第3章:甘い毒の指先 ~触れられた魂~
バスケの練習後。夕陽が部室の窓を染める頃、汗を拭いながら、俺は意図的に演技を始める。蓮が俺を見つめる視線の意味を、確かめてみたくなったのだ。
ちょっと、からかってやろうか。そんな出来心からだった。それに、村上の言葉が頭に残っている。蓮は本当に俺のことを、そういう目で見ているのだろうか。
「痛っ……」
腰を押さえながら、わざとらしく顔をしかめる。視界の端で、蓮の様子を確認しながら、俺は内心で笑っていた。案の定、蓮は手にしていた本を慌てて閉じ、近寄ってくる。
その足取りに混じる、いつもより僅かな焦り。普段の落ち着いた彼らしくない、その慌てぶりが妙に愛らしい。
「先輩、大丈夫ですか?」
心配そうに眉を寄せる蓮の表情が、夕陽に照らされて美しく映える。その瞳に宿る不安の色が、俺の悪戯心を少しだけ申し訳ない気持ちに変えた。
「ちょっと腰が……練習でやっちゃったかも」
俺は言葉を濁し、ちらりと蓮を見上げる。その時、ふと思いついて口にした。
「蓮、お前……マッサージ出来る?」
その瞬間、蓮の瞳に浮かんだ鋭い光を、俺は見逃さなかった。月光のような冷たさと、何か熱いものが混在した複雑な輝き。引っかかったな、と俺は表情が緩むのを我慢してポーカーフェイスを決める。どんな反応をするか楽しみだ。
しかし、この時の俺はまだ気付いていなかった。
本当に罠にかけられたのは、自分の方だったということに。
「で、できます……」
蓮の声が僅かに震える。その震えが、緊張なのか、それとも興奮なのか、俺には判断がつかない。
「でも、ここでは……人が来るかもしれませんし」
「二人きりの方がいい?今は誰も来ない時間帯だろ?」
俺は意図的に言葉を選ぶ。蓮がどれだけ自分を意識しているか、試すように。彼の頬が薄っすらと染まるのを見て、俺の心臓の鼓動が早まった。
夕暮れの部室。沈みゆく太陽が、オレンジ色の光を投げかける。時計の針は、もう誰も部活をしていない時間を指していた。校舎の静寂が、俺たちを包み込む。
シャツのボタンを一つ一つ外しながら、俺は小さな笑みを浮かべ、蓮を観察する。彼の視線が、俺の指先の動きを追っているのが分かった。その熱い視線に、逆に俺が意識してしまう。
蓮の瞳が、まるで俺の肌を舐め回すように動いている。その視線の重さに、俺の体温が上昇していく。
「じゃあ、お願いしていい?マッサージして!」
シャツを脱ぎながら、俺は悪戯っ子のように蓮にねだり、部室の隅に置かれたマットレスに寝転ぶ。内心は笑っていた。どんな反応をするか、楽しみだ。しかし、上半身を晒した途端、蓮の視線の重さを肌で感じて、俺の心拍数が上がる。
「しっ失礼します……」
その瞬間、俺の思考は停止した。蓮の指が背中に触れる。予想していなかった感覚。柔らかく、しかし確かな力加減。小さな電流が走ったような痺れが、背骨を通して全身に広がっていく。
なっ……何だ、この感覚。蓮の手の動きは慣れたもので、どこを押せば俺が心地よく感じるのか、彼は完璧に心得ているようだった。
「ここ、痛いですか?」
蓮の声が、いつもより低く、艶やかに響く。その音色だけで、俺の体が反応してしまう。
「っ……ああ」
声が上ずった。情けないことに、俺の方が動揺している。蓮の指が触れるたび、不思議な痺れが走る。
「ここが、凝ってますね……」
蓮の声が、俺の耳元で囁くように響く。その吐息が、首筋をかすめる度に、背筋が震える。温かい息遣いが肌を撫でて、俺の理性を少しずつ溶かしていく。
しかし、蓮の吐息は異常に熱い。抑えきれない何かが彼の内側で燃え盛っているかのように。
「力加減は、これくらいでいいですか……?」
蓮の指が、肩甲骨を的確にほぐしていく。その動きには無駄がない。まるで、何度も練習したかのように。指圧のタイミングも完璧で、俺は思わず小さく呻いてしまう。
「……っ」
まずい……からかうつもりが、逆に……。
「先輩の背中、とても美しいです」
蓮の囁きが、俺の理性を溶かしていく。その言葉に、俺の心臓が激しく鼓動した。背骨を1つ1つ丁寧に親指で挟み、手の平全体を脇腹に滑らせていく。その度に、俺の呼吸が乱れる。
「骨格も筋肉も綺麗すぎる……触れているだけで、幸せです」
蓮の声に込められた熱情に、俺の肌がざわめく。彼の言葉は賛美でありながら、同時に所有欲にも似た何かを秘めていた。
「肩甲骨も凄く綺麗です。天使の羽みたい……ここをマッサージすると肩凝りも良くなりますよ」
蓮の手が、俺の肩甲骨の間を丁寧に揉みほぐしていく。その感触が心地よすぎて、俺は思考能力を失いそうになる。彼の指先が肌を滑る度に、甘い痺れが全身を駆け巡った。
「先輩……もう少し奥までほぐしてもいいですか?」
蓮の手が、俺の背中の深い部分まで届く。筋肉の奥深くに溜まった疲労を、彼の指が魔法のように解きほぐしていく。俺は、快感に身を委ね、次第に睡魔が襲ってきていた。
「気持ちよすぎて……眠くなってきた」
「それは良いことです。リラックスできている証拠ですから」
蓮の声が、子守唄のように優しく響く。その声に包まれながら、俺の意識が朦朧としてくる。
俺からの罠のはずなのに……どうして、こんなにも心が乱されるんだ。蓮の手が俺の腰のくびれを撫でる時、全身に鳥肌が立つ。思わず声が漏れてしまう。
「先輩……」
蓮の声が、普段より一層甘く響く。指先が俺の背中を愛撫するように滑り、その感触に俺は身を委ねていく。
「先輩、他の人にマッサージ頼んじゃダメですよ。僕以外には、絶対触らせないでください」
蓮の声音が一瞬だけ変わる。普段の柔らかさの奥に、鋼のような意志が潜んでいるのを俺は感じ取った。その束縛めいた囁きに、俺は何か違和感を覚えながらも、深い眠りに落ちていく。蓮の言葉が呪文のように俺の心に刻まれる。
その声には、愛情と同時に、何か別の感情が混じっていた。意識が遠のく中で、「誰にも渡さない」という呟きが微かに聞こえたような気がする。
夢の中で、俺は蓮に包まれているような感覚を味わっていた。彼の手が俺を撫で回し、甘い痺れが全身を支配する。その夢があまりにもリアルで、俺は目覚めるのが惜しくなる。
目が覚めると、部室は既に薄暮に包まれていた。シャツがきちんと着せられ、肩には上着が掛けられている。母親に世話をされた子供のように、俺は大切に扱われていた。
「ん……」
体を起こしながら、俺は不思議な満足感に包まれていることに気付く。部室の鏡で自分の姿を確認すると、首に赤い痣のようなものを発見した。辺りを見回しても、蓮の姿はもうそこにはない。
この痣は何だろう。蓮がつけたものなのか。それとも、マッサージの際にできたものなのか。指で触れてみると、少しだけ熱を持っている。誰かの唇の温度が残っているかのように。
そんな馬鹿な、と俺は首を振る。しかし、心の奥底で、もしかしたらという期待が芽生えているのも事実だった。
鏡の中の自分を見つめながら、俺は違和感を覚える。自分の表情が、チョコフォンデュのように溶ろけているような……甘い毒に侵されたかのような。
数日後、蓮のマッサージは俺の疲れを癒す時間になっていた。チョコフォンデュのような中毒性があるからだ。
それは新しい習慣となった。練習後の部室。二人きりの時間。触れ合う体温。漂う吐息。蓮の手が触れる度に、心が少しずつ奪われていく――この甘い束縛に。
蓮の手が俺の体を撫でる度に、俺の心は少しずつ彼に奪われていく。そして、俺は気付いていなかった。蓮の瞳に宿る、獲物を捕らえた蛇のような輝きに。
最初は疲労回復のつもりで頼んだだけだったが、蓮の手つきは妙に的確で、指圧の強さも絶妙で――気づけば、俺の身体がその手を待っているような感覚さえ芽生えていた。
けれど、ふと思う。なぜ、あいつの手が触れると、こうも説明できない変な気分になるのか。
背中のくぼみをなぞられた時、腰骨のあたりをゆっくり圧された時、どこかぞくりとするような熱が走ることがある。
あいつの指って、こんなに冷たかっただろうか?いや、時には異常に熱い。二つの相反する温度が同居しているかのように。
心のどこかが警鐘を鳴らすような、それでも拒む気になれないような、そんな曖昧なざわめきが、確実に俺の中に根を張っていた。
それから、蓮の様子が少しずつ変わっていった。図書室での視線が、以前より熱を帯びている。購買での「偶然」の出会いが、明らかに意図的に感じられるようになった。廊下ですれ違う時も、彼の指先が俺の手に触れる回数が増えている。
そして何より、俺自身の心の中で、ある感情が芽生え始める。それは、違和感と引力が混ざったような、不思議な感覚である。蓮への想いが日に日に強くなっていく。彼の笑顔を見るだけで、俺の心は高鳴り、彼の声を聞くだけで、安らぎを感じる。
この感情が友情なのか、それとも別の何かなのか、俺はまだ分からずにいる。ただ、確かなことは、俺の生活に蓮という存在が欠かせなくなったということだ。彼がいない世界なんて、もう想像できない。
俺は、蓮の巧妙な誘導に気付かないまま、彼の世界に深く引き込まれていく。そして、それが危険だと知った時、俺はもう後戻りできないところまで来ているのだろう。
しかし、もしかしたら俺は、薄々気づいているのかもしれない。蓮の視線の意味を、彼の行動の真意を。それでも、この甘い毒から逃れたくないのだ。たとえそれが破滅への道だとしても……。