第1話 静寂の輪郭に触れる
朝の校舎は、世界から音を奪われたように静かだった。
まだ誰も踏んでいない砂の匂い。
窓ガラスに残る夜の冷たさ。
そのすべてが、今日がただの一日ではないことを告げているようだった。
本郷達也は、その静けさを乱さないように歩いていた。
黙っていれば、誰もが振り返るほど整った顔立ち。
けれど、彼を知る者は皆こう言う。
──話さなければ完璧なのに。
理由は単純だった。
達也は科学の話を始めると、周囲の空気を置き去りにしてしまう。
本人に悪気はない。ただ、世界の見え方が少し違うだけだ。
そして、その“違い”を面白がる人間はほとんどいない。
──ただひとりを除いて。
「達也、おはよ」
背中に軽い衝撃。
振り返ると、秋谷紗香が笑っていた。
美人ではない。
けれど、誰もが彼女を好きになる。
空気を明るくする、不思議な力を持っていた。
達也は、彼女の声だけは自然に受け止められる。
「おはよう、紗香」
「今日もイケメンだねぇ。黙ってれば」
「黙ってる必要ある?」
「あるよ。達也は喋ると難しいんだもん」
「難しいって何」
「褒めてるんだよ?」
紗香は笑いながら言う。
その笑顔は、達也の胸の奥に小さな波紋を落とした。
──この感覚は、なんだろう。
達也はまだ、その意味を知らない。
科学部の部室は、校舎の隅にある小さな部屋だった。
扉を開けると、電子部品の匂いがふわりと漂う。
科学部は達也ひとり。
部員ゼロの部活。
けれど、彼にとっては天国だった。
基板、センサー、LED、3Dプリンタ。
机の上には未完成の装置が散乱している。
達也は椅子に座り、ノートを開いた。
文化祭の出し物。
ひとりだからこそ、すべてが自由だった。
ページには、思いつくままのアイデアが並んでいる。
達也はペンを止め、天井を見上げた。
「……今年は、何を作ろう」
その声は静かで、どこか優しく、どこか危うかった。
“誰かの心を動かすもの”。
それを作りたいという思いだけが、胸の奥で静かに熱を持っていた。
放課後。
夕陽が校舎を赤く染める。
紗香は友達と笑いながら帰っていく。
達也は部室の窓から、その姿をぼんやり眺めていた。
幼馴染。
理解者。
そして──自分が唯一、自然に話せる相手。
紗香の笑顔を見ると、胸の奥が少しだけ温かくなる。
その理由を、達也はまだ言葉にできない。
窓を閉め、机に向き直る。
ノートの端に、小さく書かれた文字があった。
──“誰かの心を動かすものを作りたい”
その一行が、
後に文化祭を揺るがす“静かな狂気と恋の物語”の始まりになることを、
達也はまだ知らない。




