契約の向こう側
聖域の「牢獄」
大聖堂の一室。
そこは賓客用ではあるが、石造りの質素な部屋だった。
窓は美しいステンドグラスで飾られているが、外の景色は見えない。
「……皮肉なものね」
私は窓から差し込む七色の光を見ながら呟いた。
「アランの『牢獄』から逃れて、今度は、神様の『牢獄』とはね」
「……牢獄か。俺にとっては、極上の『砦』だがな」
ルシアンがベッドに腰掛け、愛剣の手入れをしながら答えた。
私たちは、この大聖堂に「保護」されてから三日が経過していた。
アランは、北の戦場からこの報告を受け、激怒していることだろう。
今頃、帝都の近衛兵が大聖堂の周りを遠巻きに包囲しているはずだ。
だが、彼らは中には入れない。
「……大神官様は、本当にわたくしたちを守り切れるのかしら」
「……どうだろうな。だが、あの爺、アラン以上に頑固そうだ」
ルシアンは、大神官のことを気に入っているようだった。
「アランが無理に突入してくれば、それこそアランは『神の敵』となる。……民衆が今度こそあいつを見限るだろう」
「……そうね」
(計画は、上手くいった)
(父もアンナも、南へ逃げ延びたはず)
(わたくしたちは安全な場所で、アランの自滅を待つことができる)
それなのに。
私の心は、あの日以来、奇妙なほど静かだった。
※※※※※※※※※※※※※※※※
憎悪の「変化」
(……憎悪が足りない)
私は自分の心の変化に、戸惑っていた。
回帰した直後、私を支えていたのは、アランとイザベラへの燃え盛る「憎悪」だけだった。
悪魔王も私の、その「憎悪」を支援すると言った。
だが今はどうだ。
塩の一件、アンナの救出、洪水。
わたくしは、アランを追い詰める一方で、1周目で救えなかった「人々」を救っている。
そして何よりも。
(……ルシアン)
私は、剣の手入れをする、彼の横顔を盗み見た。
彼もまた、私と同じ「処刑」の痛みを知る人だった。
彼は、私の「知識」を疑いながらも「共犯者」として信じてくれた。
彼は、刺客から私を守ってくれた。
彼と口づけを交わし、彼と共にこの帝都まで死線を越えてきた。
(……わたくし、この人のことを憎悪とは別の感情で……)
「……何だ。俺の顔に何かついているか」
ルシアンが私の視線に気づき、顔を上げた。
「……いえ。別に」
私は、慌てて顔をそむけた。
(ダメよエリアーナ)
(わたくしは復讐者)
(愛だの、信頼だの、そんな『生ぬるい』感情に流されては……)
悪魔王の、あの言葉が脳裏をよぎる。
だが、私の心臓はルシアンの存在を感じるたび、憎悪とは違う、温かい鼓動を打っていた。
※※※※※※※※※※※※※※※
ルシアンの「問い」
「……エリアーナ」
ルシアンが剣を置き、私の隣に立った。
「……何?」
「お前は、この後どうするつもりだ」
「……どうする、とは?」
「アランを、どうしたい?」
彼の金色の瞳は、真剣だった。
「……決まっているわ。わたくしがされたこと、全てあいつらに返すのよ」
「……処刑台に送るか」
「……」
私は答えられなかった。
1周目の私は、ただ彼らを「殺したい」と願った。
だが今は。
「……わからない」
私は正直に答えた。
「アランを殺しても、イザベラを殺しても、わたくしの、あの処刑台の記憶は消えない」
「……」
「わたくしは、ただ……」
ただ、何がしたいんだろう。
「……ただ、わたくしが『間違ってなかった』と、証明したいのかもしれない」
アランに愛されたことも、イザベラを信じたことも、全てが「間違い」だった、あの1周目の人生を。
「……そうか」
ルシアンは、私の答えを静かに受け止めた。
「……ルシアン。あなたは?」
「俺か?」
「あなたは、アランをどうしたいの?」
「俺は、決めている」
ルシアンは、即答した。
「……殺す」
「……!」
「アランも、現皇帝(アランの父)も、俺の両親を殺した。……その血の報いを受けさせる。それだけだ」
彼の憎悪は、私のように揺らいでいなかった。
(……そうよね。彼はわたくしと違う)
(彼の憎悪は、わたくしよりもずっと深くて暗い)
※※※※※※※※※※※※※※※
契約の「向こう側」
私は、彼の揺るぎない憎悪に安堵する一方で、どこか寂しさを感じていた。
「……わたくしたちは、やはり『共犯者』なのね。憎悪でしか繋がれない」
私が自嘲気味に呟いた。
その時。
ルシアンが私の手を強く握った。
「……エリアーナ」
「……え?」
「俺は、お前を『利用』するために契約婚約を結んだ」
「……知っているわ。わたくしも同じよ」
「だが」
ルシアンは私の手を彼の胸に引き寄せた。
「……今は違う」
「……」
「俺はお前が、アランへの憎悪を失ったとしても。……お前が復讐をやめたいと言ったとしても」
彼は私の瞳を真っ直ぐに見つめて言った。
「……俺はお前を手放すつもりはない」
「……ルシアン……!」
「お前が俺の『憎悪』の共犯者でなくなってもいい」
「……」
「……俺のただ一人の『女』として側にいろ」
それは契約でも取引でもない。
「冷血公爵」と呼ばれた男の、不器用な、しかし、真実の「告白」だった。
私は涙が溢れそうになるのを必死でこらえた。
(……わたくしはもう…… 憎悪だけじゃない)
私は彼の手を握り返した。
「……わたくしも同じよ。ルシアン」
「……」
「わたくしは、あなたの『憎悪』も、あなたの『過去』も、全て受け入れる」
「……エリアーナ」
「だから、わたくしをあなたの『共犯者』としてではなく……あなたの『妻』として側に置いて」
ルシアンは驚いた顔をした。
そして、あの夜会以来の穏やかな笑みを浮かべた。
「……ああ。誓おう」
大聖堂の七色の光の中で。
私たちの「契約」は、憎悪の向こう側にある確かな「愛」へと、その形を変えたのだった。




