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第9章:暁に咲く蓮 ~揺れる心の幻影~

 夜明け、世界が目覚める前。池の水面は淡い光を映し、朝靄が幻影のように漂う。空気はひんやりと湿り、この時間だけが俺の混乱した心を落ち着かせてくれる唯一の救いだった。


 あいつは狂っている……それなのに、俺があの部屋で感じた安心感は何だったんだ?


 頭では拒絶しろと理性が叫んでいるのに、心の奥底では蓮の声を求めている自分がいる。それは母から叩き込まれた武道の精神では抑え込めない、別種の真実だった。理性と感情の狭間で板挟みになり、俺はどちらを選べばいいのか見当もつかない。


 ぼんやりと水面を見つめていると、空が青からピンクに染まり始める。その幻想的な美しさに見とれながら空を見上げると、不意に言葉がこぼれた。


「また見つかった……」


 自分でも、なぜそんなことを呟いたのか理解できない。心臓が早鐘を打つように鳴り響く。まるで何かに取り憑かれたかのように、言葉が勝手に溢れ出す。


「……何が?」


 すぐ後ろから、蓮の声がした。


 驚きに肩が強張るが、俺は視線を前に向けたまま答える。その声には、自分でも気づかないような切なさが滲んでいた。


「永遠が。海と溶け合う太陽が」


 蓮は一瞬沈黙し、かすかに微笑む。その微笑みには、俺の心を見透かしているような深さがあり、背筋に冷たいものが走った。


「先輩は『地獄の季節』が好きなんですか?」


 その問いかけに、俺は動揺を隠しきれない。これは紛れもなく蓮に教えてもらった詩だ。蓮に影響され過ぎている俺の思考がバレることが恥ずかしくてたまらない。


「……なんだよ、別にいいだろ」


 素っ気ない返事をしたが、その裏で俺の心は激しく揺れ動く。蓮との出会いは偽りだったかもしれない。でも、その後に芽生えた感情は、まぎれもない真実だった。それだけは確かだ。


「先輩は破滅に向かうものに惹かれる。だから僕が気になるんでしょう?」


 その言葉に、俺の胸が痛むように締め付けられる。図星を突かれたと思った。確かに俺は、危険で美しいものに惹かれる。武道の精神とは真逆の、甘美な毒のようなものに。


「……っ、何だよストーカーのくせに!自意識過剰!」


 反発してみせたが、蓮の表情は、まるで俺の心の奥底まで見通して、何もかも俺の事を理解している、という顔をしていた。そのことが恐ろしい。同時に、見透かされることへの快感めいたものが、胸の奥でうごめくのを感じる。


「地獄は時として、美しいものですから」


 蓮の言葉に、俺は答えられなかった。その静寂の中、水面で一輪の蓮の花が開いていく。朝焼けの光を受けて、まるで血のように赤く……。


 その瞬間、俺の中で何かがほころび始める。蓮という存在への拒絶と憧憬が、複雑に絡み合いながら。


「蓮は夜明けに開くんです。でも、月の光がなければ、夜を越えられない」


 俺は黙って、その光景を見つめた。近づきたいのに、近づけない。触れてはいけないものが、目の前にある。それは、花なのか、それとも蓮という存在そのものなのか。


 月が完全に沈む前、最後の光が水面に映る。その儚い輝きの中で、俺たちは言葉を失った。しかし、その沈黙は重たくはなく、むしろ心地よいものだった。やがて太陽が昇り、世界は新しい朝の色に染まっていく。


 蓮と並んで立っているこの時間が、なぜかとても自然に感じられた。彼の狂気的な愛に恐怖を感じながらも、同時に安らぎを覚えている自分がいる。この矛盾した感情を、俺はまだ理解できずにいた。


 でも、ひとつだけ分かることがある。俺は蓮から逃げ切れない。もう、逃げたくないのかもしれない。


 ◇


 翌夜、俺はベッドで天井を見つめていた。レースのカーテンから漏れる月の光が、心の混乱を浮き彫りにする。蓮の狂気的な愛に対する恐怖と、それに相反する安心感が交錯している。


 なぜ俺は、あいつの狂気に惹かれていくんだ……。


「お前の愛は、破滅への道かもしれない」


 闇に向かって囁く。その言葉には、どこか甘美な響きがあった。拒絶すべき狂気に惹かれていく自分が、怖くもあり、心地よくもあった。


「俺のどこがそんなに特別なんだ?」


 バスケの試合での真剣な眼差し、授業中の何気ない仕草。それらを一つ一つ丁寧に切り取り、描き留めていた蓮の想い。その執着的なまでの愛情は、確かに怖かった。でも、その怖さの中にある、どこか懐かしい温もりに、俺は気づき始めていた。


 机の上には、あの日の美術室から持ち帰った蓮のスケッチブックがある。夜更けの暗闇の中で、それは不吉な存在感を放っている。開いてはいけないと理性が叫んでいるのに、指先は勝手にページをめくっていく。


 月光に照らされた俺の寝顔。練習中の汗に濡れた髪。授業中のぼんやりとした表情。全て、俺が気づかない瞬間に切り取られた姿だった。


「4月18日、先輩は数学の授業中に窓の外を見つめていた。その横顔は憂いを帯びて、まるで『野蛮』で謳われた『美しき存在』のよう」


「5月7日、先輩が友人と笑い合う姿を見た。その笑顔は僕には向けられない。嫉妬で手が震えた」


「5月20日、先輩の唇の形を何度も描き直した。いつか、この唇から僕の名前を聞きたい」


 ページをめくる度に、蓮の執着が深まっていく様子が手に取るように分かる。最初は淡い憧憬だったものが、次第に狂気じみた愛へと変貌していく過程。そして最後のページには、血のように赤いインクで書かれた文字があった。


「大和先輩の全てを知りたい。先輩の苦しみも、喜びも、秘密も。そして、僕だけが先輩を理解できる存在になりたい」


 文字の下には、俺の写真が何枚も貼られている。どれも俺が知らない間に撮られたもので、まるで監視されているかのような気味の悪さを感じる。


 それでも、俺は嫌悪感よりも先に、別の感情が湧き上がってくるのを感じていた。誰かに、これほどまでに求められたことがあっただろうか。完璧であることを求められ続けてきた俺にとって、弱さも含めて愛されるという経験は、毒のように甘美だった。


 携帯が震える。蓮からの深夜のメッセージだ。


『先輩、眠れていますか?僕は眠れません。

 先輩の寝顔を思い浮かべながら、絵を描いています。

 でも、記憶だけでは足りません。もっと近くで見つめていたい。

 先輩の全ての表情を、この目に焼き付けたい』


 続けてもう一通。


『先輩が僕を拒絶しても、この想いは消えません。

 むしろ、燃え上がるばかりです。

 先輩の困った顔も、怒った顔も、全て愛おしい。

 僕は、先輩の感情を動かせているということが、嬉しくてたまりません』


 画面を見つめていると、蓮の顔が浮かんでくる。あの儚げな美しさの奥に隠された、漆黒の闇の中の燃え滾る炎。その二面性に、俺は次第に惹かれていく自分を感じていた。


 普通なら恐怖を感じるはずの状況なのに、なぜか安心感を覚えている。蓮の狂気的な愛に包まれることで、俺は初めて自分の存在価値を実感していた。


 月明りが、部屋を幻想的に照らしている。その光の中で、俺は自分の気持ちと向き合おうとしていた。


 蓮への恐怖と、それに相反する安堵感。この矛盾した感情の正体は何なのか。


「俺も、あいつに惹かれていたんだ……」


 声に出して言うと、その言葉の重みが胸に響く。認めたくなかった感情が、ついに表面に現れた瞬間だった。


「なんて皮肉だ。俺を追いかけていた相手に、いつの間にか追いつめられていた」


 でも、それは不快な感覚ではなかった。むしろ、心地よい諦めのような、安堵のような感情。逃れたいのに、離れられない。そんな矛盾した感情が俺の心を満たしていた。


 蓮の狂気的な愛に恐怖を感じながらも、同時にその愛の深さに心を奪われている。この感情には名前をつけることができない。愛なのか、依存なのか。


 ただ一つ確かなのは、俺の心がもう、蓮なしでは満たされないということだった。彼の存在が、俺の中で大きくなっていく。それは恐ろしくもあり、同時に心地よくもあった。


 俺は自分の気持ちと向き合い続けていた。明日になれば、また蓮と顔を合わせることになる。その時、俺はどんな顔をして彼と接すればいいのだろうか。


 答えは見つからないまま、夜は更けていく。ただ、蓮への想いだけが、俺の心の中で静かに燃え続けていた。


 蓮の狂気的な愛は確かに危険だ。しかし、その愛の純粋さと深さは、俺の心を確実に捉えている。逃れたいと思いながらも、同時に深みにはまっていく感覚。それは恐ろしくも、心地よい堕落だった。


 窓の外では、夜明けが近づいている。新しい一日が始まろうとしているのに、俺の心は蓮の闇に向かって沈んでいく。


 それでも、この感情から逃げるつもりはもうなかった。蓮の愛を受け入れることで、俺もまた変わっていくのだろう。その変化が破滅をもたらすとしても、俺はもう後戻りできない場所にいる。


 月が西の空に傾いていく中、俺は静かに決意を固めていた。明日、蓮に会ったら、この気持ちを伝えよう。俺の中で生まれた、歪んだ愛の芽を。


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