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第2章:水鏡の睡蓮 ~映し出された嘘~

 それから数日後。梅雨時期特有の蒸し暑さが午後の空気を重くし、湿気が肌にまとわりつき、制服のシャツが汗で体に張り付く。窓から湿った空気が流れ込み、梅雨独特の匂いが鼻を突く。


 俺は生徒会の書類整理の合間、中庭の様子を見回っていた。そんな中、中庭の池の縁に佇む細い背中を見つける。


「あれは……」


 グレージュの髪が湿った空気で僅かに濡れ、より一層艶やかに見えた。俺の目は自然とその姿を追う。最近よく会う。偶然にしては多すぎるが、それを不思議に思う余裕もない。


 蓮が中腰になって池を覗き込んでいる。その姿は水面(みなも)に映る自分の姿と対話するかのようだった。


「蓮」


 俺が声をかけると、蓮はゆっくりと振り向く。その動作にも品がある。


 振り向いた表情に浮かぶ穏やかな微笑み。その笑顔を見ると、俺の心が軽やかになった。なぜだろう、蓮の笑顔にはそんな力がある。


「大和先輩……どうしてここへ?」


「生徒会の見回りの途中だよ。蓮は何を見てたんだ?」


 蓮は再び池を覗き込み、俺も隣に腰を下ろす。泥で濁った池の水面に、確かに睡蓮の花が咲いている。薄桃色の花びらが、曇天の下でも凛として麗しい。


「睡蓮の花です」


 蓮の声に漂う、どこか哀愁を帯びた響き。その感情の深さに、俺は心を動かされる。


「泥の中からでも、こんなに綺麗に咲くんですね。僕も、そうありたいと思っているんです」


「そう、ありたい?」


 蓮の横顔に視線を向け、その表情に込められた何か深い意味を感じていた。


 蓮はゆっくりと目を閉じる。長いまつげが頬に影を落とし、その妖艶さに俺は息を呑んだ。


「はい。どんな環境でも、自分の美しさを失わない強さを持ちたいんです」


 その言葉に、何かを感じた。蓮の横顔が、曇り空の下でひときわ神々しく映る。この少年は、俺が思っている以上に思慮深いのだろう。


「先輩は、僕のような花を、美しいと思いますか?」


 突然の問いに、俺は少し戸惑う。蓮の瞳が俺を見つめ、その視線の強さ——まるで俺の魂を覗き込もうとするような熱を帯びた視線に心が揺れた。


「うん。泥の中でも咲き誇る姿は、むしろ純粋で……強くて美しいと思う」


「純粋、ですか……」


 蓮の唇が微かに震える。その反応に、俺の心も大きく揺れた。何か大切なことを言ったような気がして、胸が熱くなる。


 しかしその瞬間、蓮の瞳の奥に、一瞬だけ炎のような光が宿ったのを俺は見逃さなかった。それは純粋さとは対極にある、何か危険で——そして俺だけに向けられた、独占欲にも似た輝きだった。


「ありがとうございます。その言葉、大切にします」


 風が吹き、睡蓮の花が揺れる。その動きに合わせるように、蓮の髪も揺れた。蓮のこの言葉は、ただの比喩じゃない。自分自身の存在を問うものだ。俺は心の中で思う。蓮の言葉は、彼自身の魂を映し出す鏡のようだと。


 だが、その時俺は知らなかった。水面に映る睡蓮の美しさも、見る角度によっては全く違うものに見えることを。そして、蓮という少年の本質もまた、水鏡のように曖昧で、捉えどころのないものだということを。


「もうすぐ放課後ですね」


 蓮が立ち上がると、後方からの日差しが蓮を光で包み込む。


「今から図書室に行くんですけど、先輩は今日も図書室に来られますか?」


 図書室?俺は今日、図書室に行く予定じゃなかった。しかし、蓮の期待に満ちた瞳を見ていると、断る理由が見つからない。


「うん、行こうかな」


 蓮の顔が、太陽が雲間から顔を出したように明るくなった。その変化があまりにも鮮やかで、俺は一瞬めまいを覚える。


 ◇


 放課後の図書室。夕陽に染まった窓際で、一冊の詩集を手にした蓮の姿に、俺は足を止める。その横顔は絵画で見たヴィーナスのように美しい。光と影が作り出すコントラストが、蓮の美しさを際立たせていた。


 俺はその姿に見とれずにはいられない。蓮が本を読む時の表情は、普段とは違う知的な美しさがあり、俺の好奇心を掻き立てる。


 しかし、よく見ると、彼の手にある詩集のページは一度も捲られていない。同じページを見つめ続けているのだ。俺が来るのを待っていたかのように。


「ランボーの詩集か」


 俺が声をかけると、蓮は目を細めて本を閉じ、優雅に振り向いた。その動作の一つ一つが麗しい。


「大和先輩……この詩、とても素敵なんです」


 蓮の指が詩集の開かれたページを撫でる。その仕草が妖美で、俺は思わず喉が渇いた。


「お前、意外だな。詩なんて読むタイプに見えなかった」


「そうですか?」


 蓮は艶やかな唇を僅かに曲げ、意味深な微笑みを浮かべる。その表情に隠された、何か秘密めいたものが俺の関心を強く惹きつける。


「詩は、僕の本当の心を隠すにはちょうどいい道具なんです」


 その儚げな表情……少しあざとすぎやしないか?と感じてしまう。疑問が頭をよぎるが、蓮の存在感に押し流されるように消えていく。彼の言葉一つ一つが、俺の心に深く響く。


「例えば、この一節なんて……」


 蓮は朗々と詩を読み上げ始めた。その声はショパンのワルツのように美しく響く。


「『私は美しい顔の中に全てを閉じ込めることができる――あなたの欲望も、絶望も、愛も』」


 その声は陶酔していて、この世界には二人だけしかいないような錯覚を与える。俺は蓮の声に魅了され、他の全てが霞んで見えた。図書室の他の生徒たちの存在すら忘れてしまう。


「それ、どういう意味だ?」


「意味なんて考えちゃダメですよ、先輩」


 蓮、本当にこの詩を理解しているのか?と言いそうになったが声がでない。彼の指が詩集の角をなぞる仕草が異様に艶めかしく、俺は思わず喉を鳴らした。


「詩は、ただ感じるものです。心の中に何か引っかかるものがあれば、それでいいんです」


 この距離感、この雰囲気……いったい何なんだ?俺の心臓が早鐘を打つ。蓮の瞳が俺の魂を覗き込むように輝いている。


 気を取り直して、俺は会話を続ける。


「そういうものか……詩って。ランボーらしい狂気と美しさがあるような……」


 そう言うと、蓮は少し照れたように目を伏せた。その表情が愛らしくて、俺の心が大きく揺れる。詩集の余白に、鉛筆で丁寧に書き写された詩の文字が目に留まった。


「実は……」


 蓮は恥ずかしそうに、頬を薄く染める。その表情は秘密を打ち明ける少女のように初々しい。


「この詩は、僕が書いたものなんです」


「え?」


 俺は驚きで声を上げた。蓮が詩を書くなんて、想像もしていなかった。しかし同時に、ある事実に気づく。彼は最初から、俺に自分の詩を読ませるつもりだったのだ。ランボーの詩集は、ただの口実に過ぎない。


「へへっ」


 蓮は少し恥ずかしそうに笑う。その笑顔が愛らしくて、俺の心は完全に奪われてしまう。疑念など、どこかに吹き飛んでしまった。


「ランボーに影響されすぎて、つい……でも、恥ずかしいです」


「お前の詩なのか……」


 俺は驚きとともに、蓮の才能に感動し、同時に彼をもっと深く知りたいという気持ちが強くなる。少し興奮していたと思う。


「お前、凄くない?本当に驚いた。普通にランボーの詩かと思った。才能があるよ」


「本当ですか?先輩にそう言っていただけるなんて……」


 蓮の瞳が輝きを増す。その表情は星が瞬くように煌びやかだ。しかし、その輝きの奥に、満足げな光が潜んでいるのを俺は見逃した。


 俺たちは詩や文学について語り合い、気がつけば図書室の閉館時間が迫っていた。蓮の知識は意外に深く、俺は彼の博識さに感心する。


 しかし、彼の話す詩人たちの逸話には、どこか歪んだ愛情が込められているように感じられた。まるで、愛するがゆえに相手を束縛し、支配したいという欲望が透けて見えるような……。


「ボードレールは、恋人を『悪の華』と呼んだんです。美しいものほど、人を破滅に導く毒を持っているって」


 蓮の言葉に、俺は一瞬背筋が寒くなる。その言葉が、まるで俺に向けられた予言のように響いたからだ。


「そういう考え方もあるのか……」


「はい。でも、破滅するほどの愛って、美しいと思いませんか?」


 蓮の瞳が、妖しく光る。その光に魅入られ、俺は自分の心の変化を素直に受け入れ始めていた。だが、それが蓮の策略に乗せられているからなのか、自分自身の心が動かされているのか、その区別がつかなくなっていた。


 この日を境に、蓮は更に俺の生活に入り込んできた。休み時間、放課後、部活の後……気付けば、俺の視界には必ず蓮がいる。運命の糸で結ばれているかのように、俺たちの距離は縮まっていく。


 いや、正確には、蓮が意図的に距離を縮めているのだ。俺はそれに気づかず、ただその心地よさに身を委ねていた。


 しかし、水面に映る睡蓮の美しさの裏に隠された真実――それは、まだ俺の知らない蓮の本当の顔だった。


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