三年前の目覚め
二度目の目覚め
(……寒い)(……憎い)
暗闇の中で、意識だけが燃えていた。
アラン。
イザベラ。
私を裏切った二人。私を見下ろした、あの男の無関心。私を嗤った、あの女の勝利の笑み。
あれが、私の「始まりの景色」。
忘れない。この憎悪だけは、地獄の果てまで――
その時。ふわり、と。ありえない感覚が、私を包んだ。
(……あたたかい?)
冷たい石畳でも、腐臭のする断頭台でもない。柔らかく、清潔なシーツの感触。
微かに香る、懐かしいリステン侯爵家(実家)の庭に咲く、白薔薇のアロマ。
(痛く、ない……?)
恐る恐る、目を開ける。
視界に飛び込んできたのは、雨に濡れた広場ではない。
見慣れた、私の部屋の天蓋。
「天国?」
いや、違う。あれほどの憎悪を抱いて死んだ私が、天国に行けるはずがない。
「では、地獄……?」
だとしたら、あまりにも生ぬるい罰だ。
私は、ゆっくりと身を起こした。
手足が動く。縄の跡すらない、滑らかな肌。
震える手で、首筋に触れる。……傷が、ない。
「夢……?」
夢だったというのか。あの処刑も、裏切りも。
私はベッドから転がり落ちるようにして、姿見(鏡)の前に立った。
鏡に映っていたのは――処刑台で血と泥にまみれた皇妃ではない。
頬はこけず、髪は艶やかな銀色を放ち、瞳にはまだ……絶望の色がない。
(これは ……十八歳の、私?)
※※※※※※※※※※※※※※※
侍女アンナとの再会
「お嬢様?」
背後で、扉が開く音がした。振り向くと、そこに立っていたのは、私の専属侍女だったアンナだ。1周目では、イザベラの策略で実家に追い返された、忠実な侍女。
「アンナ……? なぜあなたが……」
「何を仰いますか、お嬢様。……顔色が悪うございます。昨夜、眠れませんでしたか?」
アンナが心配そうに私に近寄り、私の額に手を当てようとする。私はその手を反射的に払いのけてしまった。
「ひっ……」
アンナが怯えたように目を見開く。
「ご、ごめんなさい、アンナ。違うの、ただ……」
私は混乱していた。アンナは生きている。
私に仕えている。
「あ……アンナ。今日、は……」
日付を、聞かなければ。
「今日は、何日?」
「え? ……帝国暦1052年、春の月の15日でございますが……」
――春の月の、15日。
雷に打たれたような衝撃が、私を貫いた。
それは、1周目の人生で、アラン様(皇太子)から「婚約の内示」が来ていた、その前日。
そして。私が処刑された日から、ちょうど三年前の日付だった。
※※※※※※※※※※※※※※※
悪魔の出現と囁き
「下がって、アンナ。少し、一人にして」
「か、しかし……」
「いいから!」
侍女を無理やり部屋から追い出し、私は扉に鍵をかけた。そのまま、ずるずるとドアに背を預けて床に座り込む。震えが止まらない。
夢じゃない。
あの痛みも、絶望も、雨の冷たさも、すべて本物だった。そして、この手足の感覚も、この部屋の暖かさも、本物だ。
私は、死んだ。そして、戻ってきたのだ。
(神様。あるいは、悪魔様。この機会をくださったのがどちらでも構わない)
私は、まだ何も失っていない。父も、母も、家の名誉も、私の命も。
その時だった。
部屋を包む陽光が、一瞬で深い藍色の闇に沈んだ。
窓から風が吹き込み、カーテンをめくり上げるように揺らす。
「……誰?」
部屋の隅の闇が、ゆらりと揺らめき、人の形を取った。それは、この世のものとは思えないほど美しい、しかし禍々しいオーラを放つ「男」だった。漆黒の髪、紅い瞳、そして猫のように縦に裂けた瞳孔。
(この男は人間ではない)
私は直感した。
「おや、ご心配なく。あなたを傷つけに来たわけではない」
その声は、深淵の底から響くように低く、しかし私の心を甘く撫でるような響きがあった。
「貴女は、確かに死んだ。そして、私も確かに、貴女の魂をこの手に掴みかけた」
「……あなたが、私を……?」
男は静かに頷いた。
「貴女の最後の叫びは、天をも焦がすほどの憎悪に満ちていた。それは、この世の何よりも純粋で、そして強大な力だ」
彼は私の目の前で膝をつき、私の頬に凍えるほど冷たい指先で触れる。
「誰も、貴女の苦しみを理解しなかった。誰も、貴女の叫びを聞き届けなかった。だが、私は違う。私は、貴女の絶望と憎悪の、真の理解者だ」
※※※※※※※※※※※※※
「あなたは誰?」
「魔を統べる者。と、だけ言っておこう」
魔を統べる…… 魔王、悪魔王!
悪魔王は立ち上がり、窓の外を見つめる。
「この世界は欺瞞に満ちている。愛という名の支配。正義という名の偽善。善良な者ほど踏みにじられ、裏切り者は栄華を極める」
その言葉は、私の心に深く刺さった。
「貴女は、その醜い真実を、命を懸けて知った。だからこそ、私は貴女に機会を与えた。望むがままに復讐を果たし、貴女の心を癒すことを許した」
「なぜ……?」
「……見届けたいのだ」
悪魔王は、優しげに、しかし底知れない笑みを浮かべた。
「貴女の復讐が、この腐りきった世界に、どんな『真実の華』を咲かせるのかを。望むなら、私は貴女の『支援者』となる。助言が必要な時は、いつでも私を呼べばいい」
その言葉と同時に、闇と悪魔王は光に溶けるように消え去った。
部屋には再び陽光が差し込み、まるで何もなかったかのような静寂が戻っていた。
幻覚だったのか。いいや。違う。
あの声は、確かに聞こえた。
そして、あの言葉は、私の心の奥底に、さらに確固たる復讐の炎を燃え上がらせたのだ。
コン、コン。扉がノックされる。
「お嬢様、大変です! 皇太子殿下(アラン様)の使者の方が、お見合いの件で至急お目通りを、と……!」
来た。破滅への、入り口。
私は立ち上がり、鏡の中の自分を見た。
その瞳は、1分前とは比べ物にならないほど冷たく、強く輝いていた。
「……ええ。わかったわ。すぐにお会いしましょう」
私は扉に向かって歩き出す。
(おまえたちだけは絶対に許さない)




