如月柚羽
ファイルに記された住所は、街の郊外にある廃工場だった。
俺は扉を押し開け、躊躇いもなく中へ入る。
錆びた鉄骨と割れた窓。
隙間から吹き込む風が、どこかで金属音をかすかに鳴らしている。
廃工場は、誰も寄りつかないほど寂れていて、
誰かの気配など感じないくらい内部は静寂に包まれていた。
一歩足を踏み入れた、その瞬間だった。
背後で、ごく小さな足音。
振り向くよりも早く、女の影が飛び込んでくる。
素人の動きだった。
だが躊躇いがなく、ただ真正面からぶつかってくる。
手に握られたナイフの刃先が、俺の胸元へ一直線に伸びた。
俺は腕を掴み、容易く止める。
「いたっ……!」
掴んだ反動で、女が握っていたナイフが指先から滑り落ち、
冷たい音を立てて床を転がった。
「っ……離して………!!」
震えた声。
だが、一歩も後ろには下がらない。
俺は、瞬時に女の喉へ手を伸ばす。
「っ……!!ぐぁ……!!」
女は他の標的と同じように苦しみながら藻掻いていた。
しかし、次の瞬間——動きがぴたりと止まった。
死を、受け入れたのか。
珍しい反応に、思わず視線が下へ落ちる。
そのとき初めて、標的である如月柚羽の“顔”が目に入った。
涙をこらえる瞳。
噛み締めた唇。
恐怖で震えながらも、目だけは折れずに向かってくる。
俺ではなく、
“人生”そのものを睨んでいた。
まるで——
“負けてたまるか”と訴えているようだった。
弱いはずの人間が、こんな目をするのか。
ほんのわずかに、そう思った。
胸の奥が、かすかに揺れた。
ただの誤差。
ほんの一瞬の出来事だ。
絞めていた力が抜ける。
俺は殺していない。
殺せなかった。
理由は分からない。
ただの気まぐれだ。
女は咳き込みながら、それでも俺を睨み返した。
「……なんで殺さないの。あなたなら簡単でしょ?」
掠れた声が、静かに落ちる。
俺は彼女の腕を掴み、引き寄せた。
「っ……やだ……!!離して……!!離してよ!!!!」
震えながらも抵抗する。
俺は淡々と告げる。
「ついてこい。」
理解が追いつかないまま、女は引きずられていく。
俺の世界に初めて生まれた“誤差”が、
どこへ向かうのか確かめるために。
——これが、如月柚羽との最初の出会いだった。
読んでくださりありがとうございます。
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