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第5章:蜜月と崩壊 ~欠落する日常~

 学園祭まで、あと三日。雨季特有の重たい空気が教室を満たしている。


 教室は模造紙や画用紙で溢れ返り、白い粉と絵の具の匂いが鼻をつく。俺は教室の隅で段ボール片を積み上げながら、そっと隣を見る。蓮は真剣な顔で色紙にタイトルを描いている。


 筆を持つ白くて細長い指が美しく、その横顔から視線を逸らすのが難しい。こんな風に感じるのは、あいつが俺にとって特別だからか……?


「先輩、そのポスター持ってきてくれませんか?」


 蓮が軽く声をかける。その声に、反射的に顔がほころぶ自分がいる。


「了解。お前、最近やたら俺をこき使うな?」


「先輩が頼りになるからですよ」


 くすりと笑うその表情に、胸の奥がざわめく。最近の俺は、かなりおかしい。自分でも気づくほどに。


 壁にポスターを貼ろうと脚立を上っていた時、蓮が背後から駆け寄って脚立を支えてくれる。


「気をつけてください。ぐらついてます」


「おう、ありがとな」


 蓮の手が脚立を支える姿を見下ろしながら、ふと言葉が出る。


「……なあ、蓮」


「はい?」


「お前、付き合ってるやつ、いるのか?」


 自分でも、なぜそんなことを聞いたのかよくわからない。ただ――知りたかった。


 蓮は意外そうに目を見開いてから、すぐに笑う。あの、少し意地悪な、でもどこか愛らしい笑みで。


「先輩は、僕が誰かと付き合ってるか気になるんですか?」


「べ、別にそういことじゃ……!」


 慌てて言い訳しようとして、セロテープのカッターが指に当たった。


「っ、痛っ……」


 やってしまった。赤い線が、じんわりと滲んでいる。


「先輩、大丈夫ですか?」


 蓮がすっと俺の手を取る。その手が、やけに冷たくて柔らかい。


「ちょ、いいって、自分で――」


「……動かないでください」


 そのまま、蓮の唇が俺の指先に触れた。


「……っ!」


 舌の感触まで、はっきりわかる。熱いというより、痺れるような静電気みたいな感覚が走る。


「ちょ、お前……!」


「血、出てるから……ちょっと大人しくしてください」


 指を口に含んだまま、こちらを見つめる。その顔は優しいのに、瞳の奥が光っている。何かを押し殺しているような、危険な熱を含んだ色だった。


 やべぇ……。


 顔が火照ってくるのが、自分でもわかる。その時間は1分ほどだったが、俺にはもっと長く感じられた。


 もういいからと指を蓮の口から取り出す。これ以上は本当に無理だった。いかがわしい気持ちになりそうで……。


「先輩って、焦るとすぐ怪我しますよね」


「うるせぇ……!」


 背を向けながら、心臓の音が騒がしくて落ち着かない。なんなんだよこれ、本当に……。


 夕方、教室はオレンジに染まっている。飾り付けがだいぶ進み、ようやく一息ついた。蓮がチョークで黒板のフチに文字を描いている。その後ろ姿が儚くて、目を奪われる。


 お前が誰かに取られたら嫌かもな……。


 ふと、そんな考えがよぎって、思わず自分を叱った。


 ◇


 その後、黒板に装飾を付け始めた時、蓮の様子がおかしくなった。元気がなくなっていく彼を俺は心配していた。沈黙が続く二人の間に不穏な空気が流れ始める。蓮の装飾を付ける手が小刻みに震えている。


 最近の距離感については話し合わないといけないかもと思う。図書室での視線が執着めいていること。休み時間の「偶然」の出会いが増えすぎていること。


 マッサージの時の指先に宿る、抑えきれない感情のような震え。そして何より、さっきの怪我をしたからといって指を舐めたり……距離が近すぎる……。


 ささいな変化の積み重ねが、俺にも違和感を植え付けていた。俺は我慢できずに蓮に尋ねた。


「お前、最近変だぞ?何か変なことでも考えてる?」


「いいえ、緊張しているんです。ちょっと……」


 蓮の声が震えている。俺は嫌な予感を抱いていた。俺達の関係の事でなにか悩んでいるのか?なにか悩みがあるのか?俺がなにかしたとか……。


「先輩」


 俺が振り返ると、蓮がこっちを向いて立っていた。白い肌が曇天の光に青白く照らされている。


「話があります」


 蓮の声にはこれまでにない重みがあり、覚悟のようなものが滲んでいる。俺は黒板の装飾から手を離し、蓮に体を向ける。窓を叩く雨音が、二人の間の緊張を高めていく。


「僕たちの出会い……」


 蓮は一度、深く息を吸った。その仕草に、いつもの優雅さはない。


「全て、僕が仕組みました」


 教室の空気が、一瞬で凍りついた。


「体育館裏での助け……あれは僕が計画しました。不良たちに、お金を払って協力してもらったんです」


「……は?」


 まるで、冗談のようだった。けれど、蓮の表情には一切の冗談の色がない。言葉が、一つ一つ刃となって、俺を突き刺していく。


「ふざけんなよ」


 それしか、言葉が出ない。


「図書室での再会も、パンの差し入れも……待ち伏せしてたんです」


 蓮の声が震えている。


 俺の中で、何かが音を立てて崩れる。今までの違和感が、一気に形を成していく。


「どういうことだ?」


 俺の声が低く響く。その瞳には、裏切られた悲しみと、理解できない何かへの戸惑いが混ざる。


「先輩に近づきたかったから」


 蓮の瞳が、狂気的な輝きを帯びる。


「先輩の全てが欲しくて、その美しさも、強さも、優しさも……自分のものにしたかった」


「俺を……騙してたのか?」


 声が震えるのを、止められない。


「違います!」


 蓮の叫びが、教室に響く。その声には、これまで隠してきた感情の全てが込められていた。


「だったら、どう違うんだよ!!」


 怒鳴った瞬間、自分の喉が痛んだ。蓮の顔が、怯えたように揺れる。


「確かに最初は僕が仕組みました。でも……」


 蓮が一歩近づくたび、俺は一歩後退する。まるで、永遠に交わることのない平行線のように。


「普通に声かけて、知り合いになればいいんじゃないの?」


 俺の声には、怒りよりも深い悲しみが滲む。


「僕には、それができなくて、ズルするしか先輩に近づけないと思ったんです……」


「去年から、図書室で会ったことあったし、そんなことしなくても、知り合いになれたと思うんだけど」


 その言葉に、蓮は息を呑んだ。俺が彼のことを、既に認識していたとは思わなかったようだ。


「でも、僕は先輩の完璧な姿に圧倒されて……自分から話しかけるなんてできませんでした……でも、どうしても、近づきたくて……」


 俺の声が冷たく響く。


「観察対象?実験台?それとも、お前の歪んだ愛の捌け口?」


 その言葉の一つ一つが、彼の胸を刺し貫いているだろう。でも止められない。


「違います!確かに最初は……でも、今は……」


 言葉が途切れる。蓮は今の感情を、どう説明すればいいのか分からないのだろう。


「失望させてごめんなさい……」


 彼の声が切迫していく。だけど、俺にはそれを受け止める余裕がない。


「ちょっと、ショックみたい俺……もう行くわ」


 俺は彼を置いて、教室を飛び出した。廊下を歩く足音が空虚に響く。俺の背後で、蓮が小さく何かを呟いた。でも、その言葉を聞く余裕なんか、残っていない。


 外は雨。傘はなかったけど、構う気になれない。


 全部、あいつの嘘だったのか。それとも、途中から本当だったのか。わからない。何も、わからない。


 ただひとつだけ確かなのは、俺の中に、“あいつへの気持ち”が確かにあったことだ。


 だからこそ――今、胸の奥が、張り裂けそうに痛い。


 ◇


 雨が止んでも、俺の心の中は、まだ土砂降りだった。


 翌朝、登校しても蓮の姿はない。いつもなら、図書室にいても、購買の列にいても、どこかで自然に目に入ってきていたはずなのに――今日は、どこにもいない。


 そりゃそうか。アイツ、自分から全部壊したんだもんな。


 そう思うことで、自分の苛立ちを無理やり収めようとした。でも、どうしてか胸の奥が重い。


 教室のガヤガヤした声、部活の掛け声、昇降口の靴の音。いつもの学校の音が、やけに耳につく。


 蓮の声がしないだけで、世界がこんなにも静かになるなんて――思ってもみなかった。


 昼休み。いつものように購買へ向かうが、どうにも足取りが重い。パンを手に取って、気づく。


 あいつが、メロンパンとかいつも色々くれてたっけ。


 笑いながら、俺のこと見上げてくるあの顔が、脳裏に浮かぶ。その笑顔は、どこかぎこちなくて、純粋で、“好き”って言わずに好きだって伝えようとしてた顔に俺には見えていた。


「くそっ……」


 俺はパンを棚に戻し、購買から出た。


 放課後。バスケの練習中も、手に力が入らない。パスがズレて、村上に「おい、どうしたんだよ?」と突っ込まれる。


「いや……ちょっと、寝不足で」


 言い訳になっていないのは、自分が一番わかっていた。


 夜、布団に入っても眠れない。目を閉じると、あの指の感触が甦る。


 あいつが俺の手を取って、傷口にそっと唇を触れさせた時――なにが起きているのか、すぐにはわからなかった。だけど、舌が血をすくうように触れた瞬間、背中がビクンと震えた。


 柔らかくて、湿っていて、温かくて、それなのに……どこか、ゾクッとするような怖さもあった。


「普通じゃねぇよ、あんなの……」


 そう思ったはずなのに、今こうして思い出すと、胸の奥が妙に疼く。


 あいつの唇。恍惚とした表情。あの獲物を捕らえるような視線。血の味を分け合うみたいな、あの距離感……。


「くそ、思い出すな」


 なのに――指先が、勝手に熱くなる。


 忘れたいのに。


 俺の指を、そっと舐めた唇の柔らかさ。あの時の体温。あの問い――「先輩は、僕が誰かと付き合ってるか気になるんですか?」


「気になってたんだよ、あの時から。俺、もう……」


 自分でも気づかないふりをしていた感情が、あいつの不在でどんどん輪郭を持ち始めている。


 翌日、なぜか図書室に足が向いていた。別に用事はない。けれど、そこにも蓮の姿はない。


「なんでだよ……なんで、こんなに気になってんだ」


 美術室の前も通った。扉は閉じられたままで、カーテンの隙間からは何も見えない。


 俺はただ、校舎をさまよっていた。まるで、何かを探しているみたいに。それが”蓮”なんだってことに、薄々気づきながら――それでも認めたくない。


 あいつは、全部仕組んで俺を騙してたんだ……それなのに、なんでこんなにも、自分の一部が欠けたように感じるんだ。


 夜、部屋で剣道の竹刀を握って素振りをしてみた。けれど、手の中でそれは異様に軽い。


 部屋の隅に置いてある、あいつからもらった袋が目に入る。メロンパン。あの日もらったやつ。


 開封していないまま、乾いて硬くなっている。


「俺、……あいつが好きだったの……?」


 口に出してみたら、喉の奥が詰まった。


 まだ好きなのか、ただ怒ってるだけなのか、わからない。ただ一つだけ確かなのは――あいつがいない世界は、妙に無音で、寒い。


 村上にメッセージを返さず放置。誰と話しても、あの声がないだけで、空気が違って感じる。


「蓮……」


 名前を口に出したくない。でも、出さずにいると苦しい。


「……もう、思い出すな。終わったんだ」


 そう呟いて、俺は机に突っ伏した。


 でも――その言葉が、ほんの少しだけ”本心じゃなかった”気がして、さらに、胸が痛くなった。


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