鬼桜
もしこの世に『鬼』が存在するならば。それはきっとあの場所にいる。
あの、美しくも恐ろしい、薄紅の花の下に。
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「桜の下には屍体が埋まっているのよ」
桜にまつわる、有名な一節。
わたしの言葉を受けて、友人は皮肉めいた微笑みを浮かべる。
「…だから、あんなに綺麗な花が咲くって?」
わたしはそれを横目で見ながら、澄まして缶紅茶のプルトップを開けた。
そろそろホット缶の恋しい季節だ。吹きつける風は冷たくて、日陰にいると無償に陽の光が愛しく思える。ほんの数ヶ月前までは、あんなに憎らしかった日差しが、だ。
「うーん。確かに人間なら養分いっぱいって感じもするけど……」
同じようにこちらは缶コーヒーを開けつつ、そんなそら恐ろしい事を言ってくれる。
コーヒーを一口啜り、友人は視線をやや上に持ち上げた。そして付け加えるように漏らす。
「それでも、一回で使いきりそうな気がするけどなあ」
視線の先、少しばかり高くなった空を背景に、網目のように枝が広がっている。
黒ずんだ木肌の、いささか優美さに欠ける枝には、すでに色付いた木の葉がぶら下がって風に揺れていた。そして──。
「あら、わかんないよ? もしかしたら使い切らないようにしているかもしれないし」
そうとしか思えないような、可憐な白い花が葉と一緒に揺れていた。
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西公園は、市内にいくつかあるいわゆる『桜の名所』の一つだ。
都市圏に存在するくせに何故か山の上で、そこに行くにはかなりの坂道や石段を越えて行かねばならない。
不便な事この上ないが、それでも桜の盛りには多くの人で賑わう場所である。
しかし、当然ながらそういう場所は、盛りを過ぎれば人足が遠のくもので、実際間近に冬の足跡が聞こえる晩秋となれば、閑古鳥が鳴くのも道理だった。
「どうだっていいんだけどね。昔の人は何だってこんな所に、しかも桜ばっかり植えたんだか。せめて常緑樹だったらこれ程寒々しい光景にはならなかったでしょうに」
そんな友人の弁ももっともだ。
ほとんどが桜なので、この時期ともなれば寒々とした眺めとなる。…でも。
「そう? わたしは空が近くて割りと好きだけどな」
これはここに来た理由の一つだったので正直に口にする。しかし友人は呆れ顔で言ってくれた。
「それだけならもっと空に近くて、しかも楽に行ける所もあるじゃない。わざわざ、ただでさえない体力を使ってまで来るほどのもの?」
見透かされている。
確かにそろそろ体力的に少々衰えを感じつつあるので、友人の言葉は否定出来ない。
「はいはい、わたしが見たいのは空じゃないですよ」
肩を竦めてわたしは笑う。
『花見』に誘ったのはわたしの方なのだ。
「こんな時期に花見なんて言うから、てっきり植物園にでも行くのかと思ったよ。わたしは」
その言い草に、わたしは苦笑するしかない。バスで数十分の所にいつでも花が咲き溢れている場所が存在するだけに。
けれど── それでは意味がないのだ。
「何言ってるの。花見っていうのは、昔から桜を愛でる事でしょうが」
秋も深まったこの季節、普通は桜など── それも花をつけた桜などまずない。秋に花をつける品種もあるそうだが、ここにあるのはソメイヨシノか山桜ばかり。
それこそ紅葉した葉桜か、葉すら落とした黒っぽい枝くらいしか見られるはずがない。
── 目の前にひっそりと立つ桜、『鬼桜』以外は。
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『鬼桜』には伝説がある。それこそ、「桜の下には~」と変わらない位、血腥い伝説が。
曰く──。
愛する姫君を自分だけのものにする為に、愛するその人自身を喰らった鬼の変わり果てた姿である、と。
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「なるほどね。その伝説もそれはそれで猟奇的だけど、だからってどうして秋に花が咲く訳?」
友人が不思議そうに尋ねてくる。確かにそう思うのも無理はない。しかし、もう少し柔らかい表現はできないものか。
わたしは苦笑して教えてやる。
「つまり、その姫君を喰らったっていうのが秋だったからなんだって。結構、ロマンティックだと思わない? 鬼は今でもその事を悔やんで涙を流す……」
「…桜色の?」
友人のその譬えが気に入って、わたしは頷く。
「そう……。桜色の、血の涙を」
そう言った瞬間。不意に視界が暗転した。
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緩やかに、生温かい風が吹き抜けていく。
そう、『抜けて』いく。どうやら私の体は実体でないらしい。混乱しつつもそう認識する。
体の中を通り抜けてゆく感覚は、想像以上に気持ちのいいものではなかった。
(何? これ……)
確かに先程まで狂い咲きした桜の下で、友人と他愛のない話をしていたはずだ。訳もわからず、傍らにいるはずの友人の姿を捜す。
(ねえ…… !?)
そこに、友人の姿はなかった。いたのは。
美しい赤い着物を身に着けた若い女だ。中途半端に乱れた髪が、風を受けて怪しく蠢く。
一体、いつの時代のものか。妙に時代がかった格好だ。そればかりか、常軌を逸した雰囲気を醸し出している。
理由はすぐにわかった。
目に鮮やかな赤い色。着物を彩るその真紅は、私に恐怖を与えた。
風が運ぶ錆びた臭い。これは── 血だ!!
立ち上がろうとしたわたしの目前で、女がこちらに顔を向けた。まるで何かを喰らったかのような朱唇がにたり、と笑う。
既視感。
わしたはこの女に会った事がある。でも…何処で?
「みいつけたあ……」
ひょっとしたら、それはまともな言葉ですらなかったのかもしれない。けれど、わたしの耳にはそう聞こえた。
コロサレル。
不意に思った。
ワタシハ、ミツカッテシマッタ。
カクレトオサネバ、ナラナカッタノニ。
女の白い手が、こちらに向かって伸ばされる。まるでスローモーションのように、それはひどくゆっくりに見えた。
指先の爪が、まるで刃物のように冷たい光を放っている。あれにかかれば、このすかすかの体はたちまち千々に引き裂かれてしまうだろう。
「妾の『鬼』。ようやっと見つけたぞ……!!」
歓喜の叫びをあげた女の歯は、すでに人のものではない。異常に発達した犬歯が目に焼き付く。
女はすぐ間近に迫っているのに、わたしの体は動かなかった。
金縛りにあったかのように、そこに釘付けされている。唯一自由な目が、女の動きを捉えているだけだ。
「そなたを喰らえば、妾は永遠に生きられるのだ!!」
『だから、「鬼」は絶滅してしまった』
女のものではない、誰かの声が何処かから囁く。
『人より少しばかり、自然との関わりが深かったばかりに』
誰だろう。聞き覚えがある。
『今でこそ人は八十の齢を生きるけれど、昔はそれほど長くは生きれなかったから……』
そうだ、この声は。
女の牙が、私の喉を捕らえる !
『人は、「鬼」を喰らったのよ』
この声は、『わたし』だ……!!
そして、視界は真紅に染まった。女の勝ち誇ったような笑い声が響く。
狂ったその笑い声はやがてゆっくりと遠ざかっていった。
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「ちょっと! どうしたの!? ねえ!?」
「……?」
気がつくと、目前に見知った顔。
視界は再び午後の柔らかい光に包まれている。
「大丈夫? 急に黙り込んだと思ったら、真っ青になるし……」
心配そうな声に、わたしは深い安堵のため息をつく。
これが現実。わたしの体はちゃんと風を受けとめている。
白昼夢と言うにはあまりに生々し過ぎる凄惨な幻夢。血の臭いすら覚えているほどだ。
「ごめん、ちょっと貧血……」
額に浮いた冷汗を拭って、わたしは微笑んでみせた。
見上げると、陽が少し傾いている。一体、どの位あの悪夢に捕われていたのだろう。
「もう…、心配させないでよね」
怒ったような言葉に安堵の響きがある。余程心配させてしまったらしい。
わたしはもう一度謝った。
「ごめん、もう、大丈夫だから」
ふと目についた地面に缶紅茶の缶が転がっていた。飲みかけで落としてしまったのだろう。乾いた地面に、紅茶の染みが広がっている。
そこに、一片の花弁が落ちた。
「…!?」
ぎくりとなる。すぐに風に攫われたその花弁に、あるべきでないものを見た気がしたのだ。
まるで血飛沫のような、真紅の──。
「…ない?」
「…えっ?」
「え? じゃない! そろそろ帰らないかって言ってるの! あんたの気分も悪そうだし、ね?」
「う、うん……」
心がまだあの悪夢に囚われたような感覚の中、半ば引き摺られるように、わたしはそうして帰路に着いた。
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── もしこの世に『鬼』が存在するならば。それはきっとあの場所にいる。
あの、美しくも恐ろしい、薄紅の花の下に。
「──…だから、今日は見逃してあげる」
「…え? 何か言った?」
「今度はちゃんと春に来ようって言ったの。ほら、足元気をつけて。まだふらふらしてる」
そう言って、その『人』は嗤った。
これまた古い作品です。
若干手直しが入っておりますが、初稿はHP開設以前のものだったりします。
母校には変な時期に狂い咲きする桜がありまして、それを題材に書いたものです。
何か埋まってるんじゃないかとか、理系学部もあった為、何か実験の結果ではとかもっぱらの噂でした(…)




