をドストエフスキーとシェイクスピアに置いているので、「ドストエフスキーがもし哲学者だったら」という「if」に対して、思想的にドストエフスキーに近いキルケゴールという人は、自分にとって大切な存在となっている。
私は「死に至る病」は二回か三回通読して、時々パラパラとめくるので、それなりに読んでいる方のはずだが、最近AIと議論していて、重要な部分を見落としていたのに気づいた。
それは、キルケゴールが「人間(主体)をある関係に置いた」と「死に至る病」の冒頭で言っている事だ。私はこれを見落としていた。
キルケゴールの考えでは、人間というのはそもそも関係であり、その関係に置いたのは神だという事になる。私はキルケゴールは、独我論的な自我、つまり現代的には、孤立した自我状態を脱する方法としてその外側に神を模索していると思っていた。
私がそう思っていたのは、私がまさにそのように考えていたからに他ならない。つまり、私は自身の中に何ら神の痕跡を見いだせず、それでも自己を、この大衆社会の価値観とは違う何かにつなげる必要があったから、私自身の孤立した自意識の外側に何かを求めようとしていた。
私はそうした自分自身の構造を勝手に当てはめて考えていたのだが、キルケゴールはそうではなかった。キルケゴールはそもそも、主体は本質的に孤立しているわけではない、それは既に関係の中に置かれている、と言っている。
この違いは大きいわけだが、私はそれなりに「死に至る病」を読んでいたつもりなのに、重要な部分を見落としていた。
私はこの事をAIに指摘されて気付いた。そして(自分は全く読めてないではないか)と思った。
同じような事がシェイクスピア「ハムレット」にもあって、それは以前に書いた文章に少し載せた。AIのおかげかもしれないが、最近はこういう事がよくある。
それで私が思うのは「一ヶ月に〇〇冊読んだ」という、読書自慢は一体、何を読んでいるのだろう?という事だ。
せめて、そんなに読書しているのなら、その読書の成果を自分の文章で表現して欲しいものだ。しかしこの手の読書自慢の書いたものに、読書量に見合った知的格闘、その人の読書の痕跡というのはまず現れない。彼らは『ただ』読んでいるだけなのではないか。
私はそれに引き換え一冊の本すら読み通す事ができないでいる。もしかしたら私は死ぬまでに重要な本一冊すら読み通せないのかもしれない。もっとも、それであったら、キルケゴールは聖書一冊を死ぬまで読み終えられなかったともいえるし、それはそれでいいのかもしれない。
そんなわけで、私は全く本を読めていない。死ぬまでに価値のある本を一冊でも読めれば良い方なのではないか。




