第6章:狂愛記憶画廊 ~母の思い出~(蓮視点)
僕の部屋には、二つの影が色濃く残っている。本棚に並ぶフランス文学や詩集は母の置き土産で、整然と配置された画材は父から受け継いだものだった。そして、壁一面に描かれた大和先輩のスケッチ――これは僕だけの狂った愛の証拠である。
夜更けに、僕はよく母の残した詩集を開く。ページをめくる度に、彼女の残り香が微かに立ち上がってくる。バラの香水と、少しの狂気の匂い。
「人は誰でも、二つの顔を持っているのよ」
10歳の僕は、母の膝の上でランボーの『地獄の季節』を開いていた。まだ理解できない言葉の海の中で、母の声だけが道標のように響く。母の指が僕の頬を撫でながら、その声は蜜のように甘く、毒のように美しい。
「表の顔と、心の中の顔。でも、どちらも本物なの。美しいものには、必ず影がある。光があれば影ができるように。でも、その影まで愛せる人こそが、本当の愛を知っているのよ」
窓際に立つ母は、夕陽に照らされてまるで聖母のよう。その美しさは儚く、だからこそ永遠に心に刻まれている。僕は彼女の言葉の意味を必死に理解しようとした。
「蓮、あなたにも見える?人の心の奥底が」
母の瞳が僕を捉えた。その眼差しは愛情に満ちていながら、どこか狂気を孕んでいる。まるで、深い井戸の底を覗き込むような、危険で美しい光を宿していた。
「僕には……わからない」
「いつか分かるわ。あなたは私の子だもの」
母の声には、予言めいた確信があった。それは愛の言葉であり、同時に呪いでもあった。
それが、母が去る前の最後の言葉となった。翌日、母の姿は消えていた。枕元に残されたのは、血のように赤いバラと、一冊の詩集だけだった。その詩集の扉には、母の美しい文字でこう書かれていた。
「愛することは、美しく狂い咲くこと。蓮へ――母より」
◇
中学2年の僕は、久しぶりに父親に母の話を聞いてみた。父は書斎で絵を描いていた。母がいなくなってから、父の絵は色を失い、どこか寂しげになっている。
「父さん、なんで母さんは僕たちを置いて行ったの?」
父の手が止まり、筆についた絵の具が、ゆっくりと滴り落ちる。
「お前のお母さんは……感受性が強すぎたんだ。人の心の闇まで見通してしまう目を持っていた。でも、見えすぎることは時として残酷なんだ」
父の声は悲しみに沈んでいる。彼もまた、母の狂気に魅了され、そして傷つけられた一人なのだろう。
「彼女は愛することが、破壊することだと信じていた。だから……」
父の言葉は途中で途切れ、その沈黙の中に、父の深い傷を感じ取ることができた。
その夜、僕は母の残した詩集を開いた。ページの間から落ちた写真――若い頃の母が、柔らかな笑顔で微笑んでいる。でも、その瞳の奥に潜む危険な光を、僕は見逃さなかった。
母から受け継いだ「見えすぎる目」は、やがて大和先輩という完璧な被写体を見出すことになる。与えられなかった母からの愛を、先輩を愛することで埋めようとしているのかもしれない。
「僕は見られることを恐れていた。だから、自分から見る側になったんだ」
鏡に映る自分の顔は、母にそっくりだった。同じ瞳、同じ危険な美しさへの渇望を抱いている。
◇
母が出て行ってから半年が過ぎた頃、母からのエアメールが届いた。便箋には、震える文字でこう綴られていた。
『蓮へ。私は今、詩人の恋人とベルヴィルのフラットで暮らしています。20区、rue de Belleville 72番地。窓からはパリの街が見える。でも、いつまでここにいるかは分からない。もし、あなたが愛を見つけたら、美しく狂い咲きなさい。その影までも愛すの』
16歳になった僕は、その住所を握りしめてパリに飛んだ。父にはパリで絵を学ぶ為だと留学の許可を得たけど、心の中の思惑は違っていた。半分は母さんに会いたいという想いを胸に秘めて旅立ったのだ。
ベルヴィル――パリ20区の雑多な移民街。グラフィティに埋め尽くされた壁、アラビア語と中国語の看板が入り混じる通り、坂道に建ち並ぶ古いアパルトマン。rue de Belleville 72番地、501のドアを叩いた時、僕の心臓は破裂しそうだった。
でも、ドアを開けたのは知らない男だった。フランス語はあまり分からない僕に、つたない英語で伝えてくれた。
「日本人の女性はもうここにはいない。自分は半年前からこの部屋で暮らしている」、母の引っ越し先も知らないと。僕はその言葉に絶望する。
悪いなと言いながら、男はタバコの煙を吐き、無関心にドアを閉めた。
フラットのエレベーターを降りた僕は、フラフラと歩き外へ出る。そして、石畳の上に立ち尽くした。
手がかりを失くした僕は、rue de Belleville付近のカフェに、母さんに会えるかもなんて淡い期待を持ちながら、スクールの合間に通う。
その時、何故か睡蓮の絵をよく描いていた。濁った水面に浮かぶ清らかな花。青緑の花弁が、微かに光を放っている。いつか出会う誰かの瞳を思い描きながら……。
日中は美術のサマースクールで絵を学び、夜はスクールの寮で一人、ランボーの『イリュミナシオン』を読んだ。放浪の詩人が見た幻視の世界が、僕の孤独を言葉にしてくれた。
詩を書き始めたのは、その頃だ。母の手紙を何度も読み返し、『愛を見つけたら、美しく狂い咲きなさい。その影までも愛すの』という言葉を魂に刻み込む。
結局、母には会えずにパリを後にする事になった。母が見たであろう風景――モンマルトルの丘から見下ろすパリの街、エッフェル塔、セーヌ川。彼女はここで詩人と愛を育んでいたのだ。複雑な気持ちもあったけど、何故か彼女と同じ景色を見れたと思うと、気持ちは晴れやかだった。
その後、17歳で帰国し、日本の高校に入学した。クラスメイトよりひとつ年上だけど、あまり気にする人もいなくて、みんなフレンドリーに接してくれている。
僕は図書委員になった。母の残した詩集を読み返しながら、静かな時間を過ごすため。ランボーの『イリュミナシオン』を広げながら、自作の詩を呟く。
「『私は美しい顔の中に全てを閉じ込めることができる――あなたの欲望も、絶望も、愛も』」
僕の詩は、矛盾を抱えた人への愛を綴っている。欲望と孤独、善と悪、理性と狂気――それら全てを内包する人。“美しい顔”とは、ただ整った容姿のことではない。
そんな人は、詩の中にしか存在しないものだと思っていたが、予想は裏切られた……彼の存在によって。
その日、午後の柔らかな光が差し込む図書室で、僕は本の整理をしていた。その時、低い声が静寂を破った。
「えっと……どこにあるんだろう」
顔を上げると、そこには大和青葉が立っていた。剣道部主将として知られる彼が、図書室で本を探す姿は意外で、それだけで心を奪われる。
初めて見る至近距離の彼は、思っていたより美しかった。ギリシャ神話の登場人物のような神々しさも兼ね備えている。
強さと孤独、優しさと硬さ、制服越しに見える肩のライン、無造作に髪をかき上げる仕草、ふとした瞬間に見せる表情の変化――すべてが僕の目に焼きついた。
「何かお探しですか?」
思ったよりも震えた自分の声に僕は驚く。大和先輩が振り向いた瞬間、時間が止まったような気がした。ブルーローズの花びらが舞い散るような錯覚に陥り、鼓動が高鳴る音だけが脳内で響き渡る。
「ああ……武術の本を探して。『武士道』とか、『禅と剣術』みたいなやつ」
普段の凛々しい姿とは違う、戸惑った表情で、思わず微笑んでしまう。本棚の場所を案内しながら、彼の気配を感じる。その存在感は、まるで月光のように清らかで、確かな熱を帯びていた。
探していた本を差し出した瞬間の、指が触れ合った一瞬の接触が、永遠のように感じられた。先輩の手は僕より大きく、少しだけ冷たかった。その瞬間、電流のようなものが走って、僕は慌てて手を引いた。先輩は不思議そうに僕を見つめていたけれど、僕の胸は激しく鼓動していた。
「ありがとう」
低い声で礼を言われた時、僕の心臓は跳ねた。こんなに近くで彼の声を聞くのは初めてで、思わず頬が熱くなる。
「あの……ついでに、これもどうですか?」
差し出したランボーの詩集に、大和先輩は眉をひそめた。
「詩集?」
「武術の精神と詩の世界は、意外にも似ているんですよ。特にこの詩は……」
大和青葉に出会ったとき――僕は確信してしまった。
「……見つかった」
時が止まったような瞬間である。彼の顔は、静かで、強くて、どこか痛ましかった。まさに”僕の太陽”。詩の中から抜け出したような、完成された”美しい顔”。
最初は戸惑いだった。「観察」し、「理解」し、「描写」しようとした。けれど、そのうちに言葉が追いつかなくなった。
目で見るよりも早く、感情が反応してしまう。僕の中の”芸術”が、強い憧れに変わっていく。
これは”描きたい”ではなく、“近づきたい”という衝動であった。
”海と溶け合う太陽”のようだった。手を伸ばしても届かない、でも触れたくなる――そんな、救いようのない矛盾。
そうして僕は、詩の中の”美しい顔”が現実になったら、どうなるかを知ることになった。
これは、信仰にも似ている。でも、“信仰”と”愛”は紙一重だ。
ただ一つ言えるのは、僕の心はその日から、“言葉”ではなく”彼”によって動くようになったということ。
◇
その日以降、僕は図書室で彼を待つようになった。大和先輩は月に二度、決まって図書室を訪れる。
二週間後、僕は放課後の図書室で、いつものように本の整理をしていた。そこに大和先輩が現れた時、心臓が大きく跳ねる。借りていた『禅と剣術』を返却しに来た時の事だ。
「加賀見、また会えたな」
「はい!」
「またランボー?」
先輩は僕の手元の本を覗き込んだ。その仕草は、以前よりも自然になっている。
「はい。今日は『地獄の季節』です」
「その詩集も貸してくれないか?」
予想外の申し出に、僕は一瞬言葉を失った。
「この間の『イリュミナシオン』が面白かったんだ。特に……なんていうか、言葉の向こう側に見える風景が」
先輩は少し照れたように頭を掻いた。その仕草があまりにも可愛くて、思わず見とれてしまう。いつもの凛々しい姿とは全く違う、無防備な表情。
「お前の言った通り、何か引っかかるものがあるんだ」
僕のことを「お前」って呼んでくれる。それだけで、少し親しくなれた気がして、ときめきが止まらない。
その瞬間に、彼の瞳に映る光が、僕の心に矢を刺した。武道に打ち込む彼が、詩の言葉に魅せられる姿。その二面性に、僕は息を呑んだ。
「先輩は、美しい矛盾を持っているんですね」
思わず漏れた言葉に、彼は首を傾げる。
「矛盾?」
「はい。厳格な規律と繊細な感性。強さと優しさ。相反するものを、先輩は自然に併せ持っているんです」
先輩は少し困ったように笑った。その表情が、また新しい「顔」として僕の中に刻まれていく。
「実は、俺も自分でよく分からないんだ」
先輩は窓際に寄りかかりながら言う。
「強くなきゃいけない。でも、それだけじゃない気がして」
その言葉に、僕は震えるような衝動を覚えた。
ああ、これが運命なんだ。母が言っていた「見えすぎる目」で、彼の本質を捉えてしまったのだ。
「先輩……剣道の試合の時と、今の表情は全然違いますね」
思わず口をついて出た言葉に、先輩は少し驚いたような顔になる。
「俺の事、よく見てるんだな」
その言葉に、僕の頭は一瞬で真っ白になった。見ています!いつも、どこでも、先輩の全てを!と心の中で叫んでいた。先輩の表情は怒っているわけでもなく、むしろ少し嬉しそうに見える。
「あ、あの……」
慌てる僕を見て、先輩は小さく笑う。その笑顔は僕だけに向けられたもので、胸が締め付けられるほど愛おしい。
武道の本を借りに来る時は、どこか初々しい表情を見せ、その姿は体育館での凛々しい佇まいとは違う、誰も知らない一面だった。
僕の頭の中では常に二つの声が交錯する。一つは計算高い自分、もう一つは純粋に大和先輩を想う自分。
その夜、僕は母の残した詩集を開いた。最後のページに書かれた言葉が目に入る。
「愛することは、美しく狂うこと。そして、その狂気さえも愛すること」
母の言葉の意味を、ようやく理解し始めた。
僕は、彼の「鏡」になることを決めていた。観察対象から、彼の心の一部になりたいと渇望する自分に驚く。
そして同時に、不安も芽生えた。この想いは、母が残した呪いの一部なのだろうか。美しいものを見つけて、それを独り占めしたくなる衝動。それは愛なのか、それとも支配欲なのか。
自分の変化に戸惑いながらも、僕は先輩を見つめることをやめられない。まるで蝶が炎に向かうように、破滅と分かっていても止められないのだ。
先輩を初めて見た日、僕はすでに気づいていた。あの時パリで描いた睡蓮の花弁の色が、先輩の瞳と同じだったことに……青緑の、深く澄んだ特別な色。まるで運命が、あの日から僕を先輩へと導いていたかのように。
ベルヴィルの混沌が僕に狂気を教えてくれたようだ。先輩を見つけた時、その狂気が薔薇のように棘を持って花開いた。母が残した血のように赤い薔薇のように、美しく、危険な愛という名の旅路へ。




