第15章:薔薇の棘は月明かりの詩
運命が決まった瞬間だった。俺の心の奥にあった本当の気持ちを知った蓮は、瞳に歓喜の涙を流す。もう後戻りはできない。そして、後戻りする気もない。蓮という聖なる泉に、俺は自らの意志で飛び込んだのだから。
「芸術と愛は、似ているんです」
蓮が俺の頬に触れる。その手の温もりが、俺の魂の奥まで染み込んでいく。指先に込められた想いは、まるで筆先で絵を描くような繊細さと、絶対に手放さないという強固な意志を併せ持っていた。
「対象を理解しようとすればするほど、もっと深く知りたくなる」
蓮の瞳に宿る光は狂気的なまでに妖艶で、俺はその深淵を覗き込むことに背徳的な興奮を覚える。これが愛というものの本質なのか。単なる恋愛感情を超越した、もっと危険で、もっと美しい何か。
「……お前に出会えて良かったよ」
素直な言葉が、俺の唇からこぼれる。嘘偽りのない、魂からの告白だった。蓮という存在が、俺の人生を根底から変革してしまった。
「本当ですか?」
薄闇に浮かぶ蓮の横顔が、まるで水無月の夜空に輝く星のように神秘的で美しい。その美貌に隠された狂気に、俺は完全に魅了されていた。
「お前の愛の深さも、その狂気も、全部受け止めるよ」
俺がそう断言した瞬間、蓮の瞳に涙が溢れる。それは歓喜の涙か、安堵の涙か……あるいは、獲物を確実に捕らえた狩人の満足の涙なのか。
雨上がりの湿気を含んだ空気が、俺たちの熱い吐息でさらに濃密になる。蓮の指が俺の頬を愛でるように撫でるたび、俺の心は激しく乱れた。
「もう逃がしてあげませんから」
蓮の声には、甘い蜂蜜と毒が同時に滴っていた。その脅迫めいた愛の告白に、俺の背筋を寒気が走る。しかし、それは恐怖ではなく……快感に近い何かだった。
窓から風に乗せられた薔薇の甘い香りが微かに室内に漂ってくる。棘のある美しい花……まさに俺たちの関係を象徴するようだ。
「うん、もう分かってる」
俺は覚悟を決めて答える。もう迷いはない。
俺が蓮の手を取ろうとした瞬間、逆に手首を強く掴まれる。蓮の眼差しが、獲物を捉えた美しい捕食者のように鋭く、危険に輝いていた。その支配的な瞳に見つめられ、俺の心臓が激しく跳ね上がる。
「絶対、離してあげない」
蓮の声は甘く囁くようでありながら、絶対的な所有欲に満ちている。俺の耳元で吐かれる熱い息が、心臓の鼓動をさらに加速させる。この状況に、俺は背徳的な興奮を覚えていた。
「お前の愛の深さも、その狂気も、全部……」
俺が言葉を続けようとした瞬間、蓮が俺の唇を指で押さえる。その支配的な仕草に込められた美しい暴力性に、俺の身体が震えた。
「先輩、もう何も言わなくていいよ」
蓮の言葉には、優しさという仮面を被った有無を言わせない強制力がある。俺はその矛盾した魅力に、完全に屈服していた。
蓮の指が俺の唇をそっと撫で、首筋を辿っていく。まるでキャンバスに最後の一筆を入れるような、芸術家としての繊細さと強さを併せ持つ仕草に、完全に支配されていく。
「もう、先輩から目を離しません」
蓮の瞳が危うく揺らめく。その奥底に潜む想いは、もはや狂気なのか純愛なのか区別がつかない。美しく、恐ろしく、そして抗いがたい魅力を放つ。
「24時間、365日……先輩の全てを見つめ続けます」
その言葉に込められた執着の深さに、俺は身が引き締まる思いになりつつ、同時に深い安らぎを感じる。これほどまでに欲され、愛されることの幸福。
「ああ、お前の檻の中なら、俺は自由だ」
俺がそう告げた瞬間、蓮の瞳が歓喜に満ちる。それは喜びと狂気が混ざり合ったような、危うく美しい笑みだった。
「これから先の時間も、先輩の全ての表情は僕のものです」
蓮の囁きが、夜気に溶けていく。その言葉の持つ絶対的な所有欲を理解しつつ、俺は不思議な解放感を味わう。
「そうだな」
俺の答えは簡潔だったが、その中には深い覚悟が込められていた。
「全てを差し出してくれるんですね?」
蓮が俺に顔を近づける。その美しい顔に浮かぶ表情は、まるで聖女のような慈愛と、悪魔のような誘惑が同居していた。俺はその瞬間、これまで背負ってきた全ての重荷を蓮に預けられるような解放感に満たされる。
「全て、預けるよ」
俺のその言葉に、蓮の瞳が深い満足感で潤む。まるで長年追い求めてきた宝物を、ついに手に入れたような表情。
「この唇が、先輩を汚してしまうかもしれません」
蓮の瞳がゆっくりと細められる。月明かりに浮かぶその表情は、どこか夢遊病者のように美しく、そして危険に満ちていた。
俺は蓮の手を取り、そっと自分の胸に当てる。激しく鼓動する心音を、蓮に感じて欲しい。
「俺の心音、聞こえるか?これが、お前への答えだ」
蓮の瞳に宿る光は、満月の銀色を映してなお深く、暗い水面のように神秘的に揺らめいていた。その奥底に潜む正気では計れない情熱を、俺はもう恐れることなく受け入れる決意を固める。
「美しい顔」
蓮が囁くと同時に、俺たちの間にあった最後の距離が消失する。夜の光が二人の影を床に重ね合わせ、まるで運命の瞬間を祝福するかのように美術室全体を幻想的な光で包んでいく。
蓮の手が俺の頬を包み込む。その指先は震え、まるで壊れやすい陶器に触れるような慎重さで俺の肌を撫でる。だが、その慎重さの裏には、絶対に手放さないという強固な意志が隠されていた。俺は目を閉じ、そのまま身を委ねる。
蓮が俺の唇を優しく塞いだ。それは純愛の誓いであり、同時に狂気の契約でもあった。
その瞬間、俺たちの心臓の鼓動が一つに溶け合うかのような、柔らかく、深く、永遠を誓うような口づけが始まる。俺は蓮の髪に指を絡ませ、強く抱き寄せた。
蓮の唇は思っていたより柔らかく、そして熱い。その感触に、俺の心は完全に蓮のものになったことを実感する。蓮は角度を変えながら俺の唇を味わう。まるで絵の具を丁寧に塗り重ねるように、執拗に、愛おしそうに。
軽く挟み甘噛みした下唇を解放すると、次は、蓮の舌が俺の唇をそっとなぞる。冷たく湿った感触が、火照った皮膚を這うように優しく触れる。美少年の持つ、残酷で無垢な熱……それが俺の神経の奥深くに爪を立てる。
唇の隙間から、柔らかな侵入者が忍び込んでくる。ためらいがちな進入に、俺は戸惑いながらも応える。すると蓮の身体が僅かに震え、喉奥でかすかな息が洩れる。俺はその濃厚さに驚き、座り込んでしまう。しかし、蓮は止まらない。座り込む俺から離れずにキスは続けられる。
「っ……」
互いの吐息が絡まり、美術室の静寂に微かな音が響く。夜の光が指先の震えを照らし、吐息がこの空間に甘やかに染みこんでいく。
ただ触れるだけのキスではない。それは、心の奥底まで共有するような、深く、甘美な口づけ——口の中も彼に支配されたように、熱を帯び、狂気と純愛が絡まり合うように溶けていく。
「っ……蓮……」
声にならない息が喉で震える。熱い、と思った。冷たい唇に隠されていた熱が、触れ合う瞬間を通してじわじわと流れ込んでくる。震えるほどの執着を伝えてくる。
まるで、自分の中に俺の魂を刻もうとしているように。
あるいは、俺の内側を全部奪おうとしているかのように——。
俺は気づいた。
このキスは、支配であり、契約であり、誓いなんだ。
蓮の温度を感じるたび、心臓が音を立てて悲鳴を上げる。
思考が溶ける。理性が剥がれる。
唇が離れた瞬間、細い糸のように息が繋がる。
それさえも、芸術的で、そして神聖だった。
「先輩の味……ずっと覚えていたい」
蓮の唇が離れ、俺の耳元で囁かれたその言葉に、背筋を這い上がる戦慄と快感が同時に駆け抜ける。どこか、罪悪の香りすら孕んだ甘い声。
彼の唇は、俺の瞼、頬、顎、そして……首筋へ。
そこは、以前彼が跡を残した場所。過去の背徳が、今夜の愛によって回収されていく。
その指先が髪を梳き、頬を撫でながら、俺の存在を一枚の絵画のように愛でるような手付きで包み込む。
「僕だけの先輩……」
蓮の囁きが首筋に落ちる。その声には、所有欲と愛情が入り混じった危険な甘さがあった。俺はその言葉に身体の芯が震えるのを感じる。
「もう他の誰にも、この表情は見せないでください」
蓮の指が俺の頬を辿り、唇の端を撫でる。その仕草には、芸術家が作品を完成させる時のような満足感が込められていた。
「見せないよ」
俺の答えに、蓮の瞳が歓喜に輝く。
「この顔も、この声も、この全てが僕だけのもの」
蓮の手が俺の首筋を撫で上げ、髪に指を絡ませる。その仕草は優しく、それでいて絶対に逃がさないという鋼鉄のような意志を感じさせる。
「そうだな」
俺は素直に頷く。もう抵抗する理由も、したいとも思わない。
「僕の中で、先輩は永遠に生き続けます」
蓮が俺の額に軽く口づけを落とす。その瞬間、俺の中で何かが決定的に変化した。これまでの自分が、蓮によって新しく生まれ変わったかのよう。
満月の光が俺たちを見守る中、求めあうように自然と再びキスが始まる。美術室の窓から漏れる光が、俺たちの愛を祝福するように輝いていた。まるで俺たちが歩んできた全ての時間を肯定するかのような、甘くて切ない時間。
いつまでも続くかのようなキスを終え、蓮は俺の隣に座り直し、見つめ合う。蓮の瞳の中に、未来への不安と期待が混じった光を見つめながら、俺は深い満足感に包まれる。
「これからも、僕は先輩の鏡でありたい」
蓮の言葉に、俺は力強く頷く。
「俺も、お前の全てを見つめ続けるよ」
その約束の言葉に、蓮の表情は今まで見た事が無い位の明るさを見せる。
「僕の中で先輩は、一番大切な存在です。先輩も、僕の中で生き続けてくださいね」
蓮のその言葉に、俺の心は深い感動に包まれる。これほどまでに愛されることの幸福を、初めて知った。
「でも、約束してください」
蓮の声が急に真剣になる。俺はその変化に少し戸惑いながらも、蓮を見つめる。
「もし僕の愛が重すぎて、先輩が苦しくなったとしても……逃げないでください」
その言葉には、深い不安と恐怖が込められていた。蓮の過去の経験が、そう言わせているのかもしれない。
「逃げないよ」
俺は迷わず答える。
「お前が俺を手放さないように、俺もお前を手放さない」
蓮の目に安堵の涙が浮かぶ。
「本当に?」
「本当だ。お前の狂気も、執着も、全部受け止める」
俺の言葉に、蓮は深く息を吸い込む。まるで今まで息を止めていたかのような、解放された表情を見せる。
「先輩……愛しています」
蓮が俺に寄りかかるように身体を預ける。その重みを受け止めながら、俺は蓮の髪を優しく撫でる。
「俺も愛してる」
俺の言葉が、蓮の心に届いたのを感じる。蓮の身体から力が抜け、完全に俺に身を委ねているのが分かる。
蓮が描いた840枚の絵が、静かな証人となって見守る中、俺たちは、夜空の光の下で、新たな始まりを感じながら、ただ強く抱き合った。お互いの胸の鼓動は、未来への不安よりも強い愛を物語っていた。
それは、理性と感情の境界を超えた、誓いであり、契約であり、そして永遠の詩だった。
窓辺に咲く薔薇が、夜風に揺れている。その棘のように甘くて痛い愛を、満月だけが見守っていた。俺たちの影は一つに溶け合い、まるで新しい絵画のように美しく、そこに描かれる物語は、まだ始まったばかり。
「これからも、ずっと……」
俺の言葉に、蓮が応える。
「先輩の全ての表情、全ての瞬間を、この手の中に閉じ込めていきます」
蓮の言葉が、俺の唇に消えていく。それは終わりではなく、終わることのない愛の序章。
蓮が言う『美しい顔』は、きっと俺という存在のすべてを意味している。そう思うと、なぜか少しだけ誇らしく感じる。
月明かりに照らされた美術室で、狂気と純愛が溶け合うように、俺たちの影が重なっていく。それは、芸術と愛が一つになった瞬間だった。
梅雨の晴れ間に輝く月が、俺たちの新しい物語を静かに照らし続けている。
Fin.
Tommynya
【引用出典】
• アルチュール・ランボー『地獄の季節』
• アルチュール・ランボー『イリュミナシオン』
以下は、ランボーの詩からインスパイアされた創作です。
『私は美しい顔の中に全てを閉じ込めることができる――あなたの欲望も、絶望も、愛も』
『しかし、愛は計算を超えて。私の心は、予定外の狂気に溺れていく』