第4章:蓮の鏡 ~夢幻のエスキース~(蓮視点)
僕の存在は、いつの間にか大和先輩の日常に溶け込んでいた。
若草の香りを含んだ風が廊下から吹き込んでくる。その風に僅かに揺れる大和先輩の髪を見詰めながら、鼓動が早鐘のように響いていく。昼休みの購買で、パンを選んでいる先輩に声をかける。
「大和先輩、このメロンパン、今日は焼きたてですよ」
「また来てたのか。そんなにパンが好きなのか?」
僕は微笑みながら首を振る。パンなんてどうでもいい。ここにいるのは、君に会いたいから。僕の瞳に映っているものが何なのか、先輩にはもう気づかれているかもしれない。
先輩が去った後、深くため息をつく。偶然を装うことに、僕は少しずつ疲れを感じ始めていた。
「計画は順調なのに……」
胸の奥がチクリと痛む。計算外の感情の芽生えに僕は戸惑っている。大和先輩の笑顔に、純粋に躍る鼓動。それは演技ではない、紛れもない本物だった。
放課後、図書室の薄暗がりで僕は囁いた。
「先輩、僕にとってあなたとの出会いは、運命以上のものなんです」
大和先輩の表情が一瞬揺れる。その微細な変化を、僕は逃さない。自分の視線が、ただの好意ではなく、もっと深い何かを孕んでいることを知っている。
「僕は、先輩の鏡になりたいんです」
大和先輩は眉をひそめた。
「鏡?」
「はい。先輩の光も、影も、すべて映し出す存在に」
その言葉に、先輩は戸惑いの表情を浮かべた。
「それって……俺のことを観察したいってこと?」
僕は一瞬言葉に詰まる。先輩の鋭い直感に、計画の一端が見透かされたような不安が走る。観察――そう、最初はそうだった。でも、今は違う。
「観察……というより、理解したいんです」
慎重に言葉を選びながら、僕は続ける。
「先輩の中にある、誰も知らない一面まで」
その言葉に、先輩は返す言葉を失った。
「蓮、お前って本当に……」
「狂ってますか?これが僕の愛なんです」
先輩は複雑な表情をしている。彼は僕の笑顔の奥に潜む狂気を見逃さなかった。しかし、僕の存在の危うさに彼の感情は揺さぶられているのを、彼は隠さない。
そして先輩が、この狂気じみた愛に、どこか安らぎを感じていることも僕は気づいていた。
◇
学園祭準備の日の朝。美術室で、僕は昨夜描き上げた大和先輩の肖像画を見つめていた。
キャンバスに映る横顔は、青嵐に揺れる体育館のカーテン越しの一瞬を切り取ったもの。汗で濡れた髪が輝き、真摯な眼差しが遠くを見つめている。
もう、隠しきれない……。昨日の放課後のことが脳裏に蘇る。
僕は、マッサージが得意だ。父にしてあげていたから、大和先輩にマッサージを頼まれた時も内心は喜んでいた。僕の特技が披露できるからだ。
マッサージの最中、大和先輩が見せた表情が僕の心を揺さぶった。背中に触れる度、先輩の呼吸が乱れ、首筋が紅潮していく。その反応は、僕の計算を超えた、演技では作れない本物の感情で、僕の心を惑わした。
「こんなはずじゃ……」
先輩の背中に触れる度に、計算された冷静さが崩れていく。温もりを確かめるように、自分の掌を見つめる。指先にまだ残る先輩の体温。
「先輩の反応は計算通り。でも、この鼓動は……」
予定外の感情が溢れ出す。大和先輩への気持ちが、観察対象から恋愛対象に変わっていき、僕の心を侵食している。もう止められない。
「計画が狂う…」
あの瞬間――先輩が眠りかけた時のことを思い出す。疲れからか、先輩は次第にうつ伏せの状態で眠ってしまった。
しばらくしても起きる気配はなかったから、僕はそっと先輩を仰向けにひっくり返し、鎖骨から腕にかけてのマッサージを続けた。
先輩の胸元、鎖骨のライン、6つに割れた腹筋が美しい曲線を描いている。彼の身体は稀に見ない芸術品だと思った。指先が先輩の肌を滑る度、微かな震えが伝わってくる。
「先輩……」
完全に眠りに落ちた先輩の寝顔は、普段の凛々しさとは違う、無防備な美しさを湛えていた。僕は気づけば、先輩の首筋に顔を近づけてしまう。甘い体温と、かすかに香る汗の匂いに理性が溶けていく。
無意識のうちに、僕の唇が先輩の首筋に触れた。そして――吸い込まれるように、深く口づけを刻んでしまう。気がつくと、そこに小さな赤い痕を残していた。
「何をしているんだ、僕は……」
震える手で自分の唇に触れる。先輩の味が、まだ残っていた。憧れが欲望に変わり、そして今、この制御不能な愛に支配されている。先輩を愛しているからこそ、こんなことをしてしまった。罪悪感と陶酔感が混在し、僕の心を引き裂く。
僕はスケッチブックを開き、大和先輩の寝顔を克明にデッサンする。まぶたの形、睫毛の一本一本、口元の緩やかなカーブまで、全てを記憶したように描いていた。
これはもう単なる記録ではない。愛する人の姿を永遠に留めておきたいという、純粋な願いだ。
「完璧……先輩の全てが、僕のものに……これは芸術でも観察でもない。これは……」
指先で絵の輪郭を優しくなぞる。瞬間を切り取った数々の素描は、観察の記録から愛の証へと変わっていく。最初は冷静に計画を進めていたはずなのに、いつの間にかこの想いはコントロール不可能なものになっていた。
「でも、まだ足りない。もっと、先輩の全てを……先輩は、僕のことをどう思っているのかな?」
僕は自分の指先を見つめる。大和先輩の肌の感触を覚えている指が、微かに脈打っていた。計算通りに動いていたはずの心が、予想外の方向に向かっている。
この日の夜から、僕は狂ったようにマッサージの練習を始めた。この練習は誰にも見せられない。
先輩の背中を粘土で創り、美しい肩甲骨と肩も再現した。スケッチブックに描いた、大和先輩の骨格図を基に。脊椎、肩甲骨、僧帽筋。ネットで拾った図とは違う――先輩だけの解剖図だった。
その模型に、レクチャー動画や書籍を参考に、想像上の背中で何度も反復練習した。先輩の骨格を傷つけないように。触れた時、逃げられないように。
欲望を理性の仮面で包み、技術に昇華しなければ――僕はただの、狂ったストーカーになってしまう。
◇
そして再び、先輩の背中が僕の前に晒される日が来た。Tシャツの裾を持ち上げて、自分で脱ぐその仕草が、悩ましくどこまでも無防備で、どこか信頼の証のように感じられる。
恥ずかしがる僕の表情を見て笑って楽しんでいるみたいだ。僕は先輩が思う、恥ずかしがり屋の僕を演じる。
今日も触れていいんだ……僕の指で。喜びが溢れ出しそうになるのがバレないように注意する。
「じゃあ……今日も頼むわ」
先輩は軽くタオルを胸に当てて、うつ伏せになる。
先輩の肌が、まるで夏の終わりの光のような香りを放つ。
部室の窓から差し込む夕日が、彼の肩のラインを橙に染めている。まるで、ギリシャ彫刻のような静けさと存在感だった。
僕にとって、先輩の背中は真実だ。触れて、確かめることができる唯一の現実。触れてはいけないと知りながら、触れることが許されてしまった罪深い夜。
手のひらにラヴェンダーオイルをのせ、両手で馴染ませて体温を移す。
冷たくないように……驚かせないように……。
僕のこの手が、先輩を傷つけることなく、違和感を与えることもないよう細心の注意を払う。マッサージは、触れるための言い訳ではない。この指先が信頼に変わるように――技術に昇華するんだ。
「蓮、上手いな……これ、本当に気持ちいいよ。それに癒される匂いだなこのオイル」
大和先輩がそう呟いた瞬間、僕の中の世界が、詩として一つ完成した気がした。
「はい。リラックス出来るようにラヴェンダーオイルにしてみました。気に入ってもらえましたか?」
「うん……凄くいい」
今日は、崩さない。触れても、理性を保つ……。
けれど、先輩の皮膚に指先が触れた瞬間、やはり心臓が跳ねた。
滑らかに動かす手のひら、筋肉の付き方を記憶するようになぞる。前回よりも深く、密着するように――。
すると、先輩がわずかに息を漏らした。
「……ああっ、そこっ、気持ちいい」
背中を押しているはずなのに、なぜか僕の身体が圧迫されて苦しい。
僕の指先が背中の中央を通るたび、汗がじんわりと浮き出るような気がした。それが熱のせいなのか、欲のせいなのか、自分でも分からない。
この熱は、誰のものだろう。
鎖骨のあたりまで手が伸びると、先輩の首筋にある、小さな赤い痕が目に入った。
前回、僕がつけた痕。
それを見た瞬間、身体の奥から何かが疼いた。証のようなものを残した事実に、恐れと高揚が同時に湧く。
「ちょっと……眠くなってきた」
先輩が少し声を曇らせて言う。そのまま、深く息を吐いて、力を抜いた。
眠った。
まただ。
僕はタオルの端を直すふりをしながら、先輩の髪をそっとかきあげた。彫刻のような端正な輪郭が、心を奪う。見ているだけで、どうしてこんなに苦しくなるのか。
ゆっくりと、顔を近づき覗き込む。
キスしたい――。
でも、それはダメだ。前回、首筋に僕の跡を残した事……どれだけ罪悪感に苛まれたか。けれど、触れたい気持ちはもう止められなかった。
僕は指先で、背中をゆっくりなぞる。肩甲骨の外側、脇腹のくびれ、背骨のライン。その指が、腰のあたりで止まった。
「……」
指先に、淡い脈動が走る。目を閉じて、その温もりを掌に刻む。それだけで、身体の奥がきゅっと締めつけられ、疼いた。
これ以上、は……ダメだ。
僕は自分を制止し、タオルを丁寧に整えて距離を取る。息が乱れていたのは僕だけだった。先輩は、穏やかな寝息を立てたまま。
安心してくれている証だ。でも、そんな無垢な姿を見るほどに、僕は自分の心の漆黒の熱を、どうしても感じてしまう。
……先輩。
その名を、声に出すことはできなかった。
代わりに僕は、また絵を描く。今夜も、この背中を――僕だけの詩として残すために。
◇
先輩の純粋な想いを感じれば感じるほど、僕の中で罪悪感が膨れ上がっていく。全ては計画通り。先輩の心を掴むことにも成功したのかもしれない。でも、その過程で予想外の感情が芽生えてしまった。
これ以上、先輩を騙し続けることはできない。
ただの憧れが、本物の愛に変わってしまった。狂おしいほどの執着と純粋な愛が混ざり合い完成した新しい形。その変化に、僕自身が戸惑っていた。
「愛しているからこそ……全てを告白しなければ。この想いが、先輩の心に届くことを……」
真実を告げれば、先輩は離れていくかもしれない。それでも、嘘の上に築かれた関係を続けることはできない。本物の愛を感じたからこそ、真実を伝えずにはいられない。
雨音が、美術室の窓を叩き始めた。
僕は決意を固める。
先輩の純粋な想いを、これ以上汚すわけにはいかない。
たとえ、この想いが届かなくても。
告白の日に、僕は何度も呟くだろう。
「先輩、僕の全てを受け入れてくれませんか?」
僕は最後に、スケッチブックの新しいページを開いた。そこに描かれたのは、告白後の大和先輩の表情。想像でしかない、その絵には悲しみと怒りが混在していた。
これが最後の肖像画になるのかもしれない。
窓の外は、強い雨。まるで、これから起こる嵐を予感させるように。
僕は、もう一度だけ先輩の名前を呼んだ。
「大和…先輩」
その声は、誰にも届かない祈りのように空に消えた。